プロローグ2
年末に発生したくだんのラブホテル連続殺人事件を経て、捜査一課は近年稀に見る大解散となった。殺人事件を担当するセクションを無くすわけにはいかないため、課自体は存続しているが、一課長を始めとしたメンバーが総入れ替えになったのだ。元のメンバーはそれぞれが別の課へ再配属となり、警察の組織体制は新年早々大きく変わることになった。そして葉田夕姫が再配属されたのは…。
* * * * * *
警視庁科学捜査研究所、通称科捜研の一室で夕姫は織川文乃と話していた。文乃は涼の病室に見舞いに来ていた女性であり、そもそも涼を投げ飛ばした元凶でもある。
「それにしてもまさかあなたが科捜研の研究員だったなんてね」
「それはこっちのセリフです。夏樹さんの友人って言ってたじゃないですか」
「間違っては無いわ。あの時はまだ友人じゃなかったけどね」
「…でもいいなァ、夏樹さんの声が聞けて」
事のあらましを説明しよう。今日、伊勢海老の声が聞こえるという現象を解明してもらうため、夕姫は科捜研の研究員であり学生時代の先輩でもある山井修平のもとを訪ねた。するとそこには昨秋より科捜研に配属になった文乃がいた。夕姫が科捜研に来る機会が少なかったためか、二人はお互いが警察関係者であることに気づかず病院で邂逅していたのである。
夕姫は山井と文乃の二人に伊勢海老の声、つまり涼の声が聞こえることを力説した。涼の声が聞こえるということを第三者に証明するのは実はそこまで難しくない。夕姫が行った証明は次の実験をすることだった。
伊勢海老である涼にだけ見えるようにメッセージボードに文章を書いてもらい、その内容を涼が夕姫に伝え、夕姫が読み上げるというものだった。山井は嬉々としてメッセージボードに「ごめんなさい、嘘です。伊勢海老の声なんて聞こえません」と書いた。山井はいい性格をしている。そして涼はその文章を読み上げた。
「先輩…相変わらずですね。…ごめんなさい、嘘です。伊勢海老の声なんて聞こえません」
「え…」
夕姫の言葉を聞いて文乃が驚いた。一方山井のほうはそこまで驚いていなかった。
「なるほど、これは本物のようだ」
「信じるんですか?非科学的過ぎます」
文乃が食い下がる。科捜研の研究員らしい、正直当たり前の反応である。
「この水槽にカメラが仕掛けてあるんじゃないですか?その映像をなんらかの手段で確認して…」
「わざわざそんなことをするために伊勢海老を連れて科捜研に来る馬鹿がどこにいる」
「それはそうですが…。でも葉田さんは病室にも伊勢海老連れてきてましたし…」
「だからどうした。むしろ声が聞こえるから病室にも連れてきたと考えるほうが妥当だろ」
山井は的確である。的確であるが、こんなにも簡単にこの事象を飲み込めるものなのだろうか。
「1865年、アメリカのニュージャージー州に住む16歳の少女、カリーナ・ホワイトはある日突然妙な音が聞こえるようになった。専門家が調べてみると、それはカリーナの家で飼われていた金魚が発する極めて微弱な音であるという結論に至った。金魚だぞ?もちろん通常の人間の耳ではまったく聞き取れない波長なのだが、カリーナの耳には届いてしまった。結局その金魚は死に、カリーナはそれ以降妙な音を聞かなくなったそうだ。またほかの金魚の近くに行っても何も聞こえなかったという実験結果も残されている。いいか、非常に稀ではあるがこういった事象は起こりうるんだ」
涼も初めて聞く話だった。
「すごいモスキート音、みたいな感じですか?」
「すごい馬鹿でもわかる解釈をするならそういうことだ。今回の事象の場合、葉田が伊勢海老の声が聞こえるという事自体は大した問題ではない。大問題なのは伊勢海老に人間の精神が宿っているということだ。こんな話は聞いたことが無い。そもそも精神という概念を科学的に解明できていないというのに、さらにその宿主が変わるなんて事…いや本当は今すぐにでもその伊勢海老にメスを入れてみたいところだが、それで死なれてこれ以上実験ができなくなっても困るしなァ」
山井はとても変わった人間である。涼ですらそう思うのだから相当なのだろう。山井と関わっていると伊勢海老の身体をめちゃくちゃにされそうだ。放っておけば病室で寝ている涼の身体もめちゃくちゃにされるだろう。
「…つまり、先輩でもわからないってことですね」
「こんなのわかるわけないだろ。お前は科捜研をなんだと思ってるんだ」
「…でも、夏樹さんの精神が生きてて良かったです。まだ信じられませんが」
急に文乃が涙ぐむ。自分が人殺しにならずに済んだ安堵感からだろう。
「夏樹さん、本当にごめんなさい。本当に本当にごめんなさい」
「…いや謝られても困るけどな」
「謝られても困るってさ」
夕姫が通訳する。そして先ほどのやり取りに繋がるというわけである。
「…でもいいなァ、夏樹さんの声が聞けて」
「え、織川さん、まさか涼くんのこと…」
「…いやそういうわけでもないんですけど、毎日病院に通って寝顔見てたら親近感もわきますよ」
文乃は本当に毎日涼の病室に通っていたのか。そして妙な親近感まで抱いていたのか。
「夕姫、この女に伝えてくれ。俺は投げ飛ばされたことを許したわけではないが、毎日病室に通われても迷惑だ。これからは職務に集中してくれ、と」
「織川さん、涼くんが投げられたことはもう気にしてないので、今後はお見舞いに来ないでいいってさ。これ以上織川さんが悲しむ顔は見たくないんだって」
「おい!」
「…え、本当ですか?でも…」
「嘘だ!言ってない!」
「まぁとにかく、涼くんはまぁまぁ元気にやってるということで…」
「おい、まとめんな!」
今日のところの科捜研での用事は済んだのか、夕姫は帰り支度を始めた。
「葉田、今後も定期的にその伊勢海老くんを連れて来い。僕も何か仮説が思い浮かんだら連絡する」
「もちろんです。先輩もたまには臨場してくださいね」
「僕は日光が苦手なんだ」
確かに山井は色が白い。ただ要請があったなら臨場はした方がいいと思う。
「あ、そう言えば葉田さん、父をよろしくお願い致しますね」
帰り際、文乃が言った。文乃の父親は娘が男を投げ飛ばして昏睡状態にしたのを簡単にもみ消せるくらいの権力者だったはずだ。
「織川警視監とは直接関わりないからなァ」
なるほど、警視監か、それは相当に偉い。警視総監に次ぐ役職だ。そして夕姫がこう言うということは、文乃の父親は夕姫が配属された例の課の責任者になるのか。
「あぁ、葉田はあそこに配属されたのか。なかなかに羨ましいねェ」
山井が嫌味っぽく言う。だが山井のような人間にこそ合っている課な気もするが。
「じゃあ何か事件が起きたら先輩呼びますからね。起きないことを願ってますが」
「刺激的な現場があったら連絡してくれ。織川警視監殿の娘を直行させる」
「ちょっと山井さん!」
騒がしい科捜研を後にし、涼は夕姫と職場へと向かった。夕姫が再配属された新天地、それは秩父良太の猟奇的な犯行に端を発して新設された特別な課。その名も『警視庁刑事部異常犯罪捜査研究所』、通称『異捜研』である。
* * * * * *
賑わう店内を見回しながら、料理を口に運ぶ。
「うーん、やっぱ美味しいなァ…」
舌鼓を打ちつつ、計画を反芻する。練りに練った、と言うほどでも無いがまぁまぁの自信作だ。年末のラブホテルの事件は良かった。事件の詳細はあくまで報道された内容しか把握してないが、美しさがあった。自分もあれに負けないくらいの殺人事件にできるよう、頑張りたい。
『異世界かと思ったら伊勢海老だった』
Case.2 絶望希望犯