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魔法少女いのりのパンケーキ  作者: 鳥兜
第一章 カラメルソースとメープルシロップ
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第四話 爽やかヨーグルトソース

お久しぶりの投稿ですね。申し訳ないです。パンケーキを食べるだけの回です。オムレツ食べたい。

 ごめん。弱くてごめん。

 弱かった。護れなかった。零れ落ちてしまった。だからキミは泣いてるんだろう。

 ごめん。戦えなくてごめん。

 キミを置いて消えてしまうことを許して。キミより後に死ぬべきだったのに、キミを一人にしてはいけなかったのに。ボクが弱かったから、キミを悲しませてしまうことを許して。



 パンケーキを愛し世界(パンケーキ)に愛された少年は、基本的にネットに頼らない非常にアナログな手法でパンケーキを探し当てている。つまり、自分の足である。

「もはや執念だと思ってるよ」

「否定はしない」

 情報収集手段がSNSに偏っている火蓮からすれば非効率極まりないが、祈にも事情がある。世の中の流れがふわふわスフレのようなパンケーキに傾倒しているために王道しっとり派の祈はSNSによる探訪を半ば諦めていた。そもそもネットというものを簡単に信じられるほどの純真さもない。貴族のような流麗な所作でパンケーキにナイフを入れた祈が一口目を味わうのを待って、火蓮も自分の皿に手を付ける。祈の一押しだけあってそれこそ頬が落ちるかと思う美味しさだった。特に生地に混ぜ込まれたメープルシロップの仄かな香りと甘みが甘さを限界まで抑えた生クリームと調和している。暫くもくもくと食べ進めて、半分ほどになったところでほう、と火蓮は息をついた。

「さすが祈君だね……」

「この店は卵料理専門店だから。オムレツも美味しかった」

 行きたいお店に行こう、と誘われた祈がこの店を推したのは火蓮にここのオムレツを紹介するためでもあった。既に夕食としてオムレツを一皿(火蓮は二皿)平らげた二人のティータイムは祈の魔法少女就任記念祝いという当初の目的を完全に忘れ、ただの美食会と化している。

「パンケーキを卵料理に分類するかは議論の余地があるとはいえ、店主は腕がいい……」

「おいコラ。ウチはパンケーキ屋じゃねえってなんべん言わせる気だクソガキ。プリン食え、プリン」

「なのに店の人気がないのは、まあ、店主がコレだから……」

「てめ、ケンカ売ってんのか!?」

「売ってない。パンケーキフルーツ盛り追加で」

「プリンにしろ!」

 謎の捨て台詞を残し厨房へと引っ込む店主を見送って、火蓮は祈に苦笑した。自ら料理を持ってきてからずっと脇に立って祈の様子を窺っていた店主だったが、腕がいいと褒められたあたりで顔が緩んだのを彼女は見逃さなかった。

「馴染みのお店だったんだね」

「店主の鹿島さんがボクの祖母に昔世話になったらしい」

 それで、と言いかけて、祈はパンケーキを食べる。

「それで、よく通ってる……のはいいが、毎回全力でプリン推してくるんだ、あの店主」

「卵料理専門店で堂々とパンケーキ注文し続ける方もどうかと思うよ祈君」

「たしかにかなり美味しいんだけどな。プリン」

「食べてみようかな……」

 元来パンケーキに限らず美食家の祈が褒めるプリンというものに、火蓮の興味が傾く。

「そうするといい。店主が喜ぶ」

 残り少なくなったパンケーキに多めにとっておいた生クリームを山と乗せて、祈は紅茶と共に完食した。ポッドの紅茶のお代わりをカップに注ぐ姿から目を逸らし、火蓮は妙に種類の多いプリンのメニューに気を向ける。

「……ちょっと待って多くない?プリンだけで何種類あるの?」

 手に取ったのはB5サイズのプリン用のメニュー表だった。その数ヴァージョン違いを含めて十二種類である。卵料理専門店ではなくてプリン専門店だったかと錯覚するレベルの量に火蓮は眩暈をこらえた。

「最初は二種類しかなかったんだ。気が付いたらこんなことに」

 諦観の構えを見せる祈の曇り切った目に、火蓮はそれ以上追及することをやめた。店主のプリンへの情熱に軽く慄きつつ、注文するプリンの選定に掛かる。

「ところで摘原さん」

「なに?」

 真剣に凝視していたメニュー表から顔を上げて、火蓮がちょこんと首を傾げる。

「いくつか訊きたいことがあって」

「訊きたいこと?いいよ、どんどん訊いて!あたしにわかることならなんでも答えるよ」

「取り敢えず色鬼の出現頻度が知りたい」

「色鬼の?」

 尋ねられて火蓮はこれまでの魔法少女生活を思い返した。火蓮が魔法少女になったのは受験勉強に勤しむ一月という最低最悪のタイミングだった。以降不定期に発生する色鬼は夜に出現することが多く、一度は入学試験日の前の深夜ということもあった。

「だいたい二週間に一体……かな?夜に出ることが多いから授業に支障出たことはいまのところはないけど……まだ二回しか昼に戦ったことないなあ」

「その話、昼休みにも聞いたな。理由は?」

「んー、そこはよくわからない。あとね、滅多にないけど複数体同時に出てくることもあるよ。あたしが経験した限り一か月くらい前に四体同時に襲われたのが一番多かったかな」

「昨日みたいなことは前にもあったのか」

「……倒したと思ったら倒せてなかったことは、今まで一回もなかったよ。初めてだったし……あたしね、ほんとは結構戦うの得意なの。剣道部だってのもあるけど、魔法、そんなに苦手じゃないし、もうだいぶ慣れたし……初めのころはともかく、あんなに苦労したこと、最近じゃなかったよ。四体同時に出てきた時だってあんなに大変じゃなかったもの。多分、あの色鬼、強かったんじゃないかな。そう思うと、すごくかわいそうだった」

「可哀想?」

「色鬼が人の悲しみから生まれるって話はしたと思うんだけど……色鬼の強さは元になった悲しみの強さに比例するんだって。より悲しみを抱えてる人が、より強い色鬼を生み出すって、みつきが前に言ってたから」

 より強い悲しみ、と祈が独り言つ。

「強い色鬼がいることは強い悲しみを持つ人間がいることの証左……か」

「色鬼が落とす卵は悲しみが凝り固まった、核みたいなものらしいんだけど、食べることで悲しみは浄化されるんだって言ってた。だからなるべく火を通してねって」

「火を通して?」

「うん。加熱してほしいって、みつきが」

「その話は聞いてないな……あの居候。大事なことは最初に言ってほしい……目玉焼きにして食べてしまった」

「めだまやき……だめかも」

「だめかな。あのネコもどき、一回氷漬けにしよう」

「やめてあげて……体調はなんともないんだよね?」

「一応は。……シャーベットか」

「やめてあげて」

 氷漬けかどうかは右に置いて、お仕置きの確定したみかづきに火蓮は合掌する。そもそもが自業自得である。素直にみかづきの無事を祈った。

「色鬼の出現範囲は」

「鎌倉、横浜が多いよ。たまに東京。関東付近だとこのあたりにしか出現しないんだって。龍脈がどうってみかづきが言ってたけど……祈君、わかる?」

「多分。昼に話した……世界のレイヤーは適用のされ方が一定じゃない。場所と時間に依ってぶれがある。そのことだと思う」

「くわしいね……ひょっとして龍脈の解析すれば色鬼の出現場所と時間もある程度特定できる?」

「絶対じゃないけど、可能性はある」

 その解析も楽じゃないけど、とは続けずに、祈はティーカップを傾けた。諸条件が絡むため、計算量が膨大になることは間違いない。

「それともう一つ、絶対に言っておかないといけないことがあるの」

 俄かに居住まいを改めて、火蓮はぐっと拳を握った。

「色鬼は、出現してから時間が経てば経つほど、色鬼の元になった人――宿主に悪い影響が出ちゃうの。最悪……死んじゃうって、みかづきは言ってた」

 細まった祈の双眸に肩を震わせて、火蓮は唇をかみしめる。火蓮自身は、間に合わずに最悪の事態を招いたことはない。だが、色鬼の退治が遅くなって心に亀裂が入り、記憶と意識が混濁している宿主を見たことがあった。忘れもしない二度目の仕事は、慣れない彼女には似合わない強敵で、退治するのに二日かかり、その間に宿主の心は殆ど壊れてしまった。先日の色鬼は宿主に影響が残る一歩手前で、祈が襲われたことを抜きにしても、結果は芳しくなかったと言える。

「どのくらいの時間で影響が出始めるかは色鬼によるけど、強い色鬼ほど早く進行する……かな。昨日の色鬼で後遺症が残るギリギリ手前」

「あるんだな。――後遺症を残したことが」

 ひどいよ、と火蓮は力なく笑う。彼は案外現実にシビアで、優しさは垂れ流さない。

「一回だけ……二度目の時に。その人、生きてはいるんだけど……記憶喪失に、なっちゃった。今でも記憶は戻ってないみたい」

「全部、無くなったのか」

「うん。なにもかも」

「そうか」

 彼女は理由を知らないが、祈は意識して優しさを絞っている節がある。火蓮はそれ以上何も言わずに、パンケーキを大口でぱくりと食べた。美味しいパンケーキに心が満たされて、火蓮は祈がパンケーキを愛する理由を少しだけ理解した気がした。

「あと、もう一つ」

「なに?」

 メニュー表を再び手にしてやはり選び損ねた火蓮が、元気よく笑う。祈も僅かに笑みを見せて、しかし今度は顔を引き締める。

「帳の内側で、色鬼以外の存在に遭遇したことは?」

「色鬼以外?……祈君くらいじゃない?」

「それについてはボクも驚いた」

 とはいえ、祈にとっても望んだことではない。

「ないなら、よかった。もし、色鬼以外の存在に遭ったら、すぐに逃げて。……その時はみかづきが逃げろって言うだろうけど」

「たとえば?」

「例えば……魔法使いとか」

「いるんだ、魔法使い……」

 魔法少女が実在するのであれば、魔法使いもいるのかもしれない、と火蓮は頷いた。その明確な違いは、彼女の知るところではない。

「いる。ボクは遭ったことないけど……いや、人間社会に紛れてる魔法使いもいるからそうとも言い切れないか。本当に見分けがつかなくて」

「そんな妖怪みたいなあつかいなの魔法使い」

「似たようなものかな。人間とは離れてるのもいれば、人間の中で暮らしてるのもいるって聞いてる。人間の中で暮らしてるのは平和な魔法使いが多いけど……そうじゃない方が厄介なんだ」

「魔法使いと妖怪を似たようなものあつかいするのどうかと思うよ祈君」

 オカルト好きが聞いたら発狂するのではなかろうかと火蓮は思った。少年にとっては妖怪も魔法使いも違いはないのか、呆れる少女に首を傾げている。

「魔法使いは見た目が面白いけど中身が面白くないから、本当に気を付けてほしい」

「一周まわって会ってみたくなること言わないでよ祈君!?」

 そうかな、と言って、祈はようやく朗らかに笑った。

 メニュー表をスタンドに戻し、火蓮はパンケーキの皿へと帰る。少しばかり冷めてしまった生地もむしろしっとり感が増して新たな深みをみせていた。食べ終わって真っ白になった皿を奥に押して脇に置かれたまま忘れ去っていたティーカップを引き寄せた火蓮が一服したところで、フルーツを花のように切飾ったパンケーキを持った店主が再登場した。

「すみません、プリンのオーダーをしたいんですが……どれがオススメですか?」

「上から二番目がいいよ、摘原さん」

「バカヤロウ、一番上だ」

「二番目の方がいいよ。それよりメニューの数を減らした方がいい。選びにくい」

 フルーツごと厚めのパンケーキをフォークに刺したまま平然と言い放った祈に店主の青筋が立つ。先程とは雰囲気の違う華やかな香りに胸を鳴らしつつ、火蓮は店主の言葉に従って一番上のプリンを注文した。

「二番目の方がいいのに……」

「それはてめえ……ら、だけだ」

 一番上の方がうまい、と店主にあるまじき発言を残し、再び厨房へと消える。どこか不満げにパンケーキを頬張る祈はふと、思い出したように、みかづき、と呟いた。

「みかづきがどうかしたの?」

「いや……なんでもない」

 ふかふかのパンケーキ生地にフォークの背を押し当てて、黒い瞳がふらりと宙空をさらう。

「ちょっと……お昼も夕食も用意せずに出てきたこと思い出したから」

「あれっ、みかづき食事要らないはずなんだけど?」

「図々しくも朝、塩派で目玉焼きを要求してきたよあの謎生物」

「あ、さっき言ってた目玉焼きってそういう……というかみかづき塩派だったんだ。あたし、しょうゆ派なんだよね。ちなみに祈君は?」

「パンと合わせるなら塩胡椒派」

 思いがけず朝の疑問の解答得た祈は、ため息交じりに紅茶を飲み干した。

 満腹になって会計をした二人は、ぽっこりとはしない腹をさすって笑顔で店主に礼を言った。退店前に祈がトイレに行き、つなぎ役を失った場が刹那停滞するが、不意に、テーブルを拭きながら店主が少女に尋ねる。

「ひとついいか、嬢ちゃん」

「あ、摘原火蓮です。名前言ってませんでしたね……すみません」

「おう、あんがとな、火蓮ちゃん。俺は鹿島悠天だ。基本店には嫁も娘もいるから、下の名前で呼んでくれ。……今日はいねえが」

「よろしくお願いします、悠天さん。今日はありがとうございました。どれもすごくおいしかったです」

「そりゃどうも。また食いに来てくれ。サービスする。そんで……祈のやつ、なんだがよ」

「……はい?」

 荷物を置いたままいなくなった祈が戻る気配はまだない。

「あいつとパンケーキ食いに行ったとき、あいつ、何皿食ってる?」

「パンケーキを、ですか?」

「パンケーキを、だ」

 火蓮はクラスの中でも祈とは仲が良い方で、何度か一緒にパンケーキを食べに行ったことがある。記憶のどこをどう掘り返しても、不自然にやけ食いすることもなければ食欲がなさそうだったときもない。

「一皿、だと思います。何回か一緒に行ったことありますけど、二皿食べてるのは初めて見ました」

「そうか。……そうか」

 片付ける手を止めて、落胆した様子の悠天に火蓮は不安になった。

「覚えといてくれ。祈はこの店で必ずパンケーキは二皿食って帰る。――二皿だ。よそだと一皿しか食わねえ。あいつそんな食うほうじゃねえからな。二皿は食えねえんだ」

「ここのパンケーキ、イチオシだって言ってましたよ」

「ちげえ。ちげえ……そんなかわいい理由じゃねえ。……頼む、火蓮ちゃん。もし、祈がプリン食ったら教えてくれ。プリンが食えるようになったら……」

「えっ、プリン?なんでプリンなんですか?」

「今の祈は絶対にプリンを食わねえ」

 心がさざめいて、渇きを訴えている。悠天の顔つきは逼迫していた。思えば、彼女がプリンを注文した時も同じような表情をしていた。

「今の、祈は」

「何の話?」

 とりとめのなくなって、悠天自身も何を言っているのか定かではなくなった言葉を遮るように、ひょっこりと奥から少年が顔を出す。

「なんでもねえよ。さっさと帰れ、クソガキ」

 本当に何でもない顔で、犬でも追い払う手振りで祈を入り口まで誘うと、店主は二人を店外へと追いやった。日も沈み暑さの和らいだ路上で水溜まりをはねて去っていく車のライトを契機に祈の背中を押す。

「また来るよ、鹿島さん。ご馳走様」

「ごちそうさまでした!」

 楽しそうに、少し不思議そうに去っていく二人を見送り悠天は明るい店内に戻る。強面ひげ面の店主に似合わないポップで可愛らしい店内装飾は今日は不在の嫁と娘の力作で、各テーブルに置かれたメニュー表だけが彼女らの作品ではない。二人が食事をしていた席に座り、拭き途中だった布巾をどかして、悠天は肘をついた。天井の中央から下がる百合のモビールが空調の風にくるくると回っている。

「祈のバカヤロウ……プリン食えよ」

 恩人の孫だからと面倒を見ていた。やがてその恩人はいなくなり、理由は言い訳となり、本当の理由は時が経つほど言い出しづらくなっていった。

 プリンのメニューは裏メニューとして未だに増え続けている。




 雨の中で、その姿を見た。自分たちを襲ったナニカの前に降り立って、それは一息にナニカを「喰べた」。その瞬間に、彼は理解した。それが世界に愛された存在の終着点なのだと。

「お前、私が解るんだね」

 夜のような濃紺の髪を掻き上げてその美しい究極は長く青い爪の指で車から放り出された彼の血塗れの頬に触れた。頭部から生えた大きな牡鹿のような角が車のひしゃげたドアに引っ掛かり、苛立ったように車を蹴り飛ばす。彼は喉に詰まらせた血を吐き出して、まだ動く方の腕で必死にそれの花のような衣裳の裾を引いた。

「ああ、ごめんね。まだ生きてるんだね、あの二人」

 それは困ったように微笑んで、蹴り飛ばした車をそっと本来の向きに戻した。玩具をもとに戻すような当たり前な仕草と、当たり前のように告げられた二人の生存報告に彼の瞳から涙が零れ落ちた。

「ねえ、生きたいの?」

 何を思ってか、それが尋ねる。

 生きていたいわけではなかった。ただ、生きていて欲しかった。その違いが最果てを知るものに通じるのだろうか。

「ふうん。助けてあげようか。あそこの二人は助けてあげる」

 歪んだ車の装甲の隙間から、オイルがぱたぱたと垂れる。鈍い音と共に助手席のドアがずれ、後輪が力なく萎み始める。旅先で最後に買った特産の菓子の破れた外装が隙間からちらつく。試食をした父が出発の直前で母にねだり、兄がそれに便乗することでようやく購入許可の下りた李のパイで、意外に値が張った。

 誰かが既に死んだ。

「……、……?」

「そうだよ。あの二人を助けると、お前は死ぬ」

「――」

 零れ落ちたガソリンが小さな水溜まりを形成し、雨水と混じり合って道路の外へと流れていく。街に出たら、一番近いガソリンスタンドで給油するつもりだった。風が暖かい。まだ桜も咲かない山の中腹で、彼の頬を掠めていく吹き下ろしの風は驚くほどに暖かかった。

「ふうん?面白いね、お前。いいよ、あの子の面倒も見てあげよう。だから安心するといい」

「――、……?」

 人気の観光地であるはずが、車の一台も通り掛からない田舎の道のように静かにその甘やかな声を待っている。淡い若草色の薄衣からは微かな薔薇の香りが漂う。彼は返答を待つ間にその背後の山を見納めようと意識を手向けた。濃灰の雲から注がれる雨は麗しい世界の愛し子以外の何もかもに等しく潤いを与えている。

「私は、大鹿の御子(ダリアサンジス)だよ。諱はフェダルシア。日本語で言うと、太陽の光、かな」

 せっかく教えてもらった名前を呼んでみたかった。だが、喉が潰れて最早息すらまともに出てこない。世界に愛された存在にとって、名前がどれほどの価値を持つかは、程度の差こそあれ同じように世界に愛されたものたちにしか理解できない。

 フェダルシアはふわりふわりと裾を踊らせて車のドアを取り外した。外したドアを道路にぽいと捨て、中から三人分の()()()()身体を引っ張り出す。三人の服や顔に付着した汚れをできる限り払って、車のそばに横たえると、同じように何故か彼の顔を桜柄の手ぬぐいで拭き始めた。手慣れたその手にぬくもりを感じて、彼は閉じかけていた目を見開く。

「ごめんね」

 悪かったとは思ってるんだよ、という謝罪を最後に聞いて、彼の意識は崩れ去った。





オカルト好きは別に発狂しないと思う。



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