死の予感
私は両親が若い頃に産まれた。
祖父母が四十代で孫である私が産まれたため、高校生になるまで曾祖母がまだ元気だった程だ。
しかし、病には勝てないと言うやつか。
いや、曾祖母は98歳まで頑張って生きた、生きていてくれた。
それまで曾祖母は祖母の弟さん、私から見れば大叔父にあたる息子さん宅で息子さんの家族と曾祖母は同居していた。
しかし、曾祖母はその息子さんを先に病で亡くしてしまった。
その時の事は私も良く覚えている。
大叔父は優しい人だった。
たくさん遊んでもらった事も、色々教えてもらった事も……お通夜の時に触れた肌の冷たさも未だに覚えている。
思えばこの大叔父の死が初めて触れた身近な人の死だった。
それから数年後の事だ。
体調を崩した曾祖母の面倒を私達の家族で見ることになった。
祖父母、私の両親、私達兄弟が当時一緒に暮らしていた為、人手があったからだ。
しばらく一緒に暮らし、曾祖母の体調が良くなってきたと喜んでいた矢先、曾祖母が倒れた。
奇しくも死んだ大叔父が患っていた病と同じ、肺癌だった。
それでも曾祖母は最後まで諦めなかった。
孫である私の父や曾孫である私達の成長をまだ見ていたいと願ったのだ。
しかし、遂に曾祖母は寝たきりになってしまった。
痴呆症も同時期に発症してしまい、娘である祖母は最後まで面倒をみるのだと曾祖母の入院を拒んだが、その祖母も倒れてしまい、結局曾祖母は入院。
祖母は直ぐに退院しましたが、曾祖母は100歳手前「もう、長くはない」主治医にはそう言われたそうです。
祖母の退院からしばらくたったある日。
「爺ちゃんと婆ちゃんが病院にお見舞いに行ったから俺らも顔出しに行こか」
と、部活から帰ってきた私は父に言われ、数日ぶりに曾祖母のお見舞いに向かった。
病室で眠る曾祖母、ベッドの傍らの椅子に座る祖母とその隣に立つ祖父。
この時、既に曾祖母に意識はなく、医者の話ではいつ亡くなってもおかしくない状況だった。
この時だった。
私は曾祖母が眠るベッドに影が落ちるのを確かに見た。
なんと言えば良いのか、曾祖母の寝ているベッド、いやもっと言えば曾祖母が影に包まれているように、曾祖母の上の電灯だけを消したように暗くなったのだ。
更にはその影を見た瞬間だった。
悲しくなった、なんてものではない。
今日で最後だ、もう会えないのだ、と私はなぜか確信し、泣いた。
高校生にもなって家族全員の前でボロボロ涙を流した。
「おい馬鹿、縁起でもない。お婆ちゃんまだ頑張っとるやろが」
と、父には叱られたが、涙は止まらない。
可哀相だから泣いていたわけではない、泣くのを我慢出来ない歳でも無し。
ただただ泣いた、諦め、絶望、と言うとそれは言い過ぎな気がする。
そんな時、ふと頭を過ぎったのは大叔父を火葬場に送り出した時の事だ。
あの時と同じ感覚だった。
永遠の別れ、その時が来たのだと、確信したが故の涙。
悲しい、ただ哀しい。
普段あまり泣かない私があまりにも泣くので、病院に泊まり込んで看病する予定だった祖母を残し、私達は帰宅する事になった。
帰宅する車の中で父に問われた。
「なんか視えたんか?」
「分からん、ただもう会えんって思って」
あの時の感覚を伝える事が出来ず、私は思った事だけを伝えた。
家に到着し、玄関を開けリビングに入った瞬間。
本当にリビングに入った瞬間、家の電話が鳴り響く。
時間は20時だったか、21時だったか、その辺りはハッキリ覚えていない。
「もしもし、ああオカンどうした?」
電話に出たのは父だった。
電話の向こうの相手が祖母だというのは父の言葉で理解は出来た。
嫌な予感しかしなかった。
そしてその予感は当たった、最悪な気分だった。
「お婆ちゃん、さっき、死んだって」
電話の受話器を置いた父がなんとも言えない悲しいだか驚いているだか、よくわからない表情で私を見ていたのを覚えている。
それからだ、駅で、踏切で、交差点で、街なかで私は稀に暗い影に包まれた人を見掛ける事がある。
その人達が今も生きているかは、私には確認しようがない。
もしかしたらアレが“死”と言う物なのだろうか。