03 跪いたままではさせない
「あぁ、疲れた…」
エマがバルコニーの椅子に腰掛けると、アンリが飲み物を持ってやって来た。
バルコニーの前にはホテルの庭が広がり、点在する燭台の灯りを頼りに貴族や商人たちが散歩するのが見える。
大広間を出た人々は、この庭やラウンジでまだ酒を飲みながら、お喋りに高じているに違いない。夜の静けさの中に、時折、笑い声や高らかな話し声が響いてくる。
ホストのエマとアンリは、夜会の間中、ひっきりなしにあちこちから声を掛けられ、貴族や商人と話し込んでいた。一区切りつけてバルコニーに逃げ出した時には、日付けが変わろうとしていた。
「エマは本当に人望があるね… 商人の連中はみな、エマの崇拝者じゃないか」
「昔馴染みだからね… 最近は、ニーレイのおかげで、知り合いも増えたし」
二人とも喋り疲れて喉が渇き切っている。
エマはアンリの持ってきたグラスの酒をごくりと飲み下したが、それは果実水だった。アンリの顔をちらりと見やると涼しげに微笑んでいる。兄の差し金のせいだ。
「昔馴染みね… まるで、娘か孫娘の恋人を見るような厳しい目で見られるのは勘弁だなあ…」
「ふふ、可愛がってもらってる証拠ね」
「僕も、エマを可愛いがってるつもりだけど?」
「ありが…」
エマが返事をしかけると、アンリの唇がエマの頬に触れた。
「… ありがとう… 」
「もっとしても?」
エマの心臓が早鐘のように鳴る。もし、アンリが真剣な眼差しを向けているなら、きっと頬だけでなく、アンリの望むものを何でも差し出してしまうだろう。
ゆっくりとアンリに視線を向ける。
いつものおどけたような優しい眼差しだった。安心したような、物足りないような複雑な気持ちになる。この表情は、きっと『まだ早い』とエマが返すと思っているのだろう。
アンリにはいつも余裕があって、数歩先からエマを振り返っているような感じだ。もっと、と言ったら彼はどんな反応をするのだろう、とエマは考えを巡らす。
「… 後でね?」
エマは含みのある表情を見せる。アンリをからかって、その余裕を揺るがしてやりたい。
「…あぁ… 後で…ね…」
予想外の反応に面食らったアンリの顔を見ることができ、満足したエマは声を顰めて笑った。
コンコン
バルコニーの入り口に使用人が立っている。
「エマニュエル様、お手紙が届いています」
使用人が、封筒を持ってくる。
エマが受け取り、裏を見ると、カミーユの名が書かれている。
封を切る素振りを見せると、アンリが懐からナイフを取り出し開封して、エマに封筒を返す。
「…これ… 」
カードを読んだエマは、頭を抱える。
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But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow’st;
Nor shall death brag thou wander’st in his shade,
When in eternal lines to time thou grow’st:
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
Eternal love,
C
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「変なこと、書いてある?」
アンリが心配そうにエマの顔を覗く。
「…見せるのは、お行儀が悪いからやめておくけど、有名な詩の、引用、というかむしろ、抜粋… 内容は、君の美しさは色褪せない、詩の中で永遠に生き続ける、と。」
「あぁ… ソネット18番? ベタだな。きみは夏のようだって? エマは…こういう恋文をもらうこと、よくあるの?」
「まさか!」
エマは、顔を赤らめて首を横に振る。
「トゥルバドゥールに貰ったのが初めてよ。あなたの変型四行詩は気に入ってたわ」
「変型四行詩?! お願い… 文型とか、文学的な分析はしないで… 恥ずかしくなるから…」
アンリは肘を膝について頭を抱える。
「え? 貰った詩のカードは額に入れて寝室に飾ってるわ。書体も美しくて鑑賞向きよ。一番気に入ってるのはね、『矛とならん月とならん きみの歩みを導かんがため 盾となら…』」
アンリの反応を楽しむように、エマは暗誦する。
「わかった! ありがとう! 誦じられるほど、気に入ってくれて…」
長い指の隙間からアンリがエマを覗く。
「後で気がついたの。あなたが不憫なジャンとして馬で駆けてくれた後に貰ったのが、この詩で、その時のこと詠んでくれたって…」
「… もう… 読んだら燃えるような仕掛けをしておけばよかった…」
アンリはまた、手で顔を隠してしまった。
この反応は新鮮だ。
「そんな仕掛けあるの?!諜報員らしい!」
「ないよ。冗談だから… 」
「でも、きみが僕のものになるまで、こうやって、いろんな恋文をもらうのを、歯がゆい気持ちで眺めていないといけないのか…」
アンリが垂れた首を上げ、遠くを見つめる。
エマは、チャンスとばかりに、椅子から滑り降りるとアンリの前に両膝をついて、アンリと向き合う。
「どうしたの! エ…」
アンリは、目の前のエマの両肩に手を添える。
「エマ? 待って。駄目。口づけしようとしてる?」
「もう… 不意打ちにしたかったのに…」
腕に力がこめられると同時に、アンリは腰を上げ、エマが持ち上げられた。
「きみを跪かせたままでなんて… 初めての口づけはそんな風にしない」
膨れ面だったエマが微笑むと、アンリの腕の中で、ゆっくりと口づけを交わした。
引用
Sonnet 18, William Shakespeare




