174.リーゼの正体
目の前が真っ白になる。身体から重さが消えて、何も聞こえず手に触れる感覚さえも無い。
ただ、寒い。姉さん……寒いよ。怖いよ……。
不意に――
頭の中にあの人の声が響いた。冷たく、感情がない。氷の切っ先を心臓につきつけられたみたいに。
「リーゼさん……私は悲しい。貴女なら、メイヤさんを説得してくれるのではと思っていました。信じて聖女にとりたてて、私の理想とする世界をともに作り上げると願っていました。だから……貴女を大司教に任命しました。なのに……人の姿をした獣らと手を結ぶとは……」
聖王様。わたしも獣人や魔族や亜人種を恐れてきました。けど、こうして話し合いができる人たちもいるんです。
「忘れてはいけませんよ。神を持たぬ者たちに救いは存在しないのです」
神の救いだけがすべてなのですか? 人が人を救う世界はいけないのですか?
「人間以外の種族にとって、唯一の救いは再生無き永遠の死のみですよ?」
聖王様……いいえ、聖王。あなたは……間違っています。弱き者を救うのが聖教会と光の神の教義のはずです。
「矛盾はありません。この世界で人間こそがもっとも脆弱なのですから。平和を脅かす異物のすべてを排除し、純化した世界こそ光の神が望む理想郷なのです」
わたしも……あなたに救われた時には同じように思っていました。けど、ただ……わたしは知らないだけだった。
あなたはどうして、異なるものを理解しようとさえしないのですか!?
「なぜ、理解する必要があるのでしょう。それよりも、今、あなたの目の前には皇帝を僭称する愚者がいます。聖女の力でこれを倒しなさい」
この、分からず屋! わたしは、あなたには協力しません。
「おかしいですね。先日は、私のために戦ってくれたというのに」
戦う? いったい、なんのこと?
「ああ、そうでしたね。貴女の精神に負荷がかからないよう、心を凍らせ記憶も封じていたんでした」
わたしの記憶を……消したんですか?
「リーゼさん。貴女は私から逃れることはできません。祝福を受けた神の子となったのですから。思い出してください……大霊峰での出来事を」
白い視界が吹き飛び、わたしは白銀の峰にそって……空を飛んでいた。
背中に翼の存在を感じる。羽ばたくことなく浮かぶ。
わたしの前には、視界を覆うほどの群れ。群れ。群れ。
竜だった。生まれて初めて竜を見た。
竜たちがブレスを放ち、牙を剥きツメを振るう。
どの攻撃も人間が受ければ即死は免れない。
なのに、熱線をはじき返し、鋭い刺突も切り裂く一撃も、竜の攻撃は阻まれる。
わたしの両腕は銀水晶に変化していた。
指先を振るえば白刃が天使の輪となって、一が十となり百へと増えて飛ぶ。
目の前に集まった色とりどりの竜の群れを……空中でバラバラに分解した。
赤ワインの樽が破裂したみたいに、冠雪が真っ赤に染まる。
なにがどうなっているのかわからない。嫌……殺したくない……殺したくないのに。
地上の竜の群れを光線で焼き、光輪が取り囲む飛竜たちを切り裂いた。
最後の一匹が、わたしの心に問いかける。
『なぜ、こんなことをするッ!?』
桜色の鱗を持った、雄々しき竜だった。その鱗の色が白磁のように「白」に染まる。
わたしは答えられない。
限りなく純白に近づいた雄竜が、風よりも迅く、わたしに近づきツメで一閃した。
胴体を二つに切り裂かれても……わたしは少し欠けただけだ。
全身を銀水晶の鎧で包んでいるんじゃない。
わたしの全身は銀水晶そのものを削り出した、人形のような姿をしていた。
驚き目を丸くする雄竜の瞳に映る姿は、天使の彫像だ。
わたしは……白化竜の首を光刃で切り払う。
巨大な影がどさりと地上に堕ちた。
顔を上げると、大霊峰の頂上が蠢いた。
山嶺から地平まで、悲しげな咆哮が鳴り響く。
わたしは大地の一部のような巨大な白い竜に向かい飛ぶ。
そう……なんだ……。
わたし……だったんだ。
目の前の光景は消えて、再び男の声が響く。優しく、包み込むように。
「たった一人で百竜を打ち倒し、大霊峰の頂上に巣くった邪悪な巨竜を成敗したのです。私は誇らしい」
ドラミさんの故郷を襲って、皆殺しにした。
わたしが……わたし……が。嫌……嫌ッ! いやあああああああああああッ!!
「何を嘆くことがあるのですか? 立派に役目を果たしたのですよ? 貴女こそが人間の守護者。聖天使リーゼなのです」
どうしてこんなことをしたの!? 望んでない。
「世界を守るお手伝いをしてくださると、言ったのは貴女ではありませんか?」
……守る……なんて嘘です。
「竜が力を取り戻す前に、聖王国の脅威を取り除けたではありませんか」
わたしは……どうしたら……。
種族の垣根を越えた世界を目指す……そう、心に決めたのに……。
「竜を絶滅させた貴女らしくありませんね」
わたしが世界を……壊した……。
「本当は貴女の意思でその力を……解放された真の聖女の天使化能力を使ってほしかったのですが」
嫌……こんな恐ろしい力……わたしはいらない! 聖女の力は弱っている人を……困っている人々を救うためのものなのに……。
「今一度、心を無くしてもらうよりほか、ありませんね」
目の前に聖王が現れる。
「魔帝都にも人間は住んでいるでしょうが、彼らは光の神への信仰を失ってしまいました。一度、浄化の光に焼かれて身を清める必要があります。お手伝いしてあげてください」
嫌……嫌ッ!
「さあ、再び聖天使となって、この不浄なる獣の巣窟を……魔帝都を滅するのです」
動けない私の胸に男の腕が吸い込まれ、心臓を抜き取られると――
わたしは指先から銀水晶状の硬化していった。
意識が……消える……。
痛みも恐怖も無くなっていく……。
助けて……姉……さん……。