第二話 林檎のコンポート
この回書いてて楽しくなかった。つらい。
正しい心のありようというものが存在しないこの世界が、無性に悲しかった。
人の悲しみから生まれ、いつしかその人を食い殺す哀しき異形。ついでに倒すとオムレツに最適な卵を落としていく不可思議。それが火蓮にとっての「色鬼」の全てだった。
初めて襲われた時の記憶は酷く曖昧で、気付いたときには「みつき」と契約して魔法少女となっていた。幸い魔法少女としての才能に恵まれていた火蓮は順当に色鬼を倒しているが、未だに何故色鬼が発生するのか分かっていない。
そして今日、火蓮は初めて色鬼に敗北した。密かに恋焦がれていたクラスメイト、風上祈の目の前で。
(祈君……)
不覚にも色鬼に吹き飛ばされて意識を失う直前に見た祈の姿が何度もフラッシュバックする。鬼は、鋭い爪を持っていた。強い力を持っていた。彼が無事ではない可能性を知る恐怖に凍り付いた火蓮の心は無意識の海の底に沈んだままなかなか浮上できずにいる。
(なんで負けちゃったんだろ……あたし、馬鹿だね)
火蓮は敗北を知らなかった。無知は油断を呼び、恋しい人を危険に晒した。
(なんだか寒いな……はやく、はやく起きなきゃ。祈君を助けなきゃ)
寒さに負けて眠っている場合ではないと、少女は自らを叱咤する。心の弱さは祈を本当に殺してしまうかも知れない。火蓮は強くなくてはならなかった。
「あれ……ここ、どこ?」
「おや、やあっと目ざめましたかいね、かれんさん」
視界を覆っていたのは夏の夜空ではなかった。杉板張りの天井に目を瞬かせて、声のした方に首を回す。艶々の黒毛を所々逆立てたみかづきと目が合って、火蓮はゆっくりと起き上がった。枕になっていた座布団の凹みがじりじりと戻っていく。火蓮が起き上がったまま動かないでいると、みかづきがぴょいとテーブルに飛び乗った。
「みかづき、祈君は?」
「ここはいのりさんの……お屋敷、ですかいね。ええ、お屋敷でしょう。いのりさんなら無事ですよ。ここに来てから少し眠っちゃあいたんですがね、ちょいと前に目をさましたっていうんで今は風呂に」
「そっか……よかった」
「それはそおと、かれんさん。いい加減『夜の帳』を解除しちゃあくれませんかいね」
「そうだね。ごめんね」
みかづきの指摘に頷くと、火蓮の髪が鮮やかな赤から栗色へと変化した。瞳は焦げ茶に、服は女の子らしく華やかな水色のパジャマに変わり、変化が終わると火蓮は一息つく。
「まったく。ようやくお目覚めですのね。かれん」
頭の上に重みを感じて体を傾けると、白い生き物が軽やかにテーブルに降り立った。
「うん……ちょっと油断しちゃって。あれ、でも、ならあの色鬼は誰が……」
「いのりさんに決まってるじゃあありませんかい」
火蓮はそこでようやく、テーブルを挟んで向こうに横たわっている二本の杖に気が付いた。一本は見慣れた金色の柄に淡赤色の竹帯が下がる自分の魔法の杖である。しかしもう一本の、銀色の柄に濃紫の竹帯の魔法の杖を、火蓮は知らない。
「祈君……ひょっとしてみかづきと契約したの?」
「ええ、かれんさんがふっとばされたすぐ後に。詳しい話はいのりさんが戻ってからですがね、ありゃあとんでもないお人じゃあありませんかいね」
「そうだね。祈君……濃い紫なんだね」
火蓮は立ち上がって反対側へ回り、自分の杖を拾い上げた。黄金の柄の先では星を象った金細工が黄色みを帯びた部屋の照明にきらきらと煌めいている。そのすぐ下の円環には竹帯が花結びにされており、垂れた帯の下端には小さな紅水晶の飾りがくくられている。他にも随所に花や小鳥の飾りがあしらわれた魔法の杖が、火蓮は好きだった。魔法少女の証である魔法の杖――正式には鏡界鍵杖と呼ぶらしい――は、使用者の魔力によって意匠を変える。契約時生み出されたこの杖を見て契約元のみつき――テーブルの上に座って毛づくろいをしている白い生き物は「かれんの魔力ははなやかでかわいらしい魔力ですのね」と喜んでくれたことを火蓮ははっきりと覚えている。
対して祈の杖は美しい。頂点には流水を意識したような銀細工が輝き、その下には色こそ違うが戦場にひらめく錦旗のような秀麗な濃紫の竹帯が三本のびている。柄は形こそシンプルだが、上端と下端のほうに蝶や雪輪が彫刻されている。静謐な美しさに火蓮は一時沈黙した。祈の魔力はただ、美しい。
「きれいだなあ……」
「なにが?」
黄金の杖が畳の上を転がった。
「い、祈君!?」
火蓮は慌てて杖を拾い、昂ぶる心臓を抱え込むようにテーブルの陰に丸くなる。ちらと見遣った祈の風呂上りの髪からは不思議な甘い匂いが零れ出て、浴衣を着こなす見慣れない立ち居振舞いに少女の拍動は自身の予想を大きく上回った。長い黒髪を緩く結い上げ、前髪は菫色の瞳を押し隠すかに見える。化粧をしていない祈の顔立ちは昼の間華々しさに上書きされる凛々しさを赦し、玉肌に差す湯上りの赤らみは一層の妖艶さを醸し出す。
(すみれ、いろ?)
「目が覚めて良かった。ところで……その、白い生き物は」
火蓮の期待とは裏腹に、祈の視線は既にテーブルの上に鎮座する白の謎の生き物に注がれていた。みかづきと対にして造ったような造形をしているということは同種のなにかなのだろうが、そもそもみかづきが結局なんであるのかを祈は知らない。視線を受けて謎生物その二はぺこりと一礼した。同時に垂れ下がるふわふわの耳に気を削がれながらも合わせて祈が返礼すると、ぴこん、と真白の耳が立つ。
「申し遅れましたわね。わたくしはかれんと契約している、みつき、と申しますわ」
「御丁寧に。ボクは――」
「存じあげていますわ。かざかみ、いのりさん?」
冷たい菫の目線が突き刺さる前にみかづきは勢い良く首を横に振った。焦るみかづきを放置して祈は白い生き物改めみつきの正面に正座する。
「きれいな目をしていらっしゃるのね。菫色だわ」
「元の色じゃないよ。気が付いたら変わってたんだ。本当はただの黒」
柔らかな茜色の眼差しが急に鋭利さを増して、みかづきの黒い体が小さくなる。白いふわふわの尻尾がゆらりと揺れて、ぺしん、と愛らしい動きでテーブルを打った。
「あ、あっしは悪くないんですがね!?」
「犯人はみんなそう言いますわ」
「ちょいと!説明する前に寝て風呂入ったのはいのりさんじゃあありませんかいね!?いのりさん!!」
「なにか」
全く悪びれた様子がない――というよりも、何故みつきが怒っているか分かっていない祈に、みかづきはがっくりと無い肩を落とす。脇を見れば火蓮が楽しそうに身を震わせていたため良くあることらしいと判断した祈は、客人に出すお茶を取りに席を立った。すかさずみかづきが祈に取りつくが、構わずに廊下への戸を引き開ける。
「ちょいと、いのりさん!?」
「お茶でも出すよ。すぐ戻る」
「ありがと、祈君」
縋る黒い生き物をぺいっと引き剥がして、さっさと祈が退出する。残されたみかづきはぎこちない動きで背後を振り返って、そのまま火蓮の後ろに逃げ込んだ。
「あっしは、悪く、ない」
「言い訳なら結構ですわ」
「無慈悲!全部ほんとおのことなんですがね!いのりさん、急に大量の魔力を使ったもんだから、疲れて説明の途中で寝た挙句起きたら起きたであっしをかんっぜんに無視して風呂行くとか、むしろあっしのほうがかあいそうだと思いませんかいね!?」
「知りませんわよ」
主張を一刀両断されたみかづきは床に沈んだ。流石に可哀想になって潰れた蛙状態のみかづきを拾い上げ、毛羽立ったままだった黒毛をなでつける。
「みかづきがかわいそうになるなんて一生ありませんわ」
「ちょいとみつきさん」
「かわいそうなのはいのりですわよ。あの子、魔法少女になるべきではありませんでしたわ」
それは、とみかづきが口篭る。
「わかってましたわね、みかづき」
「そりゃあ、否定はしませんがね」
「どういうつもりですの。あれほど愛された子を魔法少女にするなんて、正気とは思えませんわ」
「そりゃあ、そうかもしれないですがね」
でも、と続けたみかづきの声は、常になく強張っていた。黒い毛皮をなでる火蓮の手が止まる。
「いのりさん、魔法少女にならなかったら、死ぬんじゃあありませんかいね」
夕暮れ色が丸くなる。ふさふさとした尻尾の先がふらふらと宙を彷徨って、ぱたりと火蓮の膝の上に落ちた。
「これは契約してから気づいたんですがね。いのりさんの魔力生成能力は、たぶん、いのりさん自身の身体に耐えきれるものじゃあない」
黙って話を聞いていただけの火蓮はみかづきの言葉に首を捻った。以前聞いた彼らの説明では、魔力の生成能力は生命力と直結している。それは細胞呼吸と魔力生成が密接に関係しているためだというが、その理屈で言うならば、魔力生成能力の高さは命にかかわるとは思えない。
「使われない魔力は毒ですわ。前にも教えたとおり、魔力は一つのエネルギーですもの。無限に湧いて出る魔力を放置すれば、確かに肉体から溢れてそのものを壊してしまいますけれど……でも、人間がそれほどの魔力を持つなんて、ありえませんわ」
「あっしだって、そお思うんですがね。でも、だからこそいのりさんは世界に愛されたんだとは思いませんかいね」
「思わないな」
ことん、という湯呑が置かれる音にみかづきの真っ黒な毛が逆立った。音もたてずに戻ってきた祈が各員に冷茶を配る間中、火蓮は逆立ったみかづきの毛並みを必死で撫で戻す。謎の生き物二匹用の茶碗は底が浅く小さかった。凹凸の豊かなそれをみつきが躊躇いなく両足で取ってすすり、ふうと息を吐く。
「器用だな」
「お気づかい感謝しますわ、いのり」
「どうも。ついでに瞳の色の戻し方を教えてもらえれば」
「もちろんですわ。――みかづき」
「いいかげんキゲン直してほしいんですがね……いのりさん、ちょいとその杖、身体の中に仕舞ってみちゃあくれませんかいね。こお、先のほおで小突いたら入るはずなんですがね」
「なにそれ」
尻尾の先で腹をつつくという雑な説明に不満そうにしつつも、自分も茶を口に含んだ祈は素直にみかづきの指示に従って銀に輝く杖の下端を腹に押し当てる。二、三秒の沈黙の後、長い魔法の杖はずぶずぶと祈の腹の中に沈んでいった。先端まで仕舞いこみ、服の上から腹をさする祈の傍らに、なくなったはずの鞄と買い物袋が出現する。袋を覗くときちんと今週分の食材が揃っていた。
「いのりさん、薄衣はどこに置いてきたんですかい?」
「薄衣?」
「魔法少女になったときに着ていた服のことですわ。本当は露草薄衣というのですけど」
「なるほど。脱衣所に置いてきた」
「後で見てくるといいでしょう。元の制服に戻ってると思うんですがね」
「了解」
軽く頷いて、祈は杖と引き換えに出現した鞄から緑色のスマートフォンを取り出した。カメラアプリを起動し自撮りモードに切り替えて自らの瞳の色を確認すると、みつきの称えた菫色は元の黒に戻っていた。スマートフォンを伏せ、祈は火蓮の膝のみかづきを取り上げる。そのままぬいぐるみのようにテーブルに放されたみかづきは、乱れた毛並みをせっせと前足で戻した。
「祈君、なんで」
「その話はあとに。――さて、頭から説明してもらおうか、御三方」
魔法少女、と彼女らが呼ぶ存在は、恐らく御伽噺に似ている。
曰く魔法で創られたという魔法生物のみかづき達と契約し、時折何所からともなく顕れる『色鬼』という異形と戦う。その色鬼がどうやって生まれるかというと、人の強い悲しみの記憶から生まれてくると言うのだから、ますます強調される物語性は言うまでもないだろう。通常この世界の人間は魔法を使うことができないため、契約によって生じる鏡界鍵杖を用いて魔法攻撃を行い、悲しい異形を打ち倒し、通常この世界の人間はこの次元で魔法を使うことができないため、『帳』と呼ばれる結界の中で戦闘する。帳の中であれば現実世界に影響も出ないため、色鬼を倒して結界を解けば、すべては何事もなかったかのように元通り――といった具合である。
出来過ぎている、と祈は思う。
「帳についてはまたおいおい説明しますわ。今は、あなたがた魔法少女のお話をしましょう」
茶請けに出したチョコレートクッキーを半分かじってみつきは祈にもう一度杖を出すようにと頼んだ。みつきの横でみかづきはバターサブレをさくさくと食べている。円滑な進行を目指してだんまりを心掛けていた祈も右腕を後ろにそらせて仕舞ったばかりの銀杖を出現させる。同時、祈の浴衣が黒い露草薄衣へと変化した。
「今、なんとなく杖の出し方と変身の仕方がわかったんじゃあありませんかいね。それが鏡界鍵杖の能力なんですがね……なあんで変身まで」
「そのつもりはなかった」
さくさくと軽快な音が響く中、本当に、と祈はほろ苦く笑う。一方、ここにきて初めて祈の魔法少女姿を見た火蓮の顔は炎に照らされたように真っ赤だった。上は黒い狩衣のようだが、下は濃紫の袴のようなスカートと、自分の衣装との違いに火蓮は動揺する。特に、スカート丈がかなり短い。
「いのりの杖は変身とセットになっているみたいですわね。でも……でも」
さくさくとした音が止まり、狙いを外した黒い前足――手かも知れないが――が、黒塗りの木皿を傾ける。盛ってあったクッキーが何枚か飛び出して、みかづきはそっと前足を戻した。見れば黒い生き物のいるあたり、木目のテーブルに雪が舞っている。言い淀むみつきの頭を優しく撫で、みかづきの襟首をむんずと掴んで、祈はテーブルをさっと拭いた。ついでに菓子皿を火蓮に寄せる。
「いのりさん」
「氷菓になりたくないなら黙ってて」
「……はい」
どうせシャーベットにしても美味しくはないだろうが、鑑賞程度には丁度良い。屈指の魔力を持つ祈に逆らうことはせず、みかづきはただ耳を垂れた。
「ねえ、祈君」
みつきが沈黙してしまった代わりに平静さを取り戻した火蓮が問い掛ける。彼女の下がった眉尻に頭を揺らして、祈は、なに、と先を勧めた。
「なんで、『帳』の外で変身できるの」
震える声に祈は言葉を詰まらせた。境界を越えやすい、と言ったみかづきを祈は覚えている。祈にとって“こちら側”と“あちら側”はほとんど区別が無く、今まで自分がどちらに立っているのかさえ良くは分かっていなかった。火蓮にとっては帳の中だけが“あちら側”でも、祈にとってはそうではない。それだけの話だった。
「やっぱり、“あちら側”でしか変身できないのか」
「杖の出し入れはともかく、変身もまた魔法ですわ、いのり。『帳』はわたくしとみかづきがサポートすることでなんとか使えるのですけど」
白いひげがぴくと動いたのを祈は見逃さない。
「ボクが“あちら側”を知っているのは意外だったんだな」
「ふつうは、知りませんわ。たとえ世界に愛されたとしても」
「それは、どうかな」
皮肉げに笑って、祈はぬるくなった緑茶をすすった。ついでに空調の設定温度を上げ、火蓮とみかづきには二杯目を勧める。
「世界に愛されるって、なに?祈君はなんで……なんで、帳に入れたの」
「それなんですがね……たぶん、かれんさんは知るべきじゃあ、ない」
みかづきの明確な拒絶に火蓮は一瞬呆けた顔をして、みるみるうちに真っ赤になった。お代わりを注いでいた祈すらピッチャーを乱暴に戻し、みかづきを凝視する。
「まず、かれんさんには帳の内側がなんであるのかが理解できない」
「帳は結界でしょ!?色鬼と戦うための空間だって、みかづきもみつきも……!」
「違うな」
酷薄な言葉は火蓮の心を貫いた。みかづきは頷き、みつきは苦し気に顔を逸らす。
「あそこはむしろ結界の外側と呼ぶ方が正しいだろう。鏡界鍵杖はあくまで扉の鍵でしかない」
「まあ、そおなんですがね。それ、言葉で説明できますかいね、いのりさん」
「……無理だな」
祈はみかづきの拒絶を肯定した。刹那の寂しそうな瞳に火蓮の怒りは急速に萎み、振り上げた言葉の鎌を仕舞いこむ。
「摘原さんは知らなくていい。知らないでいてほしい。知ればもう後戻りできなくなる……」
「あたしも魔法少女だよ。それでもだめなの?」
「違う……違うんだ摘原さん。魔法少女かどうかは関係ない。ボクは、キミを」
キミを、と壊れた機械人形のように繰り返して、祈の表情は凍り付いた。動かなくなった黒い瞳から目を逸らした火蓮はにじり寄って祈の肩を抱く。風呂上りだったはずの身体はすっかりと冷え、整っていた襟は崩れている。
「……ごめん」
「ボクは」
「ごめんね。もう、聞かないから」
「キミを、ボクは」
「だいじょうぶだよ。だいじょうぶ……今度は必ずあたしが守るから」
「……本当に?」
祈から離れて火蓮が微笑むと、祈はぎこちなく笑い返した。今度は火蓮が祈の湯呑に冷茶を注いで、おまけとばかりにみかづきの小さなコップを満たしておく。氷の中に突っ込まれていただけあってひえひえのお茶をみかづきはくぴくぴと飲み干した。
「ありがとう」
「落ち着いた?」
「大分。――ああ、もういい時間だな。摘原さんはそろそろ帰った方がいい。御家族も心配するんじゃないかな」
「一応、誤魔化しは置いてきてるよ。帰りも夜の帳使って帰るからだいじょうぶだし」
「そう?でも残りの話は明日に。……あまり夜遅くに男の家に居るものじゃない」
「そ、そう……かな。そうだよね。ごめんね、じゃああたしそろそろ帰るね。お邪魔しました」
「ああ、そうだ。卵どうする?」
「卵?あ、そっか、忘れてた。今日のは全部祈君にあげるね。あたしあんまり役に立ってないし……あれ、すっごくおいしいんだよ」
「そう?なら、ありがたく」
「うん」
金の魔法の杖を両手に強く握って、火蓮はぱたぱたと立ち上がった。変身を解いたらパジャマ姿だった時点で移動手段はある程度察しがつく。気を付けて、と微笑んで背中を促せば、少女はありがと、とはにかんだ。しかしテーブルの上の不思議生物二匹は微動だにしない。
「キミたちも帰ったら?」
帰ろう、と火蓮が呼んでも、なお二匹は反応しない。
「あの」
呼びかけからたっぷり三十秒以上待って、ようやく口を開いたのはみかづきだった。
「ちょいと、聞きたいことがあるんですがね」
「なにか」
「いのりさん……男、なんですかい?」
「そうだよ」
それがなにか、とあっけらかんと言い放った彼――女物の美しい浴衣を着こなす男子高校生、風上祈は、呆然とする二匹を呆れた眼差しで見下ろした。
いのりさん、と愛らしい声で引き止められて、夢の世界へ渡ろうとしていた祈は仕方なしに現実へと舞い戻った。声の主は曰く睡眠を必要としないらしく、無理矢理祈の家に留まった罪悪感か、彼の枕元で慎ましく人形のように丸まっている。やはり、全体的に猫に似ている。大きな耳は狐に近しい。
「眠い。手短に」
「あんまり『境界』からこっちがわに来ないでもらえませんかいね」
目を向けるように寝返りを打つ祈の黒髪をみかづきは軽く踏む。要求は簡潔だが祈には難しい。線引きの曖昧な二つの次元を見分けることは今の祈にとって不可能な技だった。
「どうして」
「だあって、あぶないでしょう」
“あちら側”は人の理が通じない。故に多大な危険を孕み、同時に大きな可能性を生む。祈もそれは自覚している。
「今こっちはかなりばたばたしてるんですがね。うっかり迷い込んだら、おみゃあさん、たぶん死ぬでしょう」
「迷惑な」
「ちょいと、とんでもないおかたがいらっしゃってるもんで」
「面倒な……」
かなり強いやつが来ているらしいと知って、祈は布団に潜り溜息をついた。好きで境界を越えているわけではない彼に、“あちら側”との敵対意思はないが、向こうもそうだとは限らない。
「いやなら『門』でも閉じておけば……」
「あれ、知ってるんですかい?」
「閉じ方……までは……」
眠気に引きずられて祈の言葉は途切れ途切れになる。みかづきは髪を踏んでいた足をどけた。
「なあんだって、それを」
「むか、し。よく、見てた……けど……」
虚ろな瞳が瞼の奥に消え、やがて小さな寝息が立ち始める。一度寝て何故そこまで眠気に襲われるのかみかづきにはわからなかったが、眠るものを起こすのは忍ばれて藤色の瞳が闇色に隠れた。
想いなんていうものは、普通、生まれた端から解けて消えていく。なくならない想いは人の世には無くて、あるとすればそれはきっと人ではなくなりかけているナニカの心の残骸なんだろう。だから、愛してる、は永遠じゃない。ずっと側にいる、なんてあり得ない。いつか私を愛さなくなる日が必ず来るし、一人になるときが訪れる。そんな当たり前のことが、昔の私にはどうしてもわからなかった。
境界を、踏み越えて、振り返って、戻れなくて、前に進んで、でも本当は進んでるんじゃなくて後退してるんだとしたら、なんて、そんなことには気付きたくなかった。喪って、奪われて、でもそれが自分のせいだなんて、考えたくもなかった。
私は、どこに立っているべきなんだろう。たとえどちら側に立っていたとしても、結局喪うことには変わりないのだとしたら。
「ねえ、鈴の音はまだ聞こえてる?」