爵位を捨てて駆け落ちしたはずの女伯爵、夫と娘を連れて帰還し真実を語る。
「さようなら、姉さま」
満月の夜、ポートヘイヴン経由アクアフォード行きの貨物船の中で、アリス・ギャベッジは実姉のヴェリティを空のコンテナの中へと突き落とした。
若い女性の身でありながら父の後を継いだ伯爵でもあるヴェリティの体は縄で縛られ、口元は布で縛られている。アリスに誘われて、普段は滅多に参加しないパーティーに参加して、彼女がはしゃいだ様子で持ってきたシャンパンに口をつけた。そこから、こうなるまでの記憶がない。
「んんーっ!」
──アリス、私に睡眠薬を盛ってまで、何をするつもりなの……!
口を戒められていて、ヴェリティは声が出せない。そんな姉を、アリスは冷たい目で見下ろしている。
「姉さまがいけないのよ?口うるさくて、家の財産を独り占めして、小さな頃から、いつも私の邪魔ばかり……」
アリスの歪んだ笑みには子供じみた復讐心が透けて見える。
母が亡き後、金にルーズな父に代わって、ヴェリティは女伯爵として、婚期が遅れるのも厭わず賢明に家の経済状況を改善しようとしてきた。その過程でアリスの散財を咎めたこともある。
「私の結婚まで……彼は言ったのよ。姉さまが口出しできないぐらい遠くへ行ってしまえば私達は幸せになれるって。だからね、私達は愛のために戦うことにしたの……この作戦のために、沢山お金がかかったわ」
──あの男といっしょになるために、私を手にかけると言うの。
アリスの恋人は賭博好きの軽薄な男で、ヴェリティは反対の立場を取っていた。それでも、妹がいつか結婚するときは豪華な結婚式をさせて、持参金を持たせてやりたいとは思っていた。
──私が家族のためにしてきたことは、全て無駄だったのね。
ヴェリティが行方不明になれば、当然捜査の手はアリスにも及ぶ。彼女には破滅の未来が見えていないのだと、じわじわと胸に絶望がひろがってゆく。
「大丈夫よ」
アリスは高らかに笑った。
「姉さまはね、あの成り上がり男爵のダンテ・ナヴィスと駆け落ちしたことになるから」
──ダンテ様って、あの?
ヴェリティの脳裏に、既知の商人であるダンテ・ナヴィスの顔が浮かんだ。彼はここから海を挟んだアクアフォードという街の豪商であり、異国の男爵でもある。ヴェリティは彼と何度か言葉を交わしたことがあるけれど、もちろん恋仲ではなかった。
「ダンテ・ナヴィスの帰国に合わせて、姉さまには遠くへ行ってもらうの。あの人、姉さまを好きそうだったし、姉さまだってまんざらでもなさそうだったじゃない。駆け落ちしても誰も疑わないでしょう? そうしたら、私はギャベッジ伯爵家の財産を相続して、好きな人と結婚できる」
うっとりとした表情で夢を語るアリスの笑顔は歪んでいた。
「それでは、姉さま。よい旅を」
「まっ……」
コンテナの箱が閉じて暗闇になり、アリスの歪んだ笑顔さえ見えなくなった。
──どうしてこんなことに……?
今まで自分が頑張ってきたのは全て無駄だったのかと、ヴェリティの胸は苦しくなり、青い瞳には涙が浮かぶ。けれど、誰もヴェリティの涙を拭ってくれる人はいない。
波の音を聞きながら、ヴェリティの意識は徐々に遠のいていった。
どれほどの時間が経っただろう。ヴェリティはのっそりと横揺れをする暗闇の中で、外の音を聞いた。微かに聞こえる木材のきしむ音、遠くで交わされる男たちの声、そして波の音。それらが彼女の意識をゆっくりと浮上させた。
「……本当に密航者なんているのか?」
低く落ち着いた男性の声が聞こえ、ヴェリティの意識が少しずつ戻る。箱の中は息苦しく、全身が重い。
「た……たすけて、ください……」
暗闇の中で、ヴェリティはなんとか声を絞り出した。
「中に誰かいるのか!?」
蓋がゆっくりと開いて、ヴェリティはまぶしさに目を背けた。
「……あなたは……ヴェリティ・ギャベッジ?」
ヴェリティがなんとか顔をあげると、明るい青空を背に、驚愕の表情を浮かべたダンテがヴェリティを見下ろしていた。
「どうしてこんなところに……いえ、それよりも大丈夫ですか? 今すぐ助けます」
ダンテは手を差し伸べ、ヴェリティを箱の中から慎重に引き上げた。
「ダンテ様……私……」
戒めをほどかれたヴェリティの喉はカラカラで声は震えていたが、ダンテは優しく頷き、ヴェリティの肩を支えた。
「後で詳しく話してください。まずは安全な場所に移りましょう」
ヴェリティは彼の言葉に安心し、崩れ落ちそうな体を彼に預けた。
ダンテの一等船室はバスルームと寝室、書斎、そして応接室がある立派なものだった。ヴェリティはそこに通されて、男性用のシャツとズボン、ベストを貸し与えられ、長い髪はとりあえず後ろでまとめてひとくくりにして、一息つくことができた。
コンコンとノックの音がして、軽食を持ったダンテが恐る恐る入室してきた。ソファーにちんまりと所在なさげに座っているヴェリティを見て、ダンテは深いため息をついた。
「お手間をお掛けして、なんとお詫びしてよいか……」
「……いえ、一先ず早く発見できてよかった。……説明をしていただけますか?」
ダンテの穏やかな声には、内に隠された緊張が滲んでいた。
「妹のアリスに……睡眠薬を盛られ、箱詰めにされました」
「なぜ、そんな愚かなことを……姉妹仲は悪くないように見えました」
「私が吝嗇家なことが嫌だったと」
「いやいや、まっとうな金銭感覚は女性に……いや、人間にとって一番大切なものですよ!」
「それで……」
ヴェリティは言葉を濁した。
「それで?」
「……私は、ダンテ様と、その……駆け落ちしたことに、すると」
「はあ!?」
ダンテは驚いて腰を抜かしそうになった。彼の表情には明らかな動揺が浮かんでいる。
「ごめんなさい! 本当に、何とお詫びしてよいか」
「そ……そう、ですか。ちなみに……その……ヴェリティ、あなたには……その……そういった、僕と駆け落ちしたい……願望が?」
「いえ、いえ、とんでもない!」
ヴェリティが慌てて否定すると、ダンテはなぜか、がっかりしたようだった。
「そうですか……とにかく、事情は理解しました。あなたがご無事だったことが何よりです」
──優しい……。
ヴェリティにとって、その言葉はひどく暖かかった。
「ありがとうございます……」
「いえ、その……それは、そのような卑劣な作戦の的にされた僕の態度にもつけいる隙があったので……ええと、次の寄港地で一旦降りて、郵便局と裁判所に行って、それから戻る船を手配して、大丈夫です、それには付いて行きますから」
「いえ、もう、いいです」
ヴェリティはぎゅっと、ぶかぶかのシャツの袖を握った。今頃アリスは嘘の噂を吹聴していて、戻ったとしても、名誉を回復することは困難だろう。それに今度は何をされるのかわからない。
「私、あの家には帰りません」
ヴェリティが呟くと、ダンテは少し考え込むように顎に手を当てた。そして、少しの間を置いて口を開く。
「事件にははしたくないと?」
「……もう私が不要と言うのなら、是非とも伯爵家運営をやってみて、というところです。事件が明るみになったら家の恥になりますし」
ヴェリティには、アリスが恋人とともに伯爵家の財産を手にしたとしても、彼女にはうまく扱えないだろうという確信があった。
「ふむ。それだと、あなたは泣き寝入りになる」
「命には代えられません。ダンテ様はもちろん、名誉毀損の裁判を起こしていただいて……」
「いえ。僕はしょせん異国人ですから、まあいいでしょう。あなたがこのまま船に乗る、というのならば願ったりかなったりです。その……どんな事情にせよ、あなたをこんな目に遭わせてしまった責任は取ります。何不自由なく、故郷のことを思い出せないぐらいに幸せに……」
忙しいダンテを煩わしいトラブルに巻き込んでしまったと、ヴェリティの胸はぎゅっと苦しくなった。
「ありがとうございます。……あの、恥をしのんでお尋ねしますが、何か仕事を紹介していただけないでしょうか」
「……仕事、ですか? ……では、家庭教師はどうでしょう」
「家庭教師……私に、ですか?」
ヴェリティは思わず聞き返した。自分にそんな仕事が務まるのかという不安が湧き上がる一方で、家庭教師ならば住み込みも可能かもしれないと希望が湧く。
「もちろんです。貴族としての教養を持つあなたであれば、きっと適任かと。その他にも、あなたにお任せしたい仕事は星の数ほどあります」
「ありがとうございます……なんとお礼をしてよいか」
「これもまた、何かの縁です。ようこそ、ナヴィス商会へ。あなたの豊かで幸福に満ちた生活をお手伝いいたします」
商会のキャッチコピーと共に手を差し出したダンテの自信に満ちた言葉に、ヴェリティは小さく頷いた。
船が港に着くと、澄み切った海風がヴェリティの頬を撫でた。
「これから港を出て、私の屋敷に向かいます」
ヴェリティがダンテの手を取って船を降りると、目の前には活気溢れる港の風景が広がっていた。
荷物を運ぶ労働者たちの掛け声や、波の音が絶え間なく聞こえる中、ふとヴェリティは、これも何かのきっかけかもしれないと思った。
ずっと実家のために身を粉にして働いてきたヴェリティは新しい土地での生活が、心のどこかで少し楽しみになってさえいた。
そんな彼女の思考を遮ったのは、元気な子どもの声だった。
「──ダンテ!」
声のする方を見ると、金の髪をなびかせた小さな少女が全速力で駆け寄ってきた。
「ミア!」
ダンテが笑顔で呼びかけると、彼女はダンテの腕の中に飛び込んだ。
「遅い!待ちくたびれたわよ!」
「すまない。少し手間取ってしまってね」
そのやり取りを少し離れて見ていたヴェリティは、驚きを隠せなかった。
──この子は?
「あら、ダンテ! この方は……あっ、わかったわ、この人がヴェリティさんね! ダンテのくせに、やるじゃない!」
「いや、違う! いや、ヴェリティ嬢ではあるが……!」
「あ、あの。この方は……」
ヴェリティが恐る恐る尋ねると、ダンテは困った様に笑った。
「ああ、紹介が遅れました。この子はミアといいます。私の娘……といっても、少し複雑な事情がありまして」
ヴェリティの胸に何とも言えない感情が湧き上がった。驚きと共に、ほんの少しの失望も混じっている。
──そうか……ダンテ様には、こんな可愛らしいお嬢さんが……。
ヴェリティは知らず知らずのうちに、ショックを感じていた。けれど、ダンテはただ親切にしてくれただけなのだから、変に失望するのも失礼だと、ヴェリティは気を取り直した。
「ミア、この人にお前の家庭教師を任せることになった」
「へえ~、そうなの。そういうことねぇ。わかったわ」
ミアはダンテの腕にぶら下がりながら、明るい笑顔をヴェリティに向けた。
「よろしくお願いします、ミアさん」
──不思議な巡り合わせだけれど、ここから新しい生活が始まる。
ヴェリティは心の中にわずかな期待と希望を抱きながら、二人と共に港を後にした。
時が流れるのは早いもので、ヴェリティがダンテの屋敷に住み始めてから五年が経過した。ミアはすっかり聡明な少女に成長し、彼女の教え子としての成果を目の当たりにして、ヴェリティは誇らしささえ感じるほどだ。
家庭教師だけでなく、商会の細かな業務まで手伝うようになったヴェリティは周囲からの信頼も厚く、町の人々の間では「ダンテとヴェリティが結婚するのは時間の問題だ」と噂されていた。しかし、ヴェリティ自身はその可能性に蓋をしている。
「ねえ、ヴェリティ先生」
「どうしたの?」
「ダンテと結婚しないの?」
ミアの直球すぎる質問に、ヴェリティは手元のペンを落としそうになった。
「な、なに急に……そんなこと、考えたこともないわ」
「本当?」
ミアは腕を組み、じっとヴェリティを見つめた。
「私、ダンテのことが心配で……ヴェリティ先生が一緒になれば安心だし。それに……私、先生じゃなくて、お母さんになってほしい」
ミアはぎゅっとヴェリティの手を握ってうつむいた。ダンテの実子ではなく、放浪癖のあったダンテの兄が突然連れてきた娘であるミアは、実母の顔を知らないのだと言う。
ヴェリティはアクアフォードにやって来たばかりの頃、不安に押しつぶされそうになって、夜に一人で泣いていたことがよくあった。そうなると不思議なもので、年の割にしっかり者だと言われていたミアもめそめそ泣いて「一人で寝られない」と言い出すもので、よく二人で同じ寝台で眠ったものだ。
今ではヴェリティは、ダンテとミアに対して肉親以上の愛を抱いてはいた。けれど、実の妹とすらうまくいかなかった自分が、ミアの母親になれるはずがないのだと、ヴェリティは思っている。
「ミア、それは……私はただ、この家に置いてもらっているだけだから。そんな立場で、余計なことは考えられないのよ」
ダンテとの結婚を夢見たことがないわけではない。それどころか、心の奥底では彼とミアと共に家族になれたらどれほど幸せだろうと思っている。しかし、ヴェリティにはその願いを口にする勇気がなかった。
ダンテはミアが大きくなるまでは結婚しないと決めているらしいし、何よりも自分はただの雇われ人だ。ダンテとヴェリティは恋人ではない。指輪を貰ったこともない。ヴェリティの薬指には、未だに何の指輪もはまったことがない。
「色々な問題が解決するまでは、何も考えられないわ」
ヴェリティはやっとの思いでそう答えた。
その日の夜、屋敷に帰宅したダンテは手に一枚の封筒を持っていた。
「ヴェリティ。あなたの祖国で開かれるパーティーに招待されました。もしよければ、ミアと一緒に参加しませんか?」
「え……私も?」
ヴェリティは驚きのあまり言葉を失った。ナヴィス商会は手広く商売をやっているが、駆け落ちの嫌疑をかけられてからは、ダンテ本人が国に向かうことはなく、別の人間を向かわせていたはずだった。
「もちろん。あなたは当家の一員でもありますから。ぜひご一緒いただきたい」
「わ、わかりました……。仕事であれば、ご一緒します」
ダンテがほっと微笑むと、隣で聞いていたミアが満面の笑みを浮かべた。
「やった! 三人で行くなら、絶対楽しいよね!」
ヴェリティは苦笑しながらも、心の中で期待と不安が入り混じるのを感じていた。
──ミアも大きくなった。だから、ダンテは私を故郷へ送り届けてくれるつもりなのかもしれない……。
ヴェリティはダンテが用意してくれた豪華なドレスと宝石を身につけ、ミアと共に祖国のパーティー会場へと足を踏み入れた。大人の女性らしく大胆な切込みの入ったシルクのドレスの胸元には、ドレスと同じく青紫の宝石が輝いている。
「しばらく話す相手がいるから、君たちは会場を楽しんで」
ダンテはそういって、ヴェリティにミアを託して人混みの中へと消えた。
「ヴェリティ先生、すごくきれい!」
ミアが目を輝かせながら、ヴェリティのドレスを眺めて笑顔を見せる。
「ありがとう、でも……少し目立ちすぎるかもしれないわね」
ヴェリティが身につけているのは全て、ダンテがこのパーティーのために用意したものだ。ミアとともに住む屋敷と生活費に関してはダンテが全て持った上で、ヴェリティには家庭教師としての給金が支払われていたのでヴェリティはそのお金から身の回りの品を用意すると言ったのだが、実際にミアや他のパーティーの招待客を見ると、自分の金銭感覚で判断しなくてよかったとヴェリティは心の底からダンテに感謝している。
パーティー会場に到着した彼女たちを見て、会場内の人々がざわざわと囁き合う。
「あの娘が、ナヴィス商会のご令嬢だ」
「この数年で随分成長したと……」
「隣の美しい女性は? 姉だろうか?」
「見ろ、あの胸元の宝石。あれは新しい鉱山から出た新種の宝石で……」
ヴェリティの正体について人々が囁きあう一方で、ヴェリティの目はある人物を捉えた。かつての妹アリスが、角に追いやられたような場所でドレスの裾を握りしめている。ドレスの生地はくたびれており、装飾も古びている。指先には輝きを放つ指輪の一つも見当たらず、その姿は明らかに余裕を失っていた。
──アリス……やはり、経済状況は芳しくないようね。
アリスもヴェリティの視線に気が付いた。そして、ヴェリティのドレスと宝石にも。
「……まさか、姉さま?」
アリスの口がそう動いたように見えた。アリスは険しい表情にになり、ヴェリティに向かってずんずんと歩み寄ってきた。
「ふふ、なるほどね」
アリスは口元を歪めながら、軽蔑に満ちた視線をつま先から足まで、じろじろとヴェリティに向けた。
「ずいぶんと裕福そうに見えるけど、指輪はついていないのね。金持ちの愛人にでもなったのかしら? まるで高級娼婦みたいじゃない?」
侮辱の言葉にヴェリティの顔から血の気が引いたが、反論する前に小さな声が割り込んできた。
「そんなことないわよ!」
ミアが一歩前に進み出てヴェリティの前に立った。細い体は怒りで震えているようだ。
「ヴェリティ先生には素敵な旦那様がいるわ! あなたみたいな人にそんなことを言われる筋合いなんてない! そもそも、誰よ、あなた?」
ミアの堂々とした言葉にアリスは一瞬たじろいだが、すぐに睨み返した。
「何なの、この子? 偉そうに……!」
「私は娘よ!」
「へえ……なら、こんな大きな子供のいる男の後妻になったのね」
アリスは一瞬たじろいだが、すぐに薄笑いを浮かべた。ヴェリティはその顔を見て──無性に、腹が立った。
「ミアの家族になれたことは、私の誇りだわ。血の繋がりなんてなんの保証にもならないと、私はよくわかっているしね」
「な、何よ……」
「今、私は愛する人と可愛い娘──家族と共に穏やかな生活を送っているわ。あなたも、家を守ることがどれほど大変か、今は身に沁みているのじゃない?」
ヴェリティの声には、発した本人も驚くほどの確信が宿っていた。それ以上言わなくともヴェリティとアリス、どちらが今幸福であるのかははっきりと見てとれた。
「愛する人……と可愛い娘」
頬を紅潮させながら呟いたのはミアだ。
「ねえダンテ、聞いた? 私達、ヴェリティ先生に愛されているのですって!」
「聞いていたよ、ミア」
様子を窺っていたのか、人混みの中からダンテが現れて、パーティー会場は静まり返る。
「あ、あなたは……だ、ダンテ様……」
アリスの顔が青ざめる。
「おや、どうしてそんなに驚愕した顔をしているのです?」
「だって、姉さまが、本当にナヴィス商会と……」
「おや。僕とヴェリティが駆け落ちをしたと、世間に広めたのはあなたでしょう?」
どういうことだと、周囲がざわざわとし始めた。
「アリス、あなたは五年前、実の姉であるヴェリティに薬を盛り、昏睡状態にさせた上で貨物船のコンテナの中に押し込んだ。周囲には姉が僕と駆け落ちした。と吹聴して、君はヴェリティが家族のために必死に築き上げた立場と財産を独占しようとした」
「そ……それは……」
「大事にしなかったのはヴェリティの身の安全と、妹を犯罪者にさせたくないという姉としての最後の優しさを尊重したからです。だから彼女の顔を立てて、今日まで僕はヴェリティと駆け落ちをした、という噂を甘んじて受け入れていた。けれど僕はヴェリティを危険にさらして、彼女の気持ちを踏みにじったあなたを決して許しはしない」
ダンテは静かに懐から一枚の書類を取り出した。
「それは……?」
アリスが声を震わせる。
「ギャベッジ伯爵家の所有する、土地を含む不動産の抵当権を記した書類ですよ。あなたの夫が私の商会から借金をした際に、担保として差し出したものです」
ダンテの冷静な説明に、アリスは顔を真っ青にし、言葉を失った。
「まさか……そんな、嘘よ!」
「嘘ではありません。いやあ、ポーカーが非常に下手でしたね、彼」
アリスはへなへなと床に座り込む。
「せっかく姉さまを追い出したのに……どうして、私の邪魔ばかりするのよ! 殺さないでおいてあげたのに!」
とうとうアリス本人が、自分の罪を暴露して、周囲はそれを冷ややかな目で見つめる。
「でも、姉さんは……今幸せなんでしょう。それならいいじゃない。私のことばっかりいじめて」
「アリス。妹として、大切にしたかった。……けれど、本当にさよならよ、アリス。全てを返してもらうわ」
ヴェリティの言葉に、アリスはぺたりと床に倒れ込んだ。何事かと、衛兵達が集まってくる。
「ヴェリティ、これを」
ダンテはヴェリティに書類の入った封筒を渡した。それはつまり、ヴェリティが名誉とともに伯爵家の権限を取り戻せることになる。
──これを受け取ったら、母国に帰らなくてはならない。
「私……」
今更、爵位はいらなかった。ヴェリティの望みは──本当に欲しいものは、別にあった。ためらっているヴェリティを見て、ダンテはほほえむ。
「……あなたがアクアフォードに行きたいと言ってくれた時、正直、嬉しかった。仕事で出会ったあなたにずっと惹かれていたけれど、異国の成り上がり男爵風情では、女伯爵として身を立てているあなたを連れていくことはできなかったから。僕にはミアもいたし……けれど、あなたを諦めきれずに未練を残すような態度をしていたせいで、アリスにつけいられる隙を与えてしまった」
ダンテはポケットから小さな箱を取り出した。
彼は箱を開け、中から輝く指輪を取り出した。それは、ヴェリティの瞳と同じ青い宝石が光る美しいものであった。
「あなたがすべてを取り戻して、ミアが成長して。そのあとも──まだ、気持ちがあれば。駆け落ちではなくて、一緒に行きませんか、僕たちの家へ」
その言葉に、ヴェリティは目を見開いた。
「……私なんかで、いいのですか?」
「あなた以外に考えられません。最初からね」
ヴェリティの瞳に涙がにじんだ。
「喜んで、お受けします」
ヴェリティの指に指輪がはまると、ミアがかけよってきた。
「これで、みんな本当の家族だね!」
「ミア……ありがとう」
「私ね、ずっと不安だったの。ヴェリティ先生にはもっといい人がいるから、私達みたいなややこしい家の一員にしちゃいけないんじゃないかって。でも、嬉しかった」
本当に嬉しいのは、救われたのは自分の方だとヴェリティは思ったが、涙がこみあげてきて言葉にならなかった。
数日後、三人は船の甲板から夕焼けを眺めていた。そんな中で、ダンテが呟いた。
「良かったんですか、ヴェリティ。土地を全部貸し出ししてしまって」
「ええ。国が有効活用してくださるそうですし。──どうせ、戻りませんしね」
アリスが姉を陥れた事実が明るみに出て、ヴェリティの名誉は回復された。けれど彼女は故郷に戻らすに、土地を国に貸し出し、古い屋敷だけをアリスのために残すことにした。彼女は爵位を剥奪されたが、土地の管理人という仕事が残るから、生きてはいける。
──それで、多少は自分を見つめ直してくれるといいのだけれど。
ため息をつくヴェリティの肩を、ダンテが優しく抱き寄せた。
「どこか、新婚旅行でも行きますか?」
「でも、散々仕事でいろいろな所に帯同しましたし」
「確かに、そうですね」
「今は……アクアフォードの……家に帰りたいです」
ヴェリティはそう言って、微笑んだ。これから先、何があっても、この人たちとならきっと乗り越えられる──そんな確信があった。
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