14 Day2 バルコニーの逢瀬
その晩、エマは部屋のバルコニーから、庭園を眺めていた。篝火や燭台が灯っていて美しいが、水流の手がかりなどは当然、暗くて見えない。
蛍はグランホテル・シエンタの名物でもあった。式典のための造成工事の時、蛍の話が出たのか記憶にない。
確かに庭で式典をする際の警備上の問題が挙げられ、それに合わせて何度か造成案を作り直した。
ぼんやりしていると、手をかけていた手すりにコツンと小石が当たる。音のした方に目を向けると、下に人影がある。
エマは後退る。
「姫」
囁き声が聞こえた。
立ち去りかけて、振り返って人影に目をこらすと、トゥルバドゥールのように見える。
「一人?」
「…」
「いい警戒心! 待って。謎かけをして。僕だとわかるように」
「… 燭を背けては?」
「共に憐れむ深夜の月、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」
「姫、月を憐れむ? それとも、花を踏む?」
「じゃあ、月を」
エマが、寝衣に羽織ったガウンの前を慌ててかき合わせると、人影は、するすると窓の桟やバルコニーの手すりを伝って、エマのところにやってきた。
「警備も何もあったもんじゃないわね」
エマは、嬉しい気持ちを隠して、わざと呆れ顔を作る。
「恋心の前には、どんな警備だって役に立たないよ。姫、こんばんは」
トゥルバドゥールは恭しく、手を胸に当てて挨拶する。
「ご機嫌よう。素敵な花をありがとう。お返事はどこに出せばよいかわからなかった。だから、会ってお礼を言えて嬉しい」
トゥルバドゥールは、初めて庭園で会った日のような軽装だ。
「きみが、僕のことを思い出してくれるだけで、満足だ。 少し話をする時間はある?」
「今日は、もう侍女も下がっているから、姉が来ない限り、大丈夫。座る?」
バルコニーのベンチに並んで腰掛ける。
まるで、隣にいるのが当たり前のような心地よさを感じる。昨日、ウェルカムパーティーのテラスで会ったときには、心臓がおかしくなったかと思ったのに、穏やかな気分だった。
「今日は、どんな一日だった?」
「朝は、たくさんの薔薇にびっくりした。お姉様の慌てた顔が面白かったわ」
「何か言ってた?」
エマは顔を覗きこまれてあたふたする。
六日目のプロポーズのことを知らないことにしておくべきか。もし、勘違いだったら恥ずかしいし、今からプロポーズの予告をされても困る。
「シェラシアの流儀かしら?って。それから、教会に行った。子どもたちに蛍の見られる川を探してと頼まれたの」
「あぁ、シエンタの初夏は蛍で有名だね」
十年前にシエンタに来たとトゥルバドゥールが話していたのを思い出す。
「見たことある?」
「幼いときに、このホテルの庭園でね。蛍がまるで星のように見えたことを覚えてる。大人の目の高さでは、星とはもう思わないけれど」
「私もここでよく見たわ。街にも、街の外にも見られる場所はたくさんあるけど、庭園みたいに日が暮れた後でも安全な場所って少ないのかもね。やっぱり、庭園に川をもう一度作りたいな」
視線を感じて、トゥルバドゥールのほうに目を向けると、優しく微笑んでいる。
「…もしかして、私が喋っている間、ずっと見てた?」
「まあね… 楽しそうに喋ってるな、って」
エマは、視線を夜空に戻す。
「その後は、商工会で宿場街の話を聞いてきた。これで今日の出来事はおしまいよ。あなたは?」
「今日は、報告したり、されたり。部屋の中で人と話してばかりだった。だから、こうして散歩して、きみの笑顔を見たかった」
エマは、トゥルバドゥールの視線を感じる。しかし、この流れで見つめ合ったら、耽美的過ぎる。
「ねえ、唐突だけど、聞きたいことがあるの」
思わず、話題を変えた。
「名前、以外ね」
「うん。あの…あなたの国では、女性に… 何と言うか、女性を喜ばせるために、あなたみたいな風にするのが普通なの?」
トゥルバドゥールは、声をひそめて笑った。
「きみに恋している、ってはっきり口にするとか? 花屋が開けるくらい花を贈るとか? 自分の瞳の色の石を強引に贈りつけるとか?」
「そういうの全部」
「花は、きみの国でも贈るでしょ?」
「まあね。常識的な量をね」
エマがちらりとトゥルバドゥールの顔を覗くと、いたずらっぽい笑みが返ってくる。
「それなら、きみの国の習慣に照らし合わせて、常識を超えるほど僕がきみに惚れている、って思って」
「うん… じゃあ、その、言葉は? 誰にでも言うの?」
「他の人はわからないけど、僕はきみに言いたい。言わないで、伝わらなかったら後悔するから。こんな風に思ったのも、こんな風にするのも、きみが初めて」
本当だろうか。それにしては、彼の手際も表現も慣れている。慣れているのに、真摯で素朴で、嫌味な気障さはなく、エマの言葉の好みに合っている。
言葉で表現するのは、勇気がいる。エマなら、どんな言葉を選んだらいいのか迷って言葉にならないだろう。
「じゃあ、何で…」
「言ったよね? 好ましく思う気持ちに理由をつけるのは、陳腐だよ」
トゥルバドゥールは、開いた扉のすぐ向こうから、ワインのボトルとグラスを取った。
「寝酒か。姫、なかなかやるね」
「あ… たまにはね」
今の気持ちを言葉にしてみようか。エマの好奇心がもたげる。
トゥルバドゥールが腰掛けるのを待って、エマは話し始める。
「ねぇ、私、多分、あなたを好ましいって思ってる。でも、理由がわからなくて、なんだか落ち着かない」
「たとえば、顔?声? 話が面白い? 僕がきみに好意を持っている、ときみが知っているから?」
「話すと楽しい、これは当たってる。顔とか、声とか、仕草とか、印象は良かった。でも、それが恋する気持ちだ、というのは納得いかないかな」
「それは恋の本質ではない?」
そうだ。本質ではない。適切な言葉で言い換えてくれるのが、エマには心地よい。
「うん。きっかけではあったかもしれない」
「そうだね。あのさ… 好ましい、から、恋する、に格上げされた?」
「……それは、気にしないで。言葉のあや」
「それが、僕の一番の関心事だけど… 今は気にしないでおくよ」
トゥルバドゥールは面白そうに笑っている。
トゥルバドゥールの眼差しは優しく甘い。家族のものとは違う。今まで、エマが候補者として、会った男の人のものとも違う。
何が違うのか、エマは考える。
エマを少しも見定めようとしていないからか。エマのありのままが受け入れられていると感じる。
しかし、それは家族だって同じはずだ。
トゥルバドゥールを見つめていると、ずっと見ていたくなる。その柔らかな笑顔に引き込まれていく。その優しさ、甘さ、温かさに心地よくなる。
「たとえば、よ。あなたが私に好意を持っているから、私があなたに好意を持つ、ってなんだか、打算的じゃない?」
「そうかな? 好意を持たれている方がそうじゃないよりもきみは幸せじゃない? 自分が幸せになれる方を選ぶのはおかしくない」
それが、今の心地よさなのだろうか。エマにはそうは思えない。
「僕より先に、好意を持っていたかった?」
「順番の話じゃないわ…」
「僕がきみを好きでもそうでなくても、きみが僕を好ましく思える、と確かめたい?」
「それ、近いわ。あなたに絆されてるだけ、みたいなのはイヤなの」
トゥルバドゥールは、目を丸くする。
「はっきり言うね。絆されてほしくて、花を贈っているのに、僕は」
トゥルバドゥールが顎を上げ、グラスを傾けると、僅かだったワインは飲み干された。男性的な首筋や喉のラインにどきりとして、慌てて目を伏せる。
「打算的かどうか、で言ったら、きみは全く打算的ではないよね」
「なぜ?」
エマはそろりと視線を合わせてみた。
「だって、きみは僕の名前も、身分も、金持ちかどうかも知らない」
「あはは、そうね! 貴族の娘として、一番大切なことなのに」
トゥルバドゥールはグラスをエマに手渡し、ワインを注いだ。
「少しは、気持ち、落ち着いた?」
「落ち着かない。ふわふわする」
思わず、彼の手を握る。
やはり、言葉では上手く表せない。エマの感じているふわふわした感覚が手から伝わらないだろうか。
トゥルバドゥールは、愛おしそうにエマを見つめる。
「それは、恋してるからじゃない?」
「え?」
エマは、ワインに口をつけた。
「あなたは? どんな気持ちなの?」
「そうだな。きみは素敵な人のようだ、と知ってた。でも、会って、話してみて、想像を超えていた。素敵が度を超えると、触れてみたくなるんだ、と知った。きみが僕の側で話をしたり、笑ったりしている時間がずっと続くといいと思ってる。毎晩こうして、きみがどんな風に過ごしたのかを聞きたい。それに、きみの隣にいるのが、僕じゃないのは、想像もしたくない。 どう?」
「だいたいわかる」
「どこがわからなかった?」
「え? ふ、触れてみたい、っていうところ」
「きみは、僕に触れたくない?」
「そういう意味じゃないの。触れられたら… 息ができなくなりそうだから…」
「… きみが僕に触れるのは、よくて?」
トゥルバドゥールは、エマの手からグラスを受け取り、サイドテーブルに置く。そして、エマの前に跪いた。
「じゃあ、息が止まらないように、練習して」
エマの手を取ると、口づけた。
そして、エマの足首のアンクレットにも。
2023年4月改稿しました。




