3話
私は商業ビルにイベントで出展されている絵画を見に来ていた。その絵はとても青く、またとても赤かった。その絵は見ている人の心を飲み込んで一つにしてしまう、そんな印象を抱かせるような絵であった。
隣で同じ作品を見ていた見知らぬ娘は母親と思われる人物に向かってこう言った。
「お母さん、この絵、白と黒で書かれてる!なんでなの?」
その絵の題名は「紫碧」であった。自分の目が信じられなくなった。
とても気分が悪くなった。腹の底で胃酸が沸騰を始めた。今にもマグマとなり、煮えくり返ってしまいそうである。胃腸薬という名の沸騰石をぶち込んでやりたいと思い、いつも携帯している薬の入った茶色い袋を確認し、緑色の箱の胃腸薬を取り出した。しかし、箱の中には錠剤が入っていなかった。空気を吸おうと急いでビルから出た。
「この水色の袋、落としませんでしたか?」
目の前には背の高い白髪の若い女性が息を切らしながら立っている。
「ああ、申し訳ないです、急いでいて落としてしまったのかな?」
私は自身がいかにもおっちょこちょいで落としてしまった、そういう人間なんだ、落としても仕方がないんだ、日頃からだから、そんな風に言い聞かせるような気分でそう言った。私は無害です、そんな笑顔を浮かべながら。
「そうでしたか、では」
女性はそう言っていかにも興味がなさそうな顔をし、去っていこうとした。そこでふとしたことに引っかかった。水色の袋、いやおかしい。私にはその袋は茶色に見えている。私の目はどうにかなってしまったのか。すかさずその女性にこう聞いた。
「この袋が水色に見えますか?」
女性は怪訝な顔を浮かべてこう述べた。
「ええ、水色に見えます、葡萄の色と同じ色です」
頭がこんがらがって仕方がなかった。葡萄の色は紫色であるのではないか。あの絵を見てから目がおかしくなってしまったのではないか。今すぐ発狂してしまいそうな自分の口を塞ぐために、頬を親指と中指で包み込み、こう言った。
「大変申し訳ないのですが、私にはその袋の色が水色には見えません、私には茶色に見えるのです」
「え、そうなんですか。何か目のご病気をお持ちですか?」
この女性は自身の間違いよりも真っ先に他人の間違いを指摘するタイプであるのだろう。実際、私も急にそんなことを聞かれたら相手を疑うであろうことは承知しているが、この時ばかりはなぜかそう思ってしまった。
「いや、そういうわけではないのですが」
私はそう言うと緑色の胃腸薬の箱を取り出した。
「これは何色に見えますか?」
「紫色に見えます」
やはりおかしい。まるで世界の見え方が反転しているようであった。私は動揺した。いや動揺はずっと続いている。あの絵を見てから何かがおかしい。
「病院に行ってみてはどうですか?」
「その方がよさそうですね、時間を取らせてしまい、申し訳ないです。しかし、私がこのような色の見え方が始まったのはつい先ほどのことでして」
私は何か解決の糸口を探るかのように、自分に原因がないことを主張するかのように、そう捲し立てた。
「このような絵を見たことがありませんか?」
私は美術展に掲載されていた先ほどの絵を見せた。
「紅蒼?あ、私、先ほどこの絵を見たばかりです。この絵がどうしたのですか?」
異様であった。色だけでなく、文字までもが、私とそれ以外とで見えているものが違うようであった。ここまで来ると単なる色覚障害では済まない話になってくる。
「そうですか。私にはこの文字が紫碧という文字に見えるのです。」
女性は興味深そうにこちらを見るとこう述べた。
「これ、私の勤務先の連絡先です。悩み事があればここに電話してみてください」
そういってメンタルクリニックと書かれた名刺を私に手渡し、足早に去って行ってしまった。なにか助けをその女性に求めていた訳ではないが、なぜか少し寂しい気持ちを抱いた。しかし、そこに思考を割いている暇は自分にはなかった。家に帰りたい、そう思い自宅に帰ることにした。