第一話 ハニーバターにアイスを添えて
もっと早く投稿する予定だったんですけどね。どうしてこんなに間が空いたんでしょうね。
好きだ。好き。誰よりも。何よりも。
甘くて可愛い。好きだ。愛してる。
だから、どうしようもなかった。この結末は変えられない。好きで好きで仕方がないからこそ、幸福は容易く遠ざかる。
好きだ。何度もそう言って、手繰り寄せるほどに姿は霞む。愛してる。閉じ込めることはできなかった。求めるほどに溢れていく。
愛してる。愛してる。今も、昔も、これからも。甘くて可愛い。優しくて愛しい。
幸福は、瓦解する。
あと一週間も経たないうちに夏休みが始まるということで、祈に限らず学校中の雰囲気は明るい。夏休みに入ると言っても学校で夏期講座があるため夏休みと呼んで良いのか、という議論が一部で交わされているが、通常授業ではなくなる、ということで、夏休みだろう、祈は浮かれている。
「祈君、嬉しそうだね」
夏休み中に企図しているパンケーキ巡りを想像して頬を緩めていた祈の肩をクラスメイトの一人、剣道部の摘原火蓮が叩き、祈は現実へと引き返してにこりと笑った。
「夏休み、何かあるの?」
「少し」
特定の部活動に所属していない祈は基本的に夏休み中は暇である。夏の宿題は出されている分を既に片付け、時間の余裕に任せて遠出をしてまだ見ぬパンケーキを食い漁るつもりの祈はやはり計画を思い起こして頬を緩めた。
「旅行とか?」
「近いな。パンケーキ食い倒れツアーを計画中」
「好きだもんね、パンケーキ」
にこにこと笑顔の止まらない祈につられて火蓮は笑みを零した。風上祈のパンケーキ愛は校内でも有名である。優れた見目の持ち主でもあるため、噂では、祈に気に入られたくてパンケーキを貢ぐ輩が後を絶たないという。
「いいなあ……あたしもオムレツ食い倒れツアーとかやりたい」
摘原火蓮のオムレツ愛もまた、校内では知られた事実である。昼食にオムレツを食べたくなって、勝手に調理室でオムレツを焼いて食べたという前科まであるほどだ。教師にばれて散々叱られている現場は祈も目撃している。つい一週間前の話である。
「夏は忙しいのか」
「うん、大会。個人戦で全国行けたから、頑張らないと」
「すごいな……」
本人の話によると剣道を始めたのは高校に入学した今年の四月からのはずだが、彼女の活躍は目覚ましい。他の剣道部員からはダークホースと称されて、様々なところから期待されている。
「おっはよーっす!おはおは、カレンちゃん、イノリちゃん。ずーいぶん楽しそうっすね、なになに何の話?」
「おはよう、鈴葉ちゃん」
「おはよう……元気だな、弓院さん」
突如火蓮の背後から現れてぎゅうと彼女を抱きしめたのは、火蓮同様剣道部に所属する弓院鈴葉である。こちらも夏の全国大会に出場することが決まっているらしく、夏を心待ちにしているようだった。
「夏休みの話だよ。祈君、パンケーキ食い倒れツアーするんだって」
「食い倒れツアー!イノリちゃんも好きっすなあ。どこの辺回る予定?東京の方?それともこの辺で?」
「どちらも。他にも色々行く予定なんだ。鎌倉の方にもいくつかいい店があるとかで、行ってみようかと」
「鎌倉ってゆーと、『Honey Tower』とかっすかね。あと知らない」
「逆にどうして『Honey Tower』を知ってるのか知りたいな、ボクは……」
かなりのマイナー店である。祈は根性で探し当てたが、興味が無ければ普通は知らない。
「それは乙女のヒミツってことで。あ、東京の方行くんだったら、いい店教えてほしいっす」
「了解。……ただ、池袋のあたりだとあまりないかもしれない」
「イノリちゃんの察しが良すぎて泣きそう。……ま、渋谷とか原宿とかでもダイジョーブ、ダイジョーブ」
けらけらと笑う鈴葉に頭を撫でられた祈が目を細めると、火蓮の視線が左右に揺れた。首を傾げる祈とは対照的に一瞬目を丸くしただけの鈴葉が大仰に火蓮に抱きつく。慌てる少女がちらと祈を見ると、その視線は下に落ちていた。
「夏が来るな……」
しみじみとした祈の言葉を証明するように、閉ざされた窓の向こうで蝉が騒がしく番を求めている。机に反射する光に目を閉じた祈の耳にいい加減聞き慣れたチャイムが届いた。
「あー、ホームルーム始まるっすね」
「あたしたち席戻るね」
「ああ……」
ぼんやりと答えて瞳を開ける。流れの早い雲にかくれんぼする太陽が中天する頃には教室のクーラーも効いているだろう。
夏が、来ている。
「キミのいない、夏が」
今年も既に始まっている。
春でもないのに霞がかった夜空を見上げて、祈は深く溜息をついた。新規パンケーキ屋をリサーチしてから買い出しに行ったためすっかり遅くなってしまったが、深夜というほどでもないから、と自らを慰める。時刻は八時を回ったところだが住宅街には丁度人気のないタイミングに当たってしまったようで祈は密やかな不安を心の奥底に押し沈めた。制服姿で夜人気のないところを歩くと、大概ろくな目に合わない。
「……?」
閑静な住宅街に不似合いな、甲高い割に可愛さのない声が聞こえたような気がして祈は速めていた足を止めた。周囲を見渡しても不審なものは見当たらない。祈が足を止めている間に妙な声と、加えて人のものではなさそうな――分類でいうと象っぽい足音が響き、祈はぎょっとして今来た道を振りかえった。
「うううあああ!!」
珍妙な悲鳴と共に、曲がり角から子猫ほどの大きさの影が飛び出す。
「なんだ?……なん、だ!?」
どしんどしんと足音は近付く。先に出てきた小さな影は凄まじい勢いで祈の脇を走り抜けようとして――祈の目の前で急停止した。祈は、その急停止した、子猫ほどの大きさの黒くてちょっと猫っぽいようなしかし明らかに猫ではない形容しがたい奇妙な生き物の真ん丸の藤色の瞳に硬直した。
「コレ、なに?」
「おみゃあさん、あっしが視えるんですかいね?」
よくわからないなりに可愛い見た目をして、その科白は全く可愛げがなかった。どこから突っ込むべきか逡巡した果てに祈は落ち着きを取り戻そうと一度顔を上げた。
鳥っぽいような黄色い大きな双眸が、こちらを凝視している。
足は想像通りに象のようである。背丈は推定五メートルを超え、鳥のような形状の巨躯の上に狼に似た頭が乗っている。可愛くはない。祈は一周回って平静になった。先程までの足音の周期と歩幅から計算して移動速度はそこまで速くはない。
「ちょいと、おみゃあさん」
「なにか?」
目の前で急停止した格好のままやはり固まっていた謎生物が口を開く。どうやって喋っているのだろう――という思考を祈は放棄した。
「その制服、卯花月高校の女子制服じゃあありませんかいね?」
「よく、御存知で」
本当に良く知っている、というよりも、良く見分けている。特筆すべき点の無い制服を見て卯花月高校だと断言できるのは関係者だけである。真ん丸の目で祈を凝視する黒い生き物の一方で、可愛くもない化け物の方は何故か濃紺の夜空にぽっかりと浮かぶ季節外れの朧月に目を奪われている。
「なんでこんなところにいるんですかい?」
「はい?」
この辺りに住んでいるからだと短絡的に答えて解決するような気配はしなかったため、祈は返答を控えた。謎の生き物はほんの少し考える素振りを見せて、ちらりと後ろを見る。祈もやはり化け物の方を見る。
黄色い目と、再び視線が交わった。
「ニン、ゲン」
考える前に祈は走り出した。理由は分からないが恐らく化け物は既にターゲットを祈に設定している。足下に目を遣ると、同じ速度で謎生物が走っていた。
「あれは、なんだ!?」
化け物は追いかけてきている。どしん、どしんと大きな足音を立てている。
「ありゃあ、“色鬼”ですよ!ちょいといろいろすると生まれる化け物の一種でね!」
「キミ、大事な部分を省略したな!?」
成立過程はとかく、その“色鬼”は祈を追いかけている。スカートの裾をばたばたとはためかせ足りない体力を絞り出して走る祈に、謎生物が叫ぶ。
「そんなもんは今はいいでしょう!?問題は、このあとどおするかってことじゃあないんですかい!?」
「キミはどうにかできないのか!?」
「このちっさいあっしに何かできるように見えるんですかい?」
急に冷静なトーンで話し出して、祈は刹那足下を走るこの黒い毛玉を化け物の方へ蹴っ飛ばすことを真剣に思案した。
「一つ、手はあることにはあるんですがね。ちょいとお時間いただけませんかいね」
「了解」
そう軽く答えて、祈は二つ目の角を右に曲がった。そのまま直進し、更に途中で左折する。路地を抜けて飛び込んだのは少し大きな公園だった。土管型遊具に身を隠し、荒い息のまま謎生物に向き直る。
「道幅的にここなら五、六分は稼げる。――さあ、手を聞こうか」
長くこの街に住む祈は、この辺りの地理を完璧に把握している。実はそれもパンケーキ巡りの副産物ではあるのだが、それを知らない黒い生き物はへえ、と素直な感嘆を漏らした。
「おみゃあさん、お名前は」
藤色の目が月光に輝く。
「祈。――風上祈」
「かあいいお名前してるじゃあありませんかい。いいでしょう。いのりさん。――あっしと契約して、魔法少女になっちゃあくれませんかいね」
「……はい?」
どしん、と一際大きな足音が響く。足音に混じって聞こえる獣の咆哮が気のせいであることを祈は願った。ついでにこの謎生物の言うことが冗談である可能性を考えておく。
「魔法少女、とは」
「そりゃあ、そのまあんまの意味ですよ。魔法を使って戦う少女、すなわち魔法少女」
「いや、そういう意味では」
「まあ、見てもらったほうが早いかもしれないですがね。――やあっときましたかいね」
「なにが――」
「いや、その魔法少女が、ですよ。いのりさん」
近く、大きく足音が鳴ると共に、地面が震動した。恐る恐る外を覗き見て、祈は即座に後悔する。
公園に侵入してきた化け物は先程見たときよりも明らかに大きくなっていた。身丈は確実に七メートルを超過している。象のような足はより太くなり、鳥の躰の翼の先には鉤爪が追加装備されている。
「時間、経ち過ぎたみたいだね。――ごめんね」
聞き覚えのある声が耳を打った。思わず土管を飛び出して、祈は声の主を探す。
「苦しいよね。すぐに楽にしてあげるから」
公園内に立つ唯一の灯の上に少女らしき人影が立っている。眩しさに目を細めながら祈は必死に顔を確認した。赤い瞳、赤い髪に、橙色の振袖のようなコスチュームに身を包んだ少女の浮かべる申し訳のなさそうな微笑みには、祈も嫌というほど見覚えがある。
「摘原、さん……」
何故か髪と瞳の色が変わっているが、毎朝のように合わせる顔を間違えるべくもない。彼女が祈に気付いた様子はなく、その真っ直ぐな眼差しは異形をしっかりと捉えている。
虚空に青い炎が渦を巻いた。太陽のような炎に照らされてビー玉のように光る化け物の眼に、長い杖を構える火蓮の姿がはっきりと映る。
不意に、獣が吠えた。びりびりと震動する空気に呑まれ、祈はへたり込む。火蓮の瞳はなお悲しい色を灯したままだった。恐怖も嫌悪もその眼にはない。火蓮が杖を掲げる。渦を巻いていた炎は指向性を持って矢の形へ変形し、化け物の頭上に列を成した。
杖が振り下ろされる。焔の矢が一斉に獣へと注がれて、一帯が炎に包まれた。滑り台に阻まれて祈の方へ炎が流れることは無かったが、公園とその前の道路の殆どが燃えている。
「ご安心なさい。今この街は『夜の帳』の中。ほんとおに燃えてるわけじゃあないんでね」
「そう、なのか」
夜の帳、というのは分からないが、実際に燃えているのとは違うらしいので祈はひとまず息をついた。炎は拡大せずにこの辺りに留まり、ただ青くその場で燃え上がる。
攻撃を避けなかった化け物は唸り声を上げて火蓮を睨んでいた。少し毛皮が焦げ付いているだけで大したダメージを負った様子はない。それを見た黒い生き物は、ほんの少し早口で、こりゃああんましよくない、とぼやいた。
「ちょいと、解説させちゃあもらえませんかいね。いのりさん」
「御随意に」
「さっきの技なんですがね、『紅月・迷い花』と言いまして、かれんさんの使える技の中じゃあいちばん火力の高い技で」
「必殺技的な?」
「必殺技的な。しっかし、あっしが見る限り、あの色鬼にたあいした傷は与えられてないでしょう」
「……つまり?」
「耐火性があるんじゃあないかと、思うんですがね。あの毛皮。羽のほうかもしれないですがね。炎を使うかれんさんでは、ちょいとばあかし相性ってもんが、悪い」
相性、と祈が繰り返す目の前では、火蓮が様々な角度から炎を打ち出している。翼はあるものの飛行能力は持ち合わせていないらしい異形は地面を踏み鳴らしながら火の玉を叩き落とし、じわじわと火蓮の立つ電灯との距離を詰めている。
「ボクに、できることは」
「あっしと契約しますかい?」
祈は答えを躊躇った。ここで頷いてはいけないと本能が告げている。この生き物は口調以外なら可愛いが、ついでに信用を築けないほど胡散臭いということもないが、どうにも魔法少女というものへの忌避感が強い。
獣の鉤爪が電柱の柱を裂いた。傾き倒れる灯から飛び降りて火蓮は化け物に対峙する。特大の炎が化け物に向かって飛んでゆき、当たった瞬間爆発した。やはり異形には傷がつかない。火蓮の顔が悔しげに歪み、獣が月に吠え、大気が震動する。
「……足の付け根」
「いのりさん?」
「足の付け根を狙え、摘原さん!毛皮に変わる境目の少し上、そこが弱点だ!」
力の限り叫ぶ祈に、初めて火蓮の目が向いた。驚嘆に丸くなった紅玉の瞳が祈の姿を認めて揺らぐ。叫び声に化け物の興味まで引いてしまったが、囮と思って祈は化け物の背後に向かって走り出した。
「『青月・龍笛』」
火柱が、立ち上がる。祈に気を取られて防御を取り損ねた化け物は見事なまでに下から燃え上がった。そこには祈の指摘した弱点も含まれている。足の付け根あたりから毛皮に引火し、獣は激しく吠えた。暫く燃えて、黒く焦げ、三メートルほどまで小さくなった哀れな化け物が、土煙を立て砂場の中に倒れ込む。
「終わったのか」
「――祈君」
目の前で火蓮が泣いていた。強い眼差しは見る影もない。泣かれた理由が分からずに、祈の手は宙を彷徨った。怪我を、と尋ねれば、ゆるゆると首を横に振る。
「なら」
「なんで、ここにいるの?」
彼女もまた、黒い生き物と同じことを訊く。今になって祈に理解できることは、どうやら「夜の帳」とやらに自分がいることは彼女達にとってひどく不自然なことらしい、ということだけだった。祈は素直に、分からない、と答えた。
「ねえ、みかづき」
みかづき、と呼ばれた生き物は、どちらかと言えばおっさんくさい仕草で溜息をついた。
「あっしじゃあ、ない。あっしもよくわかってないんですがね、かれんさん」
「でも――」
「いや、あっしも何でも知ってるわけじゃあありませんかいね。そんなもんよりかれんさん、うしろ、うしろ」
みかづきに促されて火蓮は背後を振り返った。初手でばら撒いた炎は既に消火済みのため、そこには砂場で崩れていく化け物しかない。
「――え?」
黒く焦げた色鬼の躰がぼろぼろと欠けて、中から紫と緑の間を取ったような奇妙な色の羽が出現した。
「倒せて、ない?」
ぼろぼろと焦げが落ちていく。奇妙な色の羽と、先が三本の鉤爪に分かれた鳥のような足と、鱗の生えた胴体の、二メートルほどまで縮んだ珍奇な怪物が、ゆっくりと首をもたげる。頭は狼、更に凶悪そうになった牙に、祈の背を冷や汗が流れる。
「いの――」
瞬間、火蓮の小柄な体が宙を舞った。
「かれんさん!!」
みかづきの悲鳴が響き渡り、目の前に迫る異形に、祈の呼吸が止まる。
「ニン、ゲン」
化け物が何かを言っている。祈の思考はそこで停止した。
「ニン、ゲン。ツヨイ、ニンゲン。イイ、ニオイ。ツヨソウナ、ニンゲンノ、ニオイ」
狼の形をした異形の頭が祈に近付く。ひんやりとした鼻面が首筋に触れ、祈の体がびくりと震えた。
「イイ、ニオイ。ニン、ゲン。ホシイ」
「……欲しい?」
急激に意識が浮上する。祈は横目で色鬼の金色の眼を見た。狼というよりは爬虫類のような眼球はガラス玉のように透き通って祈を見つめ返している。
「ホシイ。ホシイ。ツヨイ、ニンゲン。イイニオイ」
「いのりさん!さっさと逃げちゃあ、くれませんかいね!?どおいうことかはわかりゃあしないが、今のそいつにおみゃあさんを襲おうって気はありゃあしない!」
翼の一振りで火蓮を吹き飛ばした異形は鼻面を祈の首筋に押し当てたまま動かない。祈はひとまず一歩下がり、色鬼から離れてみる。鬼はじいと祈を見て、ガラス玉の中の瞳孔を開いている。
「ボクと契約しないか。みかづき」
昏く祈の瞳が輝く。みかづきは煌々とした黒い双眸に息を呑んだ。
「いいんですかい?」
「構わない。――だってこいつ、悲しいんだろう」
黒曜石の眼差しはひたと異形にはりついている。獣が今までで一番大きな声で吠える。祈は最早へたり込んだりはしなかった。身体の内側で冷たいものがぐるぐると対流している。
「後悔しちゃあ、いけませんよ」
色鬼の瞳孔が細まった。ポニーテールを作っていた髪ゴムが千切れ、漆のような黒髪が風に流れた。
濃紫色の帯が、風に翻る。
顕れた銀色の杖を手に菫色の瞳の魔法少女はそっと獣の顔に触れた。黒い袖からのびる白い腕に狼頭が傾く。ちりん、と杖を持つ手の腕輪が鳴った。みかづきは祈から距離を取って全身を縮こまらせた。
「いのりさん、詠唱を――」
「必要ない」
ぱき、と静寂の街に音が響く。
「もう終わった」
祈の佇む目の前で、凍り付いたガラス玉がぼんやりとした月の浮かぶ天を仰ぎ見ていた。
直後に砕け散った氷像を一旦放置し、派手に飛ばされた火蓮の状態を確認するため公園の端まで移動する。幸い傷は浅く気絶しているだけのようだったが、衝撃のためか目を覚まさない。
「ボクの家で休ませよう。ここからなら五分もかからない」
「おみゃあさん、ここいらのお人なんですかい。そりゃあよかった。それと、あれ、拾っていっちゃあくれませんかいね」
色鬼を倒しても頑なに近付こうとしなかったみかづきが火蓮を背負った祈に漸く近寄って、崩壊した色鬼の方を小さな前足で指し示した。異形の残骸はその殆どが大気に消え、代わりに黄色い何かがきらきらと光っている。
「あれは?」
「卵なんですがね」
「卵」
「ええ。色鬼を倒すとあれが残るんですよ、いのりさん」
「ドロップアイテム的な?」
「ドロップアイテム的な。いくつ落ちるかは鬼によるんですがね、そりゃあうまいっていうんで、かれんさんはいつもあれでオムレツ作っては食べ、作っては食べ……ちょいと食べすぎなんじゃあないかとは、思うんですがね」
「卵……」
卵、という時点で祈の頭はパンケーキでいっぱいだった。火蓮を背負ったまま袂を確認し、きらきら光る怪しい卵六つを無言で放り込む。その間の祈の瞳を見たみかづきはそっと視線を外した。
「その卵、ちょっとやそっとじゃあ、われないんですがね」
「それは良かった」
行こうか、と祈が立ち上がる。三つずつに分けられて仕舞われた卵でぽこぽこと膨らんだ黒い袂を見て、やはりみかづきは視線を逸らした。そのまま会話の無いまま数分歩き、一軒の屋敷の前で祈が止まる。
「こりゃあまた、立派なお屋敷じゃあありませんかいね」
「そうかな」
古い屋敷というわけでもないが、施主の趣味か、武家屋敷、というよりはどちらかと言うと寝殿造りに近そうな構造の大きな日本家屋である。気後れするみかづきを気遣うこともなく迷いなく門を開けて日本庭園の前庭を抜け、屋敷の扉に手をかけてから、しまった、と呟いた。
「鍵が」
魔法少女契約が成立し、祈は衣装チェンジの上銀色の杖を獲得して、代わりに何故か自らが着ていたはずの制服と持っていた荷物を失ってしまっていた。家の鍵が制服のスカートのポケットに入っていたことを思い出した祈が困惑の表情でみかづきを見ると、ああ、と声を漏らしたみかづきの尻尾がぱたぱたと振られる。
「懐を漁ってみちゃあくれませんかいね。――ありましたかい」
重たい腕で言われた通りごそごそと懐を探れば、見慣れたイルカのキーホルダー付きの鍵が現れる。背中に十五の少女、左手に二本の長い杖という重装備のままやっとの思いで家に入り、三の間にひとまず火蓮を寝かせた。彼女をみかづきに任せて台所に移り、冷蔵庫の空の卵ケースに獲った卵を片付け身軽になった祈はぐっと一つのびをする。寝殿造をベースに書院造を混ぜ、その上洋式の構造を加えた影響でかなり複雑化している邸宅で、知らない人間がうろつけば確実に迷子になる。あの自由奔放そうな黒い生き物がふらふらしないうちに三の間に戻ろうと祈は長い廊下を急いだ。ちなみにそんな要素満載の家だが、意外にもデザイン性が優秀で慣れると住みよいのは設計者の腕である。部屋に戻ると、黒い生き物は畳の上でごろごろと寛いでいた。図々しい、と思いながらも隣室からテーブルと座布団を引っ張り出し、一枚をみかづきに投げやった祈は、おもむろにわっしとくろい黒い生き物の首を掴んだ。
「ちょいと、いきなりなあんだっていうんですかい!?」
「とりあえずは仕置いておくべきかと思って」
「理不尽!いのりさん、思った以上に怒ってるんですかい!?おみゃあさんが巻き込まれたのはほとんどおみゃあさんのせいなんですがね!?」
想像よりもひどい責任転嫁ぶりに逆に冷静になった祈はみかづきを床に置き自分は座布団にたおやかに座った。言い分を聞こうか、という言葉に多少は罰が悪かったのかみかづきも大きな耳をぱたんとたたんで、行儀良く座りなおす。
「杖、見せちゃあくれませんかいね。いのりさん」
自分の背後に置いていた二本の杖を自分とみかづきの間に置き直して、祈は、これが何か、と尋ねる。みかづきは黒い前足で杖の頭のあたりからのびる濃紫の細い飾り帯をたしと踏んだ。
「この帯、『竹帯』って呼ぶんですがね」
「竹の要素がない」
「ちょいと黙ってちゃあくれませんかいね!?……竹帯は本人の魔力によって色と本数と長さが変化するんですよ。色が質、長さと本数が魔力量を示すんですがね、ふつうなら五十センチほどの白いのが一本あれば十分ってもんでしょう」
祈は無言で視線を下に落とした。杖の一本は祈ではなく火蓮のものだが、金色の柄に確実に一メートル近い赤色のものが二本のびている。続いて祈は先程自分の手に直接顕れた銀杖に目を遣った。みかづきが前足で踏んでいるまさしくそれは自身の身長から逆算しても一メートル五十センチはあるだろうし、この謎の前足が踏みつける他に二本、同じ長さのものがセットでついている。
「長い」
「そお、長いんですよいのりさん。どお控えめに見ようと、長いんですよ。あと多い」
「摘原さんのも長いと思わないか」
「ええ、長いでしょう。はじめ見たときはあっしも驚いたんですがね、さっきの驚きといったらそりゃあもお比べようもないってもんでしょう」
それに、とみかづきの話は続く。
「問題はどちらかあっていうと色のほうなんですがね」
「質が変わるとか」
「ええ、魔力の質にも等級がありまして、下から順に黒、白、黄、赤、青、紫に、濃淡をつけて十二段階で区別してるんですがね、いのりさん」
「そうか。この淡赤色はいいな……可愛い」
「そりゃあ、かあいいのは認めましょう。でもそこじゃあない」
「分かってる。どうせボクが最上級の等級を持ってるのが問題だとでも言い出すんだろう」
「おや、察しがいい」
祈が鼻を鳴らす。みかづきは頭を低くして祈の竹帯に顔を寄せた。愛くるしい藤色の瞳に困惑の色を浮かべ、低く呻る黒い生き物の艶やかな毛並みに祈の手が微かに震える。
「はっきり言いましょう。いのりさん、自分が世界に愛されてるって自覚、お持ちじゃあありませんかいね」
数拍の間をあけて、祈の口角が上がる。元々整った顔立ちは、笑めば雪原のように美しかった。
「度胸はない。なのに死を恐れない。なあんて、変な話だとは思いませんかいね。おみゃあさん、鬼と向き合ったあのとき、自分が死にゃあしないってわかってたんでしょう」
脇のテーブルに肘をついて祈は静かにみかづきの話を聞いている。穏やかな表情のまま目ぼしい変化のない菫色の魔法少女にみかづきは溜息をついた。存外に食わせ者らしい二人目の契約者を見上げ、踏んだままだった濃紫の竹帯をたしたしと叩く。
「世界に愛された人間は、どおにも『境界』を越えやすいもんなんですがね。いのりさんが『夜の帳』に入りこんだのはそのせいじゃあないかと、あっしは思うんですよ」
そおは思いませんかいね、と問うみかづきの真っ黒な頭を祈は遂に撫でた。きょとんとするみかづきを一通り撫で回し、満足げな祈がごろりと横になる。レースで縁取られた袴風のスカートが際どいラインを描いているが、祈は構わずに足を伸ばした。
「なんだ、それ……昔から視えるのは妹の方だった筈なんだけどな……」
「いのりさん?おおい、いのりさん」
ちりんと腕輪が鳴って、僅かに眉尻が下がる。みかづきの必死の揺さぶりを無視して、次第に心が現実から遠ざかる。
「変なの……どうしてボクなんだろうな……どうして……ボク、は…………」
濡れたような瞳が、言葉と共に瞼の奥に沈んでいった。
ふわふわ、きらきら。浮かべる笑顔は砂糖のようで、零れる声はミルクのよう。抱きしめればかすかに桜の匂いがする。甘くて哀しい。優しくて苦しい。愛しい。愛しい。壊れてしまうほどに。
何処に立っているのかわかっていない可哀想な子どもに手招きをして、そっと、誰にも気付かれないように手繰り寄せる。ハーメルンの笛吹き男は笛を吹いたが、笛など無くても子どもはこちらにやってくる。大人たちは子どもの本当の姿をまだ知らない。知られる前に奥に隠して、二度と子どもが傷付かないように。
ふかふか、ぽかぽか。優しくて哀しい。一人ではどこにも行けない子どもの手を繋いで、桃源郷はすぐそこに。
一部ちょっと直しきれてないので次の更新までに改稿します。