11 Day1 寝台で泳ぐ次女
その夜遅く、エマは自室に帰ってきた。
あのあと、トゥルバドゥールと、読んだ本の話や、子供の頃の思い出話、好きな食べ物、時間のあるときの過ごし方などを話しながら花火を眺めた。
エマは素性を知られているから、気にせずに家族のことや領地のことも話した。トゥルバドゥールの話に嘘はなかった。おそらく、高位貴族で間違いない。ただ、身元に繋がる部分には触れないよう、うまく避けて話しているようだった。
まるで夢のように楽しい時間だった。彼とならいつまでも話していられる、と思った。
∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵
花火が終わると、彼のすぐ近くに、一人の騎士が立っていた。シェラシアの騎士の正装だ。彼と同じ色の髪の騎士は、彼の耳元で何か囁くと、彼も同じように返事をした。
騎士が立ち去ると、トゥルバドゥールは言った。
「今日はそろそろ失礼する。ホテルまで送りたいが、残念ながらできない」
「ええ。楽しい時間でした。ありがとうございます」
あの騎士の登場によって、それまでの打ち解けた口調は消えてしまった。やはり、ドポムより上位の爵位なのだろう。それとも、位の高い将校か。
また会えるのか、もう会えないのか、尋ねる勇気は出なかった。彼が約束した楽しい時間は、今宵限りのものなのだろうか。
「明後日の、昼はどこに?」
エマの不安を察したのか、トゥルバドゥールが尋ねる。
「夕方まで予定はないはずです」
「あ、待って。会いたいけどその日は問題があるな。式典前日なら、夜、ホテルに迎えに行けるか。どうしようか」
エマに尋ねると言うより、独り言のような言い方だった。口調も戻っている。
「私が選ぶなら、両方よ。あなたがいつまでこの街にいるのか知らないもの。あなたは、私に楽しい時間を約束してくれるのでしょう?」
少し考えた後、トゥルバドゥールが言う。
「じゃあ、大通りの噴水の近くに、ベンチがある。会いに来てくれる?」
「勿論」
「街では、今日のような貴族のデートはできないんだ。僕が、どんな身なりでも、素敵なレストランに誘えなくても構わない?」
その意味は計りかねた。やはり、高位貴族ではなかったのか。デート?
「お忍び服ならあるわよ。メイドの休日風、町娘風、商家の娘風、よりどりみどりよ。街の大衆食堂でよければ、シエンタで一番の店に私が連れて行く」
彼は目を大きく開いた後、大笑いした。
「姫は想像以上だね!じゃあ、シエンタ一の店に連れて行って。目立たないように護衛を連れて来れるかい?」
エマは、頷いた。
「今日の首飾り、まるで僕の髪の色のようだ… 偶然だとしても、きみが僕の色をまとっていると思うと、嬉しくなる」
トゥルバドゥールがそっとドレスの肩の刺繍に、続いて琥珀に触れる。その指は、エマの肌に触れそうで触れなかった。
「姫、今晩の僕たちの美しい時間の思い出に、その手に口づけを…」
ゆっくり右手を差し出すと、トゥルバドゥールは、エマの手を両手で受け止め、ゆっくりと口付けた。
∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵
トゥルバドゥールとの別れを思い出し、ベッドの上で、思わず身悶え、足をバタバタさせていると、姉がすぐ側に立っていた。
「きゃあ、ジェニー!ちょっと! ノックとかいろいろあるでしょ?!」
「したし、侍女もあなたに伝えてたわよ」
呆れ顔だ。
「途中からごめんなさい。花火に夢中になってしまって…」
謝らねばならないことは、山のようにある。正直、どうやってこの部屋まで帰ってきたのか、ふわふわしていてよく覚えていない。ホストの仕事も途中から放棄したようなものだ。
「いいのよ。仕事にしか興味ないあなたが、珍しく楽しんでいたなら、おねえさまはエマを全く叱らないわよ」
ジェニーはにやけた表情だ。知っいるのだ、エマが途中からずっとトゥルバドゥールと共にいたことを。
「あ、えっと…」
「いいのいいの。もう遅いからね。おやすみを言いに来ただけ。まあ、ちゃんと帰っているか、一人なのか、を確かめたかったのよ。じゃあね。話はまた明日。おやすみ、私のかわいいエマ」
言いたいだけ言って、姉は自分の寝室に戻っていく。その背中に枕を飛ばしたが届かず、姉は笑いながら去っていった。
眠れない。昨晩に続き。昨晩は、彼がどこの誰なのかわからない、なぜ気になるのかわからない、それを考えて眠れなかった。
どこの誰かは、一日経った今もわからない。わかったことは、エマにとってとても好ましい人物だったということ。加えて、エマに好意を持ってくれているようだということだ。
足が勝手にバタつく。
控えの間の引き戸から、明かりが漏れる。侍女が物音に反応した。
「なんでもないわ。もう休んで。私も寝るから」
しかし、寝られるわけがない。
「ちょっと気障すぎじゃない?詩の暗誦? 手にキスする前に、何と言った?」
ブランケットを頭まで被って、小さく独りごつ。
「僕たちの美しい時間の思い出に」と
僕たち
それに、彼はふりじゃなく、本当に口づけた。
寝台に突っ伏したまま、右手に触れてみる。温かくて、少し固くて、大きな手だった。そっと触れた唇は、その手よりも、うんと柔らかかった。
ふわふわした気持ちに、ふと影がさす。
エマは、最近のラトゥリアでは、後家、第二夫人専用のような扱いを受けているではないか。
年頃も近く、好青年で、美丈夫な貴族男性が、エマに近づいてくる理由がわからない。決まった相手がいないはずがない。
それこそ、別の企みなのではないかと疑念が湧く。
やはり誰なのかははっきりさせたい。
姉は、エマたちを見咎めなかった。姉は、彼が誰だか知っているのだろうか。
今から聞きに行こうか、とエマは起き上がる。
しかし、思い直す。何の準備もなしに姉に会えば、彼とのことを洗いざらい喋るハメになる。まだ、話したくない。まだ、エマはこの甘美な記憶を独り占めしておきたかった。




