捨てられフーちゃん
「負の感情を、追い出す装置?」
思わず、問い返しちゃった。
「そうなんですよ、如月さん。私が勤めている研究所で、ようやく完成しまして。臨床試験を行うことになったんです」
隣の家に住む『伊賀』家の主人。私の大学時代の友達、木戸千沙……今は伊賀千沙の旦那さん。
普段はいつも気疲れして、げっそりしていることが多かったんだけど。今日はやたらと顔の血色が良いみたい。
「ほら。うちの妻はその、人にいろいろとよく当たっていたでしょう?」
「は、はあ」
ええっと、これって肯定してもいいのかな。
この人の、言うとおりではあるんだけど。千沙がこの人と結婚してから、彼女はいつもイライラとしてるみたいだった。ちょっとしたことですぐ怒ることで、近所じゃもう避けられ気味になっている。
外だけじゃなく、家の中でもそうだ。
『プレゼントも感謝の言葉もないどころか、いつもより居間を散らかしてるってどういうこと!? なにが母の日よ!』
『あなたもどうして、もっとちゃんと子育てに協力してくれないの!?』
そんな、子どもや旦那に怒鳴り散らす声。隣に住んでる私の家にまで聞こえてくるくらいだし。
「それじゃあ……その、もしかして千沙――奥さんが?」
「ええ。数日前、その装置の被験者になったのですよ。本人も鬱に苦しんでいたようで、ぜひにと希望してきまして」
この人が妙に元気なのは、そのせいかな。
でも、なんだかぞっとする話だ。
「人の心から感情を追い出すなんて。そんなことをして、何か問題は起こらないのですか?」
千沙、大丈夫なのかな。あの子も、まさかそんなことを自分から希望するなんて。
「そのための臨床試験なのですよ。もちろん人の体や心に問題が発生するなどということは、理論上起こりえません。それを立証した上で臨床試験に臨んだのですから」
……すっごく清々しい表情。
そういう問題なのかな。
人の心に、人が勝手に手を加える。なんだか、タブーに触れてるみたいな気がするんだけど。少なくとも、私はやりたいなんて思えないのに。
「実際、妻は本当に穏やかになりまして。こんな、帰宅することが楽しみになったのはいつぶりでしょうね」
本当に嬉しそうに語る、千沙の旦那さん。
さすがに、文句は言えないかな。
なんせ私は独り身だ。いつも怒っている同居人と毎日同じ家にいなければならない、そんな経験をしてるこの人にどうこう言う資格、あるわけじゃない。
でも、やっぱり……
「ただまあ、追い出した負の感情が少し想定外だったのですが」
あれ。旦那さん、少し困ったように苦笑してる。
「想定外?」
「人間の子供のような姿をしていたのですよ」
……人間の、子ども?
「そ、その、負の感情が、ですか」
「ええ、私もびっくりしたのですよ。分離した『負の感情』が、五、六歳くらいの男の子の姿をしていたんです。しかも分離されるや否や『ご主人さまの中に戻りたい』と泣き叫びはじめまして」
ご、ご主人さま? もしかして、千沙のこと?
……ちょっと待って、想定外ってもしかして。
「ま、まさかと思いますが、その子を殺しちゃうのですか?」
「い、いえ、ですから想定外で困っているのです。さすがに子供の姿かたちをしているものを処分するわけにもいかないので。当面、研究所に軟禁させています」
慌てたように両手を振り、旦那さんはそう弁明。
さ、さすがにそうだよね。
想定外って、じゃあ本来はどういう形で『負の感情』が出てくる予定だったのかな。
「まあ、もし問題が起こったら負の感情を妻の中に戻すことも考慮せねばなりませんので。元々、しばらくは残すつもりではあったのです」
「そう、ですか」
「ただまあ、今のところまったく問題はありません。むしろ良いことづくめですので、このまま妻の様子を見ることにしますよ」
にこやかに語って、立ち去っていった旦那さん。
うーん。最近隣が静かになったから、ちょっと聞いてみただけなんだけど。なんだか、とんでもなくショッキングなことを聞いちゃった気がする。
とにかく、いったん私もうちに入ろう。
ああ、今日も疲れた。
あの職場、ストレス溜まるんだよね。あの上司に、何度文句を言ってやろうと思ったことか。
――負の感情を追い出す、か。
科学技術は、そんなことまでできるようになったんだ。
あの旦那さんと結婚してから、千沙は変わっちゃった。
大学時代のころは、千沙はあんなじゃなかった。むしろ人当たりが良くて気配り上手だったのを覚えてる。サークルが同じってだけだったけど、いつの間にか私のことも〝涼子〟って下の名前で呼ぶようになって、だから私も〝千沙〟って下の名前で呼び合う仲になった。
それが、あんなになっちゃうなんて。
自分の家庭を持つって、気苦労も多かったんだろうな。独り身の私でさえ、職場でストレスが絶えないのに。
負の感情を追い出した千沙は、どうなるんだろう。
大学時代みたいな頃に、戻ってたりするのかな。それか、もっと人が変わっちゃって面影すらなくなっちゃってたりもするかもしれない。
千沙、大丈夫かな。
――それに。
追い出した『負の感情』は、どうするんだろう。
男の子の姿、か。
負の感情が、人間のような姿をしている。一体どんな子なんだろ。
負の感情っていうくらいだから、いつも泣いたり落ち込んだりしているのかな。それとも、今の千沙から追い出したってことは、怒りっぽかったりして。
まあ、自分にはもう関係のない話か。研究所に軟禁されるって話なんだし。
そのうち、落ち着いたら千沙に声をかけてみよう。……本当に別人みたくなっちゃったら、嫌だな。
◆◆◆
あれから、数日後の夕方。
「だ、大丈夫なの、千――伊賀さん」
慌てて病室に入ったけど、ベッドの上で上半身だけ起こしているケロリとした顔の千沙。
「ええ、ぜんぜん大丈夫よ涼子。ちょっと階段から転げ落ちたくらいで、大げさなんだから」
千沙、左脚の膝から先にギプスと包帯を巻いた状態で、ベッドに横たわってる。
……すごい。
最近の彼女からは考えられないくらい、明るくて穏やかな顔してる。ヒステリーを起こしていた頃なら、きっと「見舞いにくるなら、もっと早く来なさいよ! 気が利かないわね!」なんて言ってたろうに。
なのに、今はこのポジティブぶり。
……あれ。そういえば。
「……涼子?」
「……あ、ごめんなさい伊賀さん。その、名前で呼ばれるなんて」
そうだ。
結婚してからの千沙は、私のことを苗字で呼ぶようになった。私にも、もう下の名前で呼ぶのはやめてって言ってきたくらいだったのに。
「ああ、あれ。あの頃の私はどうかしてたのよ、結婚したくらいで細かいことに拘り過ぎるようになっちゃって」
「そ、そうでしたか」
「そんなにかしこまらないで。あの頃みたいに戻りたいのよ。ほら、また私のこと『千沙』って呼んで」
「……うん、千沙」
よかった、私が大学時代に知ってる千沙そのものだ。下の名前で呼び合えるのなんて、いつぶりだろ。
怪我も大したことなさそうだし、ちょっと安心した。
「大げさなものですか」
あれ、お医者さんが来た。
千沙の主治医さん、かな。なんで、こんな怖い顔してるんだろう。
「たまたま、単純骨折だったからこの程度で済んでいるのです。打ちどころが悪ければ一生後遺症が残るか、即死していてもおかしくないのですよ」
そう言って千沙を見下ろし、足の状態を確認するようにギプスの付け根に触れてるお医者さん。え、なんかすっごく深刻そうな顔なんだけど。
「あ、あの、千沙はそんなにひどい骨折だったのですか」
「いえ。先も申し上げたとおり、比較的軽度で済みはしたのです。ただ打撲痕から推測するに、ろくに受け身を取らなかったようなので」
「受け身を、取らなかった?」
どういうこと、なんだろう。
でも当の千沙はどこ吹く風といった様子で笑ってる。
「でも大丈夫だったのでしょう? 私は運が強い方ですから、この程度どうってことはありませんよ」
「もっと気をつけるべきだと言っているのです。せめて、ご自分の体をいたわるくらいは」
笑う彼女を睨みつけるお医者さん、すごく目が険しい。
「さきほどもそうです。しばらくは安静にしなければならないというのに、あろうことか勝手にベッドを起き上がって歩こうとするなど」
「だって、大丈夫ですもの。先生の治療が良かったのですから、きっと足だってもうくっついてます。痛くもありませんし」
「大丈夫なはずがないでしょう! まったく、これほど危機意識の無い患者は初めてだ」
な、なんだか大変そう。
けど、千沙の大学時代のころのポジティブさもこんな感じだったと思うんだけどな。
「失礼、ご家族の方でしょうか?」
あ。
そ、そっか。お医者さんからは、そういうふうに見られてたのか。
「い、いえ、友人です」
「そうですか。できれば、貴女からも伊賀さんに注意をしてあげてください。こんな不注意のままでは彼女、骨折だけでは済まなくなると」
「は、はあ」
う、うーん。まあお医者様の忠告は聞いたほうがいいのは、確かなんだろうけど。
「――ママ!」
あれ。
女の子の、声?
五歳くらいの女の子だ。こっちのベッドに、必死に駆け寄ってくる。
「あら、美奈! お見舞いに来てくれたのね」
「ママ、だいじょうぶ?」
「ええ、ママは平気よ。ほら、なんならもう歩いたりもできちゃうんだから」
不安そうな顔の娘を元気づけるように、力こぶをつくる真似をしてみせる千沙。美奈って呼ばれた女の子、嬉しそうに笑ってる。
あ、千沙の旦那さんもきた。持ってきてるのは、大きなキャリーバッグ?
「すまないな、千沙。入院中に必要なものをまとめるのに手間取ってしまって」
「大丈夫よ。わざわざありがとう、あなた。荷物もそうだけど、美奈も連れてきてくれて」
旦那さんも、千沙の言葉にすごく安心してるみたい。前までの千沙だったら、きっとヒステリー起こしてたろうからね。
娘さん……美奈ちゃんも、安心したみたいに笑顔でお父さんを見上げてる。いいな、なんだか理想の家族って感じ。
「如月さん、妻の見舞いに来てくれてありがとう」
「いえ、どんでもありません。千沙は同級生ですし、久しぶりに会うこともできてよかったです」
そんなに恐縮しなくてもいいのに。……あ、ちょっと前までの千沙の影響かな。
そうだ、この花束。せっかくだから、そこの花瓶に飾っておこう。
「ありがとう、涼子」
「ううん、気にしないで。本当に穏やかになったんだね、千沙」
「ええ。もう、毎日が嬉しくて楽しくて。ごめんね涼子、今まであなたにまで当たっちゃったりして」
声をかければ、朗らかな返事。なんだか、ほろっとしちゃった。
数日前に『負の感情』を切り離したなんて話を聞いた時は、怖かったけど。結果的には、良かったのかも。
私もそのうち、臨床試験に参加してみようかな。仕事のストレスがたまりすぎた時とかは。
◆◆◆
……ああ、今日も疲れた。
もう、あと曲がり角二つでうちに付く。帰ったら、ご飯食べてシャワー浴びて、もうさっさとベッドに潜りたい。
ああでも、どうしようかな。このむしゃくしゃする感じ。
気を紛らわすために、なにか漫画でも読もうかな。それか動画を観るか。
あ、そういえば新しいチャンネルの配信があるんだっけ。でもどうしよう、あそこのチャンネルの子、愚痴とかが多いから今は観たい気分じゃないかも。
……あの臨床試験、ホントに受けてみようかな。あれから二ヶ月、千沙も特に悪影響がないみたいだし。
「……あれ?」
誰だろ、あの男の子。
うちにつく曲がり角で、きょろきょろしてる。なんだか服もだぼっとしてて、千沙が入院してた時の病院服みたい。
迷子かな。
「どうしたの?」
……ちょっと声をかけただけなのに。
そんなにビクッとされるなんて。もしかして、家出?
――あれ。
この子、なんだろう。とてもつぶらな瞳。透き通るほどに真っ黒な瞳だ。気づいたら、思わず見入っちゃってた。
「お、おねえさん、だれ?」
怯えたように、後ずさりしてしまう男の子。
しまった。
声をかけない方が良かったのかな。
でもこんな小さい子供がこんな服装で、たった一人で出歩いてるなんて。迷子かどうかだけは、ちゃんと確認しなきゃ。
「ボク、お父さんとかお母さんはどうしたの?」
しゃがんで、目線を合わせた。なるべく優しい笑顔を作って、問いかけてみる。
……って、え、なんで急に泣き出しちゃうの!?
「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」
「ぐすっ……ご、ご主人さまに、あいたい」
「ご、ごしゅじんさま?」
な、なに、そのなんだか危うげなワード。この子いったいどんな育てられ方されてるの?
――あれ、待って。『ご主人さま』?
確か、千沙の旦那が言っていなかったっけ。
千沙から追い出しっていう、負の感情。
男の子の姿。
千沙のことを、『ご主人さま』と呼ぶ。
そういえば、この病院服のような服装。
「……あなた、もしかして、千沙の?」
思わず問いかけたら、またびくって震えちゃってる。
あ、でもこっちも見上げてきた。……上目遣いが、ちょっとかわいい。
「ご主人さまを、知ってるの?」
やっぱり。
もう、間違いない。
「じゃ、じゃああなたやっぱり、千沙の『負の感情』?」
こくり。
男の子はゆっくりとうなずいた。
どうしよう。
研究所から抜け出して、千沙に会いに来たってことかな。千沙の中に戻るために。
千沙の家に入れるべき?
でも、いいのかな。せっかく穏やかになった家に、負の感情を戻してしまって。この男の子が何か問題を起こしちゃったりしないかな。
――泣き声。
いけない、目の前の男の子がまた泣きじゃくりはじめてる。
「ご主人さま……会いたいよ。戻りたい、よお……」
「ま、待って待って!」
まずいまずいまずい。
こんな場面をご近所に見られたら、なんて噂が立つか!
「と、とにかく、私の家に行きましょう。私、千沙の大学時代の友達なの」
「ご、ご主人、さまあ……」
「ほ、ほらお願いだから泣き止んで。ほら、こっちだから」
男の子の手をそっと手に取る。
とにかく、なるべく目立たないように移動しよう。この家の塀沿いに、ゆっくりとうちまで――
「――あぶない!」
「え?」
男の子が、突然の大声。
反射的に前へと目を向ける。塀の隙間から飛び出していた木の枝が、目の前に。
「いたっ」
頬に、枝がかすめる。
遅かった。慌てて顔を背けたんだけど。鋭い痛みに手を当てると、指に紅い血の跡が。
「お、おねえさん、大丈夫!?」
「……え? え、ええ、ほっぺにかすり傷だけみたいだから」
「た、たいへんだ、すぐに手当てしないと、おねえさんが」
そ、そんなに慌てなくたって大丈夫だよ。
さっきまでの涙とはうってかわって、真っ青な顔で右往左往してる男の子。と思ったら、弾かれたようにこっちを見上げてくる。
「お、おねえさんの家、どっち!?」
「え?」
「……はい、これで大丈夫、だと思う」
「あ、ありがとう」
ぺたりと、私の頬に貼られた絆創膏。
急に私の家までついてきたかと思ったら、絆創膏を探して青い顔になったり大泣きしたり。それでうちに置いてあった絆創膏を差し出したら、この子の方から貼ってきてくれた。
それに指で触れながらお礼を言うと、男の子はかすかに微笑んでみせた。すこしぎこちないけど、初めての笑顔じゃない?
――千沙の、負の感情かあ。
もっと怒りっぽいのかとばっかり思ってたけど。いい子、なんじゃない?
今のところ、怒ろうとしている気配もないし。むしろその真逆の、泣き虫だったなんて思ってなかったよ。
「よかった」
男の子はそう言って、もじもじしながら俯いてしまう。
「なんだか、嬉しそうね?」
つい、そう訊ねちゃった。
負の感情だというのに、嬉しさを顔に滲ませてる。それが、なんだか引っ掛かるな。
「……守ったり治したりすることは、好きなんだ。得意じゃないけど」
はにかんで、すごく嬉しそうに答えてる。
「得意じゃない……のに、好きなの?」
「……うん」
顔を赤らめながら、頷いてうつむく男の子。
ますます、わかんないな。この子、本当に『負の感情』なの?
「……ご主人さま、は」
「え?」
唐突に男の子が口を開く。
その言葉は、すぐに湿り気を帯びていった。また、ぼろぼろと大粒の涙を零し始める。
「ご主人さま、は、ぼくを『癒し』のためには、使ってくれない、から」
「つ、使って、くれない?」
な、なんだろう。さっきから、危険そうなワードばっかり。
机の上で、つっぷしてしまう男の子。
なんだか、胸が痛い、な。
これは人間じゃない、それはわかってるのに。なのになんでこうも、この子のことが可哀そうだって思っちゃうんだろう。
「……あなた、名前はあるの?」
ふいに、問いかけてみる。
目元を拭きながら、なんとか男の子は声を絞り出した。
「……フー」
「え?」
「フー。それが、ぼくの名前」
「〝フー〟?」
ちょ、ちょっと待って。
まさか負の感情だから『負』だなんて、そんな安直な。
「それって、誰がつけた名前なの?」
「ぼくが、自分で呼んでる、だけ」
「……そ、そう」
自称だったんだ。
研究所でそんな安直な名をつけられたのかって思ったけど、そういうわけじゃなかったか。ちょっと安心したけど。
「じゃあ、えっと、フーちゃん」
思わず『ちゃん』付けで呼んじゃった。でも、この子も特に嫌そうな顔してないし、大丈夫だよね。
「フーちゃんは、千沙の……ご主人さまのところに、戻りたいの?」
「……」
「フーちゃん?」
黙ってしまうフーちゃん。
不安になって顔を覗き込んでみたら、唇を噛んでた。なにかを、我慢してる?
「……ぼくは」
フーちゃんが顔を上げると、ふいに笑顔を作ってみせた。
必死に、取り繕うみたいに。
「ぼくは、ご主人さまの役に立ちたいの」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
ご主人さまの、役に立ちたい?
負の感情が?
「だからぼくは、ご主人さまのお願いには、絶対に従うの」
「ご主人さまの、お願い?」
問い返すと、フーはこくりと頷く。
「ご主人さまが、ぼくに『出てくるな』って言えば、ぼくは従う。『人を傷つけろ』って言われれば、ぼくは傷つける」
「……ど、どうして?」
「ぼくは、ご主人さまが大好きだから」
その瞬間だけ。
フーは、本当の笑顔を見せた。悲しみも恐れもない、まっすぐな笑顔。
――思わず、背筋が震えた。
なんなんだろう、この子は。
やっぱりこんな子は、千沙の中にいないほうがいいんじゃないの?
「ちょ、ちょっと待って」
そうだ。
一瞬ヤンデレかとも思ったけど、さっきちょっと聞き捨てならないことを言ってた。
「フーちゃん。人を傷つけろって言われれば傷つける、って今言ったよね」
「……うん」
「あなたに『傷つけろ』なんて言うのは、誰?」
一応の、確認のためだ。
でもフーちゃんが、俯いちゃった。
「……ご主人さま」
「え?」
「ご主人さまが、僕にそうお願いするから」
「千沙が?」
千沙が、負の感情にお願いしてる?
人を傷つけろ、って?
それが、千沙がずっとヒステリーを起こしてた理由なの?
「どうして千沙が、負の感情であるあなたにそんなお願いをするの? それって逆じゃない?」
「……」
「だって、おかしいわ。千沙が怒ったりしてたのは、あなたのせいなんじゃないの?」
そうだよ。
普通は、負の感情である怒りが私の中にまず湧くんだ。それから、その怒りが人へ悪意を向けようとしてるんじゃないの?
傷つけろって命令してるのは、負の感情――フーちゃんの方なんじゃ?
「ぼくに、そういう力はないの」
「え?」
「ぼくは、ご主人さまの意思をどうこうすることは、できないんだ」
千沙の意思を、どうこうできない?
……フーちゃん。なんだか、すごく寂しそうな笑顔。
「で、でも。だってあなたは、千沙に嫌な思いを」
「うん。だからそういう時、ご主人さまは『怒りに変えろ』ってお願いしてくるの」
「え? 千沙が?」
どういうこと?
「千沙が、怒りに変えようとするの? どうして?」
「わから、ない。ご主人さまが、小さい頃からそうしてるんだ」
「小さい頃から?」
こくりと、フーちゃんが頷く。
「ぼくは、ご主人さまが生まれた頃から、ご主人さまと一緒にいたの」
「……うん」
「その頃から、ぼくが出てくる時。ご主人さまはいつもぼくにお願いしてきたんだ。『どうすればいいかわからないから、とりあえず怒りに変えて』って」
「とりあえず、怒りに? ……あ」
そっか。
そういえば、聞いたことがある。
人は幼い頃、悲しいだとか寂しいだとかの感情を表現する方法を知らない。だから、とりあえず全部『怒り』として表現しようとするって。
「ご主人さまが小さいころから、ずーっとそうしてきたから」
「千沙は、そういうお願いを今に至るまでも続けてたってこと?」
「……うん」
……辛い感情が出てくるたび、怒りに変える。
それが、癖になっちゃってるんだ。
たしかに、私だってそうだ。なにか面倒だったり辛いことがあった時、とりあえず誰かに対して怒って発散しようとすること、私もよくやってる。
「で、でもおかしいよ。だって千沙、大学のころは」
そうだ。
大学にいたころ、千沙はとても気配りできて印象のいい子だった。何か苦しい事があった時も、笑って周りを明るくする。そんなポジティブな子だったんだ。
なんでもかんでも怒りに変えるような子じゃなかったはず。
「う……」
え?
フ、フーちゃん! どうして泣き出しちゃうの!?
「……ご主人さまは、一時期ぼくを閉じ込めてた時があったの」
「閉じ込めて、た?」
涙を拭きながら、うなずくフーちゃん。
「ご主人さまは、ぼくが嫌いだから」
「……それは」
「ぼくが出てきた時、ご主人さまはいつも苦しい思いをするから。だからぼくを、心の奥に、閉じ込めて……『出てこないで』、って……っ」
「フーちゃん」
泣きじゃくるフーちゃんを、そっと撫でてあげる。
そう、か。
でも、そう言われれば私だってそうだ。負の感情は、気分が悪くなる。だからそれを押し込めたり、なにか別のことをして気分を紛らわそうとして……
「……フーちゃんは」
そっと声をかける。
濡れたつぶらな瞳で、私を見つめてきた。
「フーちゃんは、言ってたよね。ご主人さまの役に立ちたいって」
「……うん」
「じゃあ、ご主人さまを守るために、ご主人さまのダメな『お願い』を断ることだって、できるんじゃない?」
ぎゅ、とフーちゃんの拳が握られる。
「フ、フーちゃん?」
「ぼくは、ご主人さまに嫌われたくない、から」
……そんな、笑い方をしないで。
つらいよ。
見てるこっちが、つらくなるよ。
「ぼくが、ご主人さまのお願いを断ったら。きっとご主人さまは、ぼくのことをもっと嫌いになる」
「……そんな」
「だから、ぼくはご主人さまのお願いは、聞きたいの」
フーちゃんが、袖で目元を拭った。
そして、精一杯の笑顔を。
「ご主人さまのことが、大好きだから」
……フーちゃん。
「……でも。フーちゃんは、したいことはないの?」
「え?」
きょとんと、こっちを見つめてくる透明な黒い瞳。
ごめんね、フーちゃん。
でも、これだけは聞きたいの。
「フーちゃん自身は、なにがしたいの?」
「……おねえさん?」
「だってフーちゃん、言ってたよね。ご主人さまが『傷つけろ』ってお願いしてきたら、そうするって」
そう言ってた時の、フーちゃんの顔。
なんだか、とってもつらそうな顔をしてた。
「フーちゃんは、本当にそういうことがしたいの? お願いされたら、人を傷つけたいの?」
「……うん。ご主人さまのお願いだから、なんでも――」
「そうじゃない! 私は、フーちゃんの気持ちのことを言ってるの!」
そうだ。この違和感が、ずっとあった。
この子はたしかに、負の感情かもしれない。人や、自分自身を傷つける感情かもしれない。
でも、この子の様子を見てると、それをフーちゃん本人が望んでいるとはとても思えない。
「……おねえさん」
でもフーちゃんは、力なく笑うだけ。
「ぼくの希望なんて、ご主人さまに言うことはできないの」
「フーちゃん、お願い。私は、あなたのご主人さまじゃないの」
「おねえさん?」
ぱちぱちと、フーちゃんがまばたきをする。
「私になら、言ってもいいの。フーちゃん自身の望みを」
「……ぼくには、なにも。ご主人さまの願いなら――」
「うそ!」
そんなはずない!
自然と手が、私の頬に貼ってある絆創膏に触れた。
だって、私は知ってる。フーちゃんが『好きな』ことが何なのか。
「さっきフーちゃんがこれを貼ってくれたとき、言ってたじゃない! 『守ったり治したりすることは、好きなんだ』って!」
フーちゃんはあの時、笑顔を見せてた。本当に嬉しそうに笑ってた。
今みたいな、無理やり作った笑顔なんかじゃ、ぜったいなかった。
「……そうだよ。私がこの怪我をした時だって、そうだったじゃない」
あの時。
フーちゃんは、私に向かって「あぶない」って警告してくれた。私を、守るために。
……そうだ。
二カ月前、千沙が骨を折った時。お医者様も言ってたじゃない。
『ただ打撲痕から推測するに、ろくに受け身を取らなかったようなので』
『まったく、これほど危機意識の無い患者は初めてだ』
千沙からなくなった、危機意識。
それは、きっと。
「フーちゃん。あなたは、〝恐怖心〟も担当してるんだね」
「……」
小さくうなずく。
そうだったんだ。
フーちゃんは、なにか危ないことが起こりそうなとき、私達に警告してくれてたんだ。恐怖、って感情を使って。
私達を、守ろうとしてくれていたんだ。
「お願い。フーちゃんは、本当は何がしたいの?」
「……ぼく、は」
雫が、握りしめられたフーちゃんの拳の上に、垂れていく。
「ぼくが、ぼくの力を、傷つけることに使うように、言われるとき……っ」
「うん」
「ぼくの力が、強くなっちゃって……」
「フーちゃんの力が、強く?」
「ご主人さまは、いつも、苦しんでた……『こんなことをしたかったんじゃない』『どうしてこんなことをしてしまったの』、って……」
……そう、か。
怒りに任せて、自分や、他人を傷つけた後に強くなる負の感情。
後悔、そして罪悪感だ。
「だからご主人さまは、それも、ぜんぶ『怒り』に変えて……っ」
「……」
「自分を傷つけるのに使えって、お願いして、きたり……他の人に、押し付けるように、言ってきたり……」
自責……
そして、責任転嫁、かな。
「ぼくが、ぼくの力を『傷つける』ことに、使うと……いつも、ご主人さま自身が、傷つくことになる……っ」
「フーちゃん」
「でもご主人さまは……『傷つけることが得意なんでしょ』って、いつも……っ」
「……辛かったんだね」
「使いたく、ないよ……ぼくが得意なこと、だからって、ご主人さまを傷つける、ことに……使って欲しく、ないよぉ……」
震える、小さな肩。
そっとフーちゃんを引き寄せ、抱きしめてあげた。
「ぼくの、力……」
「うん」
「ご主人さまを、ご主人様のまわりのみんなを、守って、治すために使いたいよぉ……っ!」
「うん……っ」
……やっぱり、そうだったんだ。
フーちゃんは、私達の中にいる負の感情は、本当は優しい子だったんだ。
癒しのために、この感情を使って欲しいって思ってたんだ。たとえ傷つける方が得意でも、癒すことは不得意でも。
フーちゃんの力を間違った方向に使ってたのは、私達の方だったんだ。
「……フーちゃん。あなたを、ご主人さまのもとに帰してあげる」
「おねえ、さん」
さっきは、迷った。負の感情を、千沙の中に戻していいものかどうかって。
でも、今は確信が持てる。
「千沙には、あなたが必要なの」
フーちゃんは、涙ぐみながら何度も頷いた。
◆◆◆
「……そんな」
千沙の家。彼女の旦那さんが、話を聞いて茫然としていた。
千沙の旦那さんに連絡したら、研究所からすぐに駆け付けてきた。フーちゃんがいなくなって、研究所も大騒ぎだったんだって。
彼が帰ってきて、千沙や娘さんとも一緒に話した。フーちゃんのことを、ぜんぶ。フーちゃんは今も涙ぐみながら、私達と一緒にテーブルに座っている。
「フーちゃん、かわいそう」
娘の美奈ちゃんも、フーちゃんを見つめながら涙ぐんでる。
「――別に、戻らなくてもいいんじゃない?」
……え?
千沙、どうしてそんな飄々と言えるの?
フーちゃんのこと、ここまで聞いておいて。
「ママ! フーちゃんを戻さないとかわいそうだよ!」
「大丈夫よ美奈、ママは別に困ってはいないでしょ? 美奈だって喜んでたじゃない、私が怒らなくなって」
「でも! でもぉ……」
美奈ちゃんが、泣きつき始めてる。
なのに。なんで千沙、笑っていられるの?
「……千沙。正直、私も心配だ」
「ど、どうしたの、あなたまで」
旦那さんも、真剣そうな表情で千沙を。
「だってほら、その手」
旦那さんが千沙の手を取って……
あ、あれ。どうして、こんなにたくさんの絆創膏が、千沙の指に?
「今日だってまた、包丁で指を切ったんだろう? 気をつけた方が良いって、美奈だって言ってたじゃないか」
「このくらい、ぜんぜん平気よ。絆創膏ひとつで、もうなんてことないんだから」
「そうじゃない! 気をつけなきゃといっても、今の千沙はもう何も気をつけないじゃないか!」
旦那さん、心配そうな顔してる。
そうだった、今の千沙にはフーちゃんがいない。恐怖を感じないから、『気をつける』って感覚も湧いてこないんだ。
「ママ、戻ろう? ママが指を切っちゃうの、心配だよ」
「そんな、美奈は心配しなくていいのよ。大丈夫なんだから」
美奈ちゃん……
美奈ちゃんの瞳から、もっとたくさんの涙が。
「ママ、戻ろうよ。わたし、ちゃんとお部屋もかたづけるから。ママに怒られたら、ちゃんとなおすようにするから」
千沙の手をぎゅって握って……泣き崩れちゃった。
「もう、美奈は心配性ね。大丈夫なのよ、ママは怒ってもないんだから、美奈が怖がることなんてないのよ」
なのに、千沙は。
「――千沙、いい加減にしてっ!」
許せない。
フーちゃんがこんなに戻りたがってるのに。旦那さんも戻った方がいいって言ってるのに。娘さんだって、こんなにお母さんのことを心配してるのに。
「どうして、そんなにヘラヘラと笑ってられるの千沙! 信じられない!」
「りょ、涼子? どうしたの、あなたまで」
どうしたのは、こっちのセリフだよ!
大学時代だって、もっと人への思いやりを見せてたじゃない! なのに、どうして!
「あなたにはフーちゃんどころか、旦那さんや娘さんの心までわからないの!? あなた、そんなに人でなしだっ――」
――くいっ
袖が、引かれた? 誰?
……フーちゃんだ。
無意識かな、千沙の方を見つめたまま、私の袖を掴んでる。フーちゃんの唇は、なにかを我慢するみたいに白くなって……
そう、だった。
ちゃんと、落ち着かなきゃ。
「……千沙。あなたは今、フーちゃんを失くしてそうなっちゃってるの」
フーちゃんは、言ってた。人を傷つけるために、自分の力を使って欲しくないって。
「あなたは今、『悲しみ』を感じなくなっちゃってるのよ。フーちゃんや、家族の悲しみも伝わらない。悲しみに共感できないから、人を『思いやる』気持ちもなくなっちゃってるの」
私の中にも、きっといるはず。
ここにいるフーちゃんと同じような、私のフーちゃんが。
「千沙。フーちゃんがいなくなったあなたは、確かに怒らなくなったかもしれない。でも、そのせいで気をつける心だとか、思いやりの心までなくなっちゃったの」
きっと私のフーちゃんも、望まない。
この怒りが、千沙を、私自身を傷つけるために振るわれることが。
「……だから、お願い。フーちゃんを戻してあげて。フーちゃんのためにも、家族のためにも。……あなたのためにも」
この怒りは……人を、癒すために。
きっと私のフーちゃんも、そう使われることを望んでる。
「千沙」
旦那さんの声も、涙ぐんでる。
「軽はずみなことを提案して、済まなかった。君を被験者になどと」
「あ、あなた」
「私は、君の本当のことをわかっていなかった。ただがむしゃらに怒っていただけだと思っていたが、違ったんだな」
旦那さんの手がそっと、千沙の傷だらけの手を覆うように。
「負の感情の……フーちゃんの話を聞いて、わかった。君も、怒りたくて怒りたかったわけじゃなかったんだな」
「あ、あのあなた、大丈夫なのよ?」
「千沙、戻ろう。私が悪かった。君の気持ちにもっと寄り添うことを、私も誓おう」
旦那さんも、頬が濡れてる。
「わ、わかったわ。戻らなくても大丈夫だとは思うけど、あなたたちがそう言うなら」
……千沙。
この期に及んでも、笑ってる。なんにも響いてるように見えない。
今納得したのも、理解してくれてるわけじゃない。『戻るのがイヤ』っていう感情が、ないからだ。
「旦那さん。フーちゃんを千沙の中に戻すなら、研究所に連れていけばいいんですか?」
「……いや、今すぐ戻してあげよう。その子が千沙に触れれば、それだけで戻れるはずだ」
「そ、それだけでいいんですか?」
よかった。
座ったままのフーちゃんの肩に、そっと手を置いてあげる。
「フーちゃん、良かったね。今すぐ戻れるよ」
「……うん。ありがとう、おねえさん」
はかなげに微笑むフーちゃん。
良かった、ね。
「さあ、こちらへ。千沙も」
旦那さんが千沙を立たせてくれた。
……あ、そうだ。その前に。
「フーちゃん」
「おねえさん?」
「ほら。今のうちに、ご主人さまに言っておきたいこと、ないの?」
普通は、こんなことはできないかもしれない。
でも今なら、フーちゃんは自分の意思をご主人さまに伝えられるんだよ。
「……うん」
フーちゃんは立ちあがって、千沙と正面から向かい合った。袖で、涙を拭く。
「……ご主人さま。ぼくは、ご主人さまがぼくをどう使ってくれても構いません。ぼくに引っ込めっていうなら、従います」
「ちょ、ちょっとフーちゃん!?」
ど、どうして。
フーちゃん、さっきはあんなに言ってたのに。癒しのために自分の力を使って欲しいって。
「いいの、おねえさん。ぼくは、ご主人さまの意思をどうこうしちゃいけないから」
「……そんな」
「ただ」
フーちゃんがもう一度、千沙に向き直る。
「これだけは、言っておきたいんです。ご主人さま」
「な、なにかしら」
「ぼくは、ご主人さまのことが大好きです」
千沙は、ぽかんとしてフーちゃんを見つめるだけ。
「どんなにご主人さまに嫌われても、出てくるなって言われても、どんな使われ方をされても。それでもぼくはずっと、ご主人さまのことが、大好きです」
「……」
「それが、ちゃんとこうやって伝えられた。それだけで、ぼくは満足です」
だめだ。視界が歪んじゃう。
ちゃんと、見届けないと。フーちゃんが戻っていくところを。
「……ねえ、千沙」
「な、なに? 涼子」
「せめて、この子を抱きしめてあげて」
「え、ええ」
きっと今の千沙にはわからないだろう。
でも、きっとわかる。フーちゃんが戻っていった後になったら、きっと。
「ほら、おいで」
「……ありがとう。ご主人さま。おねえさん」
手を広げて待ち構える千沙。
フーちゃんは、最後に……本当の笑顔を見せて。
千沙の腕の中に、抱き着いていった。
ばいばい、フーちゃん。
「……あ」
部屋の中が光に包まれたあと。
千沙は、抱きしめる体制のまま虚ろに声を漏らした。
「あ……あ、あああ……っ」
「千沙!」
千沙の様子が、おかしい。
自分の両手を見つめて、こんなに震えて。
「千沙、大丈夫?」
「どう、して……」
……え?
千沙、どうしてそんな目で、私達を睨んで。
「どうしてちゃんと言ってくれなかったの!? あの子のことを邪険にしちゃったじゃない!!」
「ち、千沙」
「あなたも、美奈も! なんで私にちゃんと言ってくれなかったのよ! 私、あの子のことこんなに傷つけちゃったじゃない!!」
千沙……戻ったんだ、気持ちが。
でも。
「あんたたちがちゃんと言ってくれれば、あの子をちゃんと送れたのよ! なんであんたたちはそう気が利かな――」
「千沙、だめっ!」
思いっきり、千沙に抱き着く。
だめだ。
今の千沙は、ぜったいに止めなきゃ。
「フーちゃんのこと、そんなふうに使っちゃだめ!」
「!」
千沙の動きが、止まった。
大丈夫だよ。
今の千沙なら、ちゃんとわかるはず。フーちゃんのことを思いやれるあなたなら、きっと。
「たしかにフーちゃんは、言ったよ。自分をどう使っても、あなたの自由なんだって」
「……っ」
「でもね。知ってる? フーちゃんはさ、負の感情なのに一度も『怒り』はしなかったの」
千沙に邪険にされることを、悲しんではいた。これ以上嫌われることを恐れてもいた。
でも、一度だって怒ったりはしなかったんだよ。千沙にはもちろん、他の誰にも。
「フーちゃんは、傷つけることはイヤなんだよ。口ではなんて言ってたって、守るために、治すために使って欲しがってるんだよ」
「……フー、ちゃん」
「千沙。それでも千沙は、そんなふうにフーちゃんを使いたいの?」
千沙の表情から、怒りが抜けた。
みるみる、涙が溢れてくる。
「フー、ちゃん……ごめん、ごめんね……っ」
……千沙。
旦那さんと娘さんも、寄り添ってくる。
「千沙。すまなかった。辛かったんだな」
「ママ。ママぁ……」
「あなた……美奈」
穏やかな顔になった、千沙。
みんな、涙を流しながら、抱きしめ合ってる。
よかった。ほんとに、よかった。
……フーちゃん。
きっと私の中にも、いるんだよね。
今まで邪険にしちゃってて、ごめんね。
でも、ほら。
今、あなたのおかげで私、助けることができたよ。この家族を。千沙のフーちゃんを。
えらかったね。
ありがとう。
◆◆◆
例の研究所で作られた装置は、開発中止になった。
千沙の一件で、色々と問題が発覚したんだろう。
きっと、その方がいい。フーちゃんは、ご主人さまから離れることなんて望んでない。私達にだって、フーちゃんは必要なんだ。
あれから伊賀の家は、本当の意味で穏やかになった。
お互いを尊重しあい、思いやりあう。前みたいな危なっかしくて、機械に頼った偽物の絆なんかじゃない。本当の絆で、結ばれたんだ。
雨降って地固まる、か。
でもその雨を降らせてくれたのは、フーちゃんだ。
フーちゃんが、涙っていう雨を降らせてくれたから。だから、千沙の一家は固まったんだよ。
よかったね、千沙のフーちゃん。
きっと千沙は、もうあなたを傷つけるためには使わない。ちゃんと、守るためや癒しのために使ってくれるはず。
私はいつも通り、仕事に振り回される日々。
でも、今の私はこれまでとはちょっと違う。
辛いことがあっても、それを投げ出したいとは思わなくなった。
だって。
私が辛いときっていうのは、フーちゃんが出てきてくれてる時だから。
きっと私のことが大好きなフーちゃんが、私に寄り添ってくれている証拠だから。そう思うと、辛くはなくなる。
私の中にいる、私のフーちゃん。
フーちゃんは、私を守るために存在してくれてるんだよね。
きっと、『負の感情』だなんて呼んでしまうこと自体が、間違ってるんだと思う。
そんな、マイナスイメージな呼び方をしちゃうから。危険なものだって思い込んでるから、だからフーちゃんを抑え込んだり『対処』しようと考えたりするんだから。
だからフーちゃんは、自分で自分を『負ちゃん』だなんて卑下しちゃうんだ。
だから私は、あの子を受け入れてあげようと思う。
怒ったり悲しんだり、怖がったり。
そんな時、あの子が私達のために出てきてくれてるんだから。私たちの役に立ちたいって、ただそれだけの一心で。
だから。
私はあの子のことを、ちゃんとした方法で使ってあげたいと思う。
人や自分を、傷つけるためじゃなく。
人を、自分自身を、癒すために。
きっとあの子も、それを望んでるはずだから。
そして、もしそういう使い方ができたら。
その時は、あの子に言ってあげるんだ。
きっとあの子が、本心では私に言ってもらいたがっているだろう、あの言葉を。
――〝えらかったね、ありがとう〟って。
参考文献:臨床心理士Nick Wignall「Stop Calling Them Negative Emotions(負の感情と呼ばないで)」