Case.2 絶望希望犯④
夕姫たちが科捜研に着くと、山井は呑気にコーヒーをすすっていた。
「何かわかったか?」
藪から棒に佐藤が聞く。
「佐藤要警部補、我々科捜研はね、何かわかったらちゃーんと君達に報告するしっかりとした組織だよ?」
「…つまり、何もわかってないってことか?」
「司法解剖もまだですからね、さすがにまだ何とも…」
文乃が答える。
「先輩の主観でいいんですけど、現場に何か気になる点は無かったですか?」
今度は夕姫が山井に聞く。いい質問だ。
「僕の主観を頼ってくれるなんて、いい後輩を持ったなァ」
山井がわざとらしく言う。
「おい葉田、話半分で聞いておけよ」
「やれやれ、同期には恵まれないもんだなァ」
そうか、佐藤と山井は同期なのか。
「…そうだな、僕が一番気になったのは粉チーズだな」
「粉チーズ?」
「僕はこう見えてかなりこだわって料理を作る男なんだが、そんな僕でも見たことの無い粉チーズが1本置いてあった」
どちらかと言えば山井はそういう男に見える。それにしても意外な着眼点だった。水槽の向きの関係上、涼の視界には入らなかったがそんなものがあったのか。もっとも、涼はほとんど料理をしないため変わった粉チーズがあっても気づかなかった可能性が高いが。
「ほかに置いてあった調味料はまぁどこでも入手できるようなものばかりだったからね、あれだけが不自然に思えた。まぁ友人からのお土産という線が濃厚だろうが、何も調べることが無く暇を持て余しているようなら出所を探ってみてくれたまえ」
「山井、言いたいことは三つだ。ありがとう、一言余計だ、そしてそういうことはあの現場で言え」
「その粉チーズ、鑑識の写真に写ってないか調べてみましょう。文乃ちゃんは何か気になったことある?」
「うーん…私は遺体があった場所ですかね。ほら、殺害現場は浴室じゃないですか。なのになぜわざわざ遺体を部屋の中央まで運んできたのかなって。まぁ、猟奇殺人犯相手にこういった整合性を求めるのも変なのかもしれませんが」
その点は涼も気になっていた。秩父のフリージア同様、犯人にとって何か意図がある行為に思える。
「そうだな、遺体を部屋の真ん中に置くことに何か意味があるのかもしれないな」
佐藤もそう思っていたようだ。夕姫も頷いている。
「ありがとう、また何か気づいたりしたら連絡して」
「邪魔したな」
コーヒーをおかわりする山井を横目に、夕姫たちは再び科捜研を後にした。
* * * * * *
23時、織川文乃は一人暮らしのマンションに帰宅した。文乃にとって今日はいろいろなことがあった日だった。目を覆いたくなるような猟奇殺人が起こった。そして夏樹涼が生きていた。と言うより精神が伊勢海老に乗り移っていた、という事を聞かされた。まだ完全には信じられないが、もし本当なら…涼に伝えたい。あの日、あの場所で本当にあったことを。涼が意識を失う原因になった、本当の理由を。自分は背負い投げなんかしていない。それどころか…。
しかし、今の文乃に真実を伝える術は無かった。文乃の周囲には強大な権力が渦巻いている。今までの日々を幸福に過ごせたのはその権力のおかげである。そしてその幸福の代償の如き悲運に、文乃は巻き込まれてしまった。このまま無実の罪を背負って生きていくことになる可能性が頭をよぎる。深いため息が出た。まさかこんな形で妙な冤罪を背負わされるとは。ほかの人間にどう思われても正直どうでもいいが、涼には真実を知っていて欲しかった。それがエゴなのは理解しているが。
文乃は冷蔵庫を開ける。並んでいるビールをじっと見つめ、緑茶を選んだ。科捜研でも緊急呼び出しがかかる可能性はあるのだ。警察という組織に対する不満を抱えながら、その組織の敷いたルールを順守する自分。はぁ…。さっきより深いため息が出た。
* * * * * *
大原陽子の死体は発見されたのだろうか。先ほどニュースをひととおり確認したが、そういった事件の報道はされていなかった。死体が死体なだけに報道規制が敷かれているのだろうか。警察の動きがわからない。
さて、殺すか。キッチンで何かを作っている木沢明日香の背後に立ち、その細い首に手を伸ばす。今回は絞殺でいこうと思う。こんなにも近くに殺人鬼がいるというのに、その危機にまったく気づけない。自分が殺されるなんてこれっぽっちも考えていないのだ。つくづく平和ボケしている。
「なーにー?」
振り向かずに木沢明日香が言う。気配を感じはしたのだろう。私は無言を貫く。おそらくあと数秒で彼女はこちらを向く。向いた瞬間にこの手を首にかけるのだ。
「…どうしたの?」
私の反応が無いため、彼女が振り返った。次の瞬間、私の手は彼女の首をとらえた。
「えっ!?」
一瞬の声。私はそのまま彼女をキッチンの壁に押し付け、手に力を入れる。彼女が懸命に私の手を振りほどこうとする。
「…ちょ…くる……し…」
さらに力を入れる。彼女は私の手を必死に引っ掻いてくる。後で爪の中を綺麗にしないと皮膚が採取されてしまう。このまま首の骨を折っても良いが、やはり自分の手の中で絶命してゆく彼女の顔を観察したい。彼女の目から涙がこぼれた。なかなか美しいものを見せてくれる。
「…あ……ぁ………」
私の手から彼女の手が離れ、次の瞬間彼女は崩れ落ちた。体重が一気にかかり、私はその手を離した。死んだのだろうか、それとも気絶しただけだろうか。床は液体で濡れていた。彼女が失禁したのだろう。大原陽子のように、最初から風呂場で殺せば運ぶ手間も省けたか。私は自分の失敗を反省しながら、彼女を風呂場まで引きずって行く。さて、これからが大変だ。