16 Day3 世界は私とあなただけじゃない
シエンタの市場はすぐ近くだったが、今は式典に向けて、街の至るところで露天市が立っている。ラトゥリアの他の街やシェラシアからも商人がやって来て、衣服、陶器、銀細工、ガラス細工、刺繍小物など、自慢の品々を並べている。
エマとトゥルバドゥールが訪れた大通りでは、道幅の半分を露天商が占め、馬車の交通も止め、多くの人が買い物を楽しんでいた。
「エマ、この刺繍の柄はよく見るけど、今回の式典のための?」
トゥルバドゥールは、刺繍の店の前で立ち止まる。指差したのは、『兵隊さんモノ』と呼ばれる刺繍ハンカチだった。
「これは、この式典の警備に当たっている軍の制服をモデルにした図案で、ガルデニアの人が刺繍したものよ。ガルデニアの公式の土産品なの。七軍の将校と下士官の制服で14種類あって、人気よ」
「へえ。きみが手配して作らせてるんでしょ?俺も欲しいな」
トゥルバドゥールはエマをちらりと見る。
買うといういう意味か、エマに刺繍してという意味か図りかねる。
「あ、えっと、ジャンは、どの制服なんだっけ?」
慌てるエマを見て、トゥルバドゥールは大きく口を開けて笑う。
「俺は小間使いだから、制服はないよ」
トゥルバドゥールは、エマの帽子の上からエマの頭に口づける。
「っ、こら!」
「気持ちだけで嬉しい。俺の制服で刺繍しようと考えたくれた?」
「…まあね…」
エマは、顔が赤らむのを感じて俯いたまま答えた。
いくつかの店を見ながら、シャツを扱う店の前で立ち止まる。
「ジャンに似合うシャツね。ラトゥリア織の麻のシャツは?さらさらしていていいわよ。生成りもいいけど、今年はシノワズリの流行で、濃い青に染めているものが多いの」
「染料も東方から伝わってるんだね」
「これとか?」
エマが、藍色のシャツを指差す。
「悪くないね」
トゥルバドゥールが周りを見渡すと、藍色の麻のシャツやズボンの人が何人か目につく。
「きみは? 同じ青のワンピースがあるよ」
「素敵ね。 流石に、私は街中で着替えられないから、お揃いにはできないけど」
「待って… じゃあ、こっちのストールは?」
トゥルバドゥールが手に取ったのは、他の品とは違い、木箱に入った藍色のグラデーションの美しい絹のストールだった。フリンジの根本には、小さな水色のビーズが織り込まれている。
エマは生地の光沢と色の美しさに目を奪われる。
「お兄ちゃん、それな、絹だから!石も、アクアマリンだ。ゼロの数見てみな」
露天商は、トゥルバドゥールに声を掛ける。
「素敵だけど、今のワンピースには合わない…」
「もう一つ選んだらいい」
トゥルバドゥールは、青い麻のストールを選んでエマの首に当ててみる。こちらは、今日の生成りのワンピースによく合う素朴なものだった。
トゥルバドゥールは、エマが選んだシャツとストール二つの支払いを済ませる。
露天商は、まさか小間使い風情が、絹のストールを買ってゆくとは思わなかったようで、受け取った銀貨をしげしげと確認している。
「あ、シャツは私が…」
気がつくとエマには麻のストールが巻かれ、トゥルバドゥールは、その場で青いシャツに着替えている。
トゥルバドゥールは、シャツを整え、エマのストールをもう一度整えると、手を差し出す。
「行こうか。同じ色を身につけているのは、いい気分だ!」
トゥルバドゥールの笑顔に飲み込まれたエマだった。
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心が凪ぎ、暖かで、穏やかになる、そんな思い出は、ドポムの領館の庭に詰まっている。
両親と、優しい兄、頼りになる姉。そして時折、父母や兄の友人とその家族も。
青空、笑顔、笑い満ちた大人やこどもたちのおしゃべりの声、甘いお菓子。
芝生に囲まれたガセポの脇には古いナラの木があり、その大きな日陰には、エマのお気に入りの長椅子が三つ並んでいる。
お菓子を食べ飽きたときは兄と姉と三人で並んで寝転がり、お喋りしながら、まどろむ。
「ねえ、エマ。きみの好きなものはなあに?」
「このお昼寝。お父様やお母様のお喋りの声が聞こえて、近くにお兄様とお姉様がいる。お茶もお菓子も美味しくて、風が気持ちいい。このナラの木の下が好き」
「じゃあ、きみは、何をするのが好き?」
「詩を読むのが好き。ポニーに乗るのが好き。湖で泳ぐのが好き。本当は、お兄様みたいに剣の練習もしたい… みんなが笑顔になることを考えるのが好き。あとは… シエンタから持ってきた薔薇を眺めるのが好き」
「じゃあ、一緒にきみの好きな詩を探そう。僕もたくさん本を持ってるよ」
「ポニーより、もっと大きな馬に一緒に乗ろう。僕の馬は、速くて大きい。遠くまで行ける」
「僕は、きみに剣を教えてあげられる」
「薔薇園もあるし、海で泳ぐのもできる。僕の家においで」
「うー…ん。あなたのおうち、ここじゃないの? 私は、ここが好きなの。あなたが、ここに来たらいい。私はいつもここにいるわ」
誰と話していたんだろう。まどろみから醒めたとき、その子はそこにいなかった。
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「きみの好きな詩を、きみが眠りにつくまで僕が誦もう」
「僕の大きな馬に一緒に乗ろう」
「剣でも、拳銃でも、きみが望むものを教えてあげる」
「薔薇の美しい、ここガルデニアで僕と一緒に過ごそう」
「僕はもう間違えない。きみと過ごすためなら、どこへでも僕は行けるんだ」
あの幼い日と同じように、芝生の上で昼寝するエマを誘う声が聞こえる。これはまた夢なのだろうか。
エマは、爽やかな風が頬に触れるのを感じ、目を開けた。
公園の樹の下に座り込んで、お喋りしていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。トゥルバドゥールの上衣が掛けられている。
連日の疲れと、今日の緊張で、話をしているときにあくびをかみ殺したのを思い出す。
そのとき、トゥルバドゥールが自分の肩に頭を乗せて、少し目を瞑ればいい、と言っていた。
しかし、今は彼の膝に頭を乗せている。熟睡したのだろうか。いびき、歯軋り、百年の恋も醒める失態をしていないか不安になる。
たった三日だ。百年とは比べものにならない。彼のことを考えて寝られず睡眠不足で、一緒に過ごせる時間を無駄にしたのだとしたら、本末転倒甚だしい。
下からトゥルバドゥールを見上げると、彼も眠っているようで、寝息が聞こえる。美しい寝顔をもう少し見ていたい。
「眠り姫は、起きたの? 俺の寝顔に見惚れてる?」
目を閉じたまま、トゥルバドゥールが尋ねる。
「やだ、寝てるんじゃないの?」
「寝起きの掠れた声、もっと聞かせて」
「うん…」
「このままもう少しお喋りしたい」
「じゃあ、エマも、目を閉じて」
「うん。閉じた」
「お互いしか存在しないみたいでしょ? いつも背負っているもの、全て忘れて。俺とエマだけの贅沢な時間」
「うん。贅沢。幸せ。温かい」
「エマ、もしかしたら、式典の日まで、会えないかもしれない」
「忙しいの?」
「ああ。だから、食事の約束は… 守れないかもしれない。まだわからない」
トゥルバドゥールは、額からエマの髪を漉くように、頭を撫でる。
「また、会える? 式典が終わったら、私もシエンタから領都に戻るの」
髪を漉いていた手が、エマの髪をひとすくいする。
「なあ、エマ。式典の日、君を迎えに行きたい」
「エスコートしてくれる?」
「違う… きみを、きみの人生を僕にちょうだい」
思わず、エマは目を開いて、トゥルバドゥールを見つめる。エマの髪に口付けていたトゥルバドゥールがにやりと笑う。
「ジャン!目、開いてるじゃない?!」
「だって、せっかくきみがここにいるのに、見つめなかったらもったいないだろ」
エマは再び目を閉じる。
もし、エマとトゥルバドゥールしか存在しない世界だったら、と考える。
「全部、あげてもいい」
しかし、そんな世界はない。
ゆっくり目を開けると、彼はまだエマを見つめている。
「だけど、背負ってるものは、捨てられない。それも全部、貰ってくれるなら、式典の日、待ってる」
トゥルバドゥールは、優しく微笑み、エマの頬に触れながら言った。
「ああ。迎えに行く。遅くなっても、待っていて。もう一度、一緒に花火を見よう」
他のどんな話も下らないことのように思えて、それから、ただ見つめ合ったり、手を重ね合ったりして過ごした。
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2023年4月改稿しました。




