引っ張られてる
「違うの、
──れてるの」
そう言って彼女の姿は、ホーム下の闇へと消えていった。
あー……今日も疲れた
会社の最寄駅のホーム。長い階段を降りそこに立った途端ため息が漏れた。
残業終わりの体に階段は堪える。
なぜこの時間になると駅のエスカレーターは停止してしまうのか。利用者が居るんだから終わりまで動かしてくれてもいいだろうに。
なんて詮無いことを考えつつ、容赦なく両足に掛かる疲労をどうにか霧散させようとゆっくりホームの中ごろまで歩を進めた。
ちらりと辺りに視線をやる。当たり前だが、薄暗いホームに人影は極端に少ない。
なんたって時刻は夜の11時半。終電の普通車にギリギリ乗れるかどうかという時刻で、曜日も水曜日と微妙なところだから、飲み会終わりのご機嫌な輩も居ない。
居るのはせいぜい、俺と同じ会社員らしい、パンツスーツにヒールを履いた女性が一人だけ。
こちらを気にする事なく手元のスマホを見つめている。
当然俺もそこへ倣い、ぼんやりと電車を待った。
そこまではいつも通り。
事が起こったのは、放送が次の電車の到着を告げたすぐ後のことだった。
カツッ、っというヒールの音に横を向く。
見ると件の女性が、ふらりと前に踏み出していたところだった。
「ああ、ドアの前に並ぶのかな」と、そう思った。
だが同時に、少々奇妙にも感じられた。
だってそうだろう、こんな閑散としているのになぜ並ぶ必要があるのか。
ノロノロと足を出し、立ち止まったかと思えばまたつんのめるように一歩足を踏み出す。そんな危なっかしい姿に、胸騒ぎを覚えて自然と注視する。
カンッ、カツンッ、という踏みしめるようなヒールの音がホームに響く。
その足が、黄色の線を越えようとした所で、俺は思わず彼女に声をかけた。
「あの、それ以上は危ないですよ」
ぱっと、彼女がこちらを振り返る。
予想に反して、その表情にはありありと分かるほどの困惑が広がっていた。
本当は頭の片隅で「まさか自殺か」とも考えていたのだ。
だが、彼女の表情には悲壮感も絶望も読み取れない。
あるのはただ「どうしてこうなっているのかわからない」といった風の困惑だけ。
「あ、いえ、だって……あのっ……」
その困惑のまま、何かを言おうとして口ごもる彼女。
だがそうしている間にもその足はジリジリと進み……ホームには、電車の入構を知らせる音が響き渡る。
「いいから、危ないから下がって!」
視界の端、そこに遠く車両のヘッドライトを目に留めて、俺の声が焦りに荒くなる。
この際痴漢だ何だと言われても構うもんか、と彼女の腕を掴んだ。
女性の力だ、少々強く引っ張れば引き戻せるだろう、と……思っていたのに。
「!!」
息を呑んだ。ビクともしないのだ。
いや、正確には少しだけ手応えがあった、だがそれだけだ。
でも彼女の方は、これといって力を込めているようにも踏ん張っているようにも見えない。
それはまるで、彼女の体が線路側に引っ張られているような感触だった。
途端、背筋がゾッとする。
引っ張られてるって何だよ、今ここには俺と彼女だけだろ?
ホームの内側に引っ張ろうとしている俺と、彼女しか、いないだろ?
震える声で、半ば呆然と彼女の顔を見つめ返す。
「あんた、何に引っ張られてるんだ……?」
俺のその問いに、彼女の表情が一瞬ポカンとした後、くしゃりと、歪められた。
「違う……」
俺の腕が何か強い力に引き剥がされる。またジリジリと彼女の体はホームの縁へと移動していく。
何も声が出ない。叫ぶことも、誰かを呼びに走ることさえできず、それを呆然と見つめる。
迫るライト、耳をつんざく警笛の中で、ため息のように彼女が言った。
「違うの、
押されてるの」
その声を最後に、彼女の姿がホーム下の闇に消える。
到着した電車が、まるで何事も無かったかのようにそこへ滑り込む。
彼女の言葉が鈍くなった頭の中に、壊れたテープのように繰り返される。
押されてる?なんだそれ、なんだそれ、なんだそれ。
俺か?俺が押したのか?そんな訳ないだろ?だって俺は引っ張ろうとしてたんだぞ?
それと反する様に……押される?
ホームの内側から、何かに押されていた?
電車がゆっくりと停車する。
目の前に停車した電車の窓、そこに薄く反射するホームの様子を目にして言葉を失う。
窓に映る駅のホーム、もう俺一人しか居ないはずのそこにはしかし、夥しい数の《人影のようなもの》で埋め尽くされていた。
目も鼻も口もない、顔の真ん中に大きな黒い穴が一つ穿たれた姿の異形の何か。
それらがひしめくように、まるで人を模倣するように電車を待っているのだ。
「ひっ……あ……ああ…ああああああっ!!」
恥も何もかなぐり捨てて、一目散に駅のホームから逃げ出した。
電車に乗る気には到底なれなかった。だって恐らく……俺と一緒に乗ってくるのだ、あいつらは。
そして同時に納得した。
彼女は、あいつらに押されたんだ。
それ以降、俺がその駅を使うことも、終電間際の電車に乗ることも無かった。
加えて不思議なことに、あの後どれだけ調べてもあの日人身事故があった事実は確認できなかった。
彼女は、あの《人影のようなもの》は一体何だったのか、今となっては知る由もない。
ありがとうございました。