07 女中が伝授するお作法
「もう、大丈夫?」
獣道から山道に戻ると足場がよくなり、やっと喋る余裕ができた。アンリが馬の速度を緩めると、エマが振り返る。
「多分ね。深追いされる理由もないと思うし… あの二人は?」
アンリも後ろを振り返るが、蹄の音は聞こえなかった。
森の西側が小高くなっているため、日没前のはずだがもう暗い。
「そのまま温泉郷まで走って、と言ってある」
アンリは、前に座るエマを引き寄せ、後ろから抱きしめる。
「先に行って、と言ったら、行って欲しかったな… だけど、アレに助けられた。何で、煙玉なんて持ってたの?」
「けむりだま? 煙幕弾のこと?」
エマも、右肩に乗るアンリの顎を引き寄せ、頬擦りする。温かく、髭で少しざらざらする。
「煙幕弾… まさか、ニーレイから買った?」
アンリは驚いて、エマから顔を離す。
「作ったの。秋祭りのパレードの演出に煙を使いたくて… 濃さとか大きさとか色とか、既製品では折り合いが悪かったから…」
話の雲行きが怪しくなり、エマの語尾が小さくなる。
「…それで、出発を遅らせて、ホテルの裏の納屋にこもってた?確かに火薬臭いと思ってたよ」
「予定外だったけど、役に立った?」
エマの後ろから返事がない。
「ありがとう…火薬なら僕も扱えるから今度からは相談して。危ないから」
アンリの答えは、暫くの沈黙の後に返ってきた。
「心配させてごめんね…ありがとう…」
アンリに咎められると思ってエマは黙っていたが、この沈黙は咎められるよりも心が苦しくなった。
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温泉郷の入り口の小さな跳ね橋が見えて来る。日没と共に、橋を上げるのだが、エマとアンリの到着を待っていたようだ。
外濠の石垣に赤髪の青年が片膝を抱えて座っている。
エマらに気づくと、腕を上げ合図する。
跳ね橋を渡り、アンリが先に降りるとエマを下ろす。
「お待たせしました。ご無事で何よりです」
カミーユが口を開くより先にエマが言った。
カミーユは片膝をつき、エマの手を取り口付けると、確かめるようにエマを見つめ、無邪気に無事を喜んだ。
温泉郷の人々は、カミーユから聞いたのか、エマらの到着に歓喜した。
この温泉郷はエマが幼い頃は、一軒の温泉宿があるだけの集落だった。エマが12歳の頃、裏山に湯の湧く泉を見つけ、保養施設を作り、そこへ湯を引くように提案したことで発展し、ラトゥリアの新しい保養地になった。
ドポム家が出資した保養施設は、グランホテル・シエンタの半分ほどの規模で、貴族の長期滞在向けでグランスパ・シエンタと名付けられた。また、周辺に市民が日帰り又は宿泊できる温泉宿を作るために融資をし、今では十軒ほどの宿が並んでいる。
人々の歓待の後、グランスパ・シエンタの女中頭に部屋に案内され、荷物を運び込む。
女中頭はじっとエマを見つめ、部屋から動かない。
「…ありがとう。荷物は少ないから、大丈夫よ」
エマが女中頭に言う。
荷物は馬車の別便で先に届いている。
「エマニュエル様、私はここの女中頭のサリーと申します。今回はアンリ様からお部屋の手配を承っているのですが…」
エマは単なる挨拶ではないと察し、長椅子に腰掛け、サリーを見つめる。
「アンリ様は、三階の角部屋を侯爵に、続きの小さな部屋を侯爵の騎士様に、二階の角部屋にエマニュエル様を、続きの部屋をアンリ様に、と。本来なら、エマニュエル様とアンリ様は別のお部屋だったのですが、侯爵のお部屋はご予約になく…」
「ええ。構わないわ。それに、私たちよりもベントレ卿の方が上階であるべきね… でも…それならここは、ベントレ卿の部屋なのでは?」
「はい。実は、先にお越しのベントレ侯爵様から、部屋を変えるように指示があったのです。ベントレ卿が自分の部屋をエマニュエル様に、と」
「それで…?」
「ベントレ卿は、ここの続きの間で構わない、と仰いました。しかし、私どもは存じ上げています。アンリ様は、エマニュエル様の許嫁になられるお方でしょう?」
「…」
許嫁という言葉がエマには生々しく、頬が火照る。
「ほら、サリーさん、やっぱり、あの赤髪が嘘ついてるだよ。あの男、押しの強いのは、あたしらにだけじゃない、エマニュエル様にちょっかい掛けようってんだ」
女中が口を挟む。
「ちょいと、お前、言葉が過ぎるよ… エマニュエル様、お荷物はここじゃなく、下のアンリ様のお部屋に運びましょうか?」
「ええ。下の部屋で待つわ。ベントレ卿の護衛はどうする?」
「一階の部屋に移ってもらいましょうか。そこしか今日はもう部屋がありませんから」
三人で頷き合うと、静かに部屋を移ることにした。
「軽食はお部屋に運びますよ?エマニュエル様は、赤髪と顔を合わせない方がいいと思うです」
女中が、荷を解きながら、訳知り顔で言う。
「ええ、ありがとう。でも食事をする時間はないわ。着替えたらラウンジに降りたいし」
「あの手の男はしつこいから。お嬢様は、ラトゥリアのお貴族様や。あしらい方をご存知でないのやろう。ああいうのは、顔にワインの一杯二杯かけてやらにゃ、思い上がるだけ。シェラシアの男は諦めが悪いから、きっちり見せつけてやらんと。私は、シェラシア出身なんです」
女中は、突然饒舌になった。
「えっと、ワインを掛けるのは、赤でも白でもいいの?」
エマが知りたかったあしらい方の話だ。思わず食いつく。
夜会で贈る耳飾り、腕飾りに意味があるぐらいだから、シェラシアでは事細かに意味が決まっているに違いない。
「そりゃ、赤の方が効果的でさ。あんたと一緒になるくらいなら死んだ方がマシ、の意味ですわ。白は、二度と顔を見せるな、の意味ですがね、まあ、三日も経つと男は性懲りも無くまた顔を見せます」
女中はテキパキと替えの服を用意し並べると、足湯の準備をする。
「おい、お前さんはワインを掛けるかもしれないが、貴族の方はお作法が違うのではないかい?間違ったことをエマニュエル様にお伝えするでないよ」
サリーは湯を持ってくると、女中を窘める。
「サリーさんは、お貴族様のお作法を知ってんのかい?」
「まあ… ここでも、何人もの貴族のお嬢さん方がおやりになるのを見てますよ」
「え?何をしたらいいの?教えて!」
エマも食いつく。
「エマニュエル様には、難しいでしょう。既婚のご夫人がシェラシア男をあしらうときは、膝で下から蹴り上げるんです。男のあそこを」
「サリーさん!それは、最後の手やないの。もっと他にあるやろ?」
「う…ん、そしたら。あれは? 手に口付けなさろうとするときに、頬を引っ叩く?」
サリーと女中は、今までにこのスパで起きた珍事件をエマに話すと、三人で大笑いした。
「…ありがとう。でもどれも、私はやれそうにない…他に思い出したら、また教えてね」
「そうそう、エマニュエル様、シェラシアで、あたしらも貴族の方も同じ作法のがあります。好いた男が、手に口付けするときに、手を少しだけ傾けて人差し指をほんの少しだけ相手の顎に掛けなさるといい」
「それは…どう言う意味なの?」
「口付けのおねだりさね」
女中がにやりと笑う。
「そうです。チュっとするだけじゃなく、もっと…あれな口付けのおねだりです」
サリーが小声で補足した。
「え?!」
エマは、思わず両手で口を覆う。
「… エマニュエル様、それぐらいさせてあげないと、アンリ様も可哀想やないですか…」
女中がニンマリ笑う。
「これ、シェラシアとラトゥリアは違うんだから… そういうのは、お二人のいい頃合いでしたらいいのよ」
女中たちとの会話で、エマはすっかり寛いだ気分になり、つい先ほどの逃亡劇で緊張しきった身も心も落ち着いた。




