01 プロローグ
東の空には大きな月が、赤みを帯びて上ってきている。普段なら、美しいと感じるそれも、周囲に漂う雰囲気のせいか野生的にさえ見えて、エマは心細くなる。
姉の姿を求めて顔を上げると、青年がこちらを見ていた。
気づいたときには、視線が絡み合っていた。
目を逸らすには、不自然な時間が経ってしまった。微笑みで交わすにも、その笑みに理由がつけられない。今、微笑めば、エマが誘っているように見えるだろう。
ゆっくり視線を落とすだけでいい、頭ではわかっているのに、動けない。
柔らかそうな髪。胸元から見え隠れする鎖骨。懐中時計を弄ぶ長い指。男らしさを示す首筋。見つめる瞳。
彼の視線の意味は? いつから、こちらを見ていた? 少し前に起きた茶番も全て見ていた?
エマは視線を外せないまま、考えを巡らす。
彼の瞳から感情が読み取れない。もう少し明るければ、もう少し近ければ、答えがわかるだろうか。
彼が組んでいた足を解く。こちらに来てしまう、そう考えた瞬間、エマは立ち上がり、急いでその場を後にした。
後ろから掛けられるかもしれない声を期待して? それとも、掛けられなかったことに安堵して?
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ラトゥリア王国の最南端の片田舎ガルデニア領を治める伯爵家の次女、エマニュエル・ドポムは18歳。この国では立派な嫁き遅れだ。
貴族の娘は、およそ15歳までに婚約をし、殆どが18歳に結婚する。18歳で婚約者がいなければ絶望的と言える。
歳の見合う候補者は訳あり、歳の離れた候補者も当然訳ありだ。18歳で婚約者を選ぼうとするエマ自身も訳ありと見なされる。
ドポム家は、エマが14歳の時に母が亡くなり、16歳の時に父も亡くなった。二人とも流行病だった。父が体調を崩してからは、兄姉と三人で助け合って生きてきた。
小さな頃から、父を手伝うと言って、領政の真似事をしてきたエマは、兄が領主を務めるこの地を暮らしやすく、安全で、豊かな場所にすることを一番に考えてきた。
それは、領地の多くの人に、エマの思い出の暖かで穏やかなガセポのような場所を作りたい、という気持ちからだった。
兄妹が暮らす領都ガルデニアの他に、中規模都市シエンタを抱えるガルデニア領は、農業、商業、観光業が盛んで、僻地ではあっても、豊かで恵まれた場所だ。
折しも、南に隣接するシェラシア王国とガルデニア領シエンタを結ぶ街道を整備する計画が大詰めを迎えていた。この街道は、両国の経済、技術、軍事様々な分野での発展に寄与すると見られている。
エマの父の病状が悪化した頃には、姉は王都の侯爵家に嫁ぐ準備で忙しくなり、兄ギヨームとエマは二人三脚で領政を始めた。それは、エマにとって想像以上にやりがいのある仕事だった。
やるべき仕事はたくさんあり、失敗も成功もあるが、毎日が充実している。
父の生前から、エマの縁談の話はいくつも出ては立ち消えた。様々な事情はあったものの、エマが家族と過ごしたこの地から離れる決心がつかなかったことによる。
兄や姉と同じぐらい、私が心を許せる人ができるだろうか?
この地よりも愛せる場所に出会うだろうか?
今のような熱量で取り組める仕事に出会うだろうか?
何度も、エマは自分に問いかけたが、ガルデニアを離れる気持ちにはなれなかったし、その気持ちが揺らぐことようなことが起きるとは想像もしなかった。
彼に会うまでは。
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2023年4月改稿しました。