昨夜、酔っぱらって帰ってきたご主人の様子が何だかおかしいのである
吾輩は猫である。
名を“しゃもじ”と言う。
誇り高き虎猫である。
今宵も一匹でご主人の帰りを待つのである。
それにしても今日はご主人の帰りが遅い。
とはいえ、それも仕方なし。
ご主人はOLなる仕事をしており5日働いて2日休むという生活をしているのである。
今日は働いて5日目であるから明日は休むので、この日は大抵遅い。
むぅ……それにしてもお腹が空いたのである。
そのとき部屋のドアがガチャリと鳴る。
むっ! どうやらご主人が戻ってきたようであるな。
吾輩は定位置である机の上からスタリと華麗に着地する。
うむ、空腹ながらも身体のキレは悪くない。
美しい縞模様で彩られた尻尾を揺らしながら吾輩はご主人に近づいていく。
「あ~、しゃもじ~、たっだいま~」
うむ、お仕事ご苦労である。
吾輩は慰撫の念を込めて「みゃお」と鳴く。
ご主人は酒精を摂っているのか千鳥足で玄関から入って来る。
赤ら顔でフラフラと帰宅する様子は見目が良いとは言えぬが、それもやむを得なし。
ご主人は日々ストレスにさらされ続けながら働いている。
その就業の疲れを定期的に酒精で洗い流すのは必要なことなのである。
「あはは~、楽しかった~♪」
うむ、それは重畳。
ご主人の満足気な顔を見ると吾輩の心持ちも良くなってくる。
しかしてご主人よ。
そろそろお腹が空いたのであるがな?
むむ? ご主人よ?
床にゴロリと転がったご主人は動かなくなってしまった。
むぅ、これは今日の夕餉はなしということであるかな?
◇
翌朝、起床したご主人の様子がおかしい。
何やらずっと右側を向いたまま、時おり痛そうに眉を顰めている。
これはもしや首のすじを痛めたのではなかろうか?
「うぅ……首痛い」
ふむ、どうやら間違いはなさそうだ。
しかしあのように冷たい床の上で眠ってしまってはそれも仕方なし。
ご主人は吾輩のように毛皮を纏っている訳ではないのである。
見よ、この艶やかな虎縞柄の毛皮を!
毛づくろいを怠らぬ吾輩の毛皮は興味見事な輝きを放っている。
「あ……痛たた」
む……いかんな。
悦に入っている場合ではない。
大丈夫か? ご主人よ。
ご主人の苦鳴を耳にした吾輩は足元にすり寄り「にゃあ」と鳴く。
「しゃもじ、おはよう……うん、いい子だね」
うむ、喉の下を擽られると非情に心地よい。
思わずゴロゴロと喉が鳴る。
そのとき再びご主人の口から苦鳴が漏れる。
「痛っ……ああ、ごめんね、しゃもじ。朝ごはん用意するからね」
いや、違うぞ。
ご主人腹は減ってはいるが、今は無理に用意せずともよい。
まずは養生するがよい。
吾輩は慌てて「むにゃあ~」と制止するがご主人は痛む首を圧して吾輩の朝餉を準備する。
うむ、今日は袋のカリカリの方であるな。
出来れば缶詰のムキュムキュが……ああ、いや違う。
無理はするな、ご主人よ。
「はい、どうぞ。昨日は晩御飯なしでゴメンね」
差し出された目の前にはカリカリが山盛りになって乗せられている。
その光景に思わず腹が鳴る。
昨夜から何も補充していない胃袋は強烈に食物を求めていた。
うぅ……………………すまぬ、ご主人よ。
吾輩が食欲に負け朝餉を貪る間にもご主人は唸りながら首を捻る。
「ふ~ん、冷やしたらいいんだ……痛っっ」
ご主人は何やら妙な腕の角度でいつものピンク色の板を構えている。
うむ、何やら持ちにくそうであるな。
ご主人はピンク色の板を見にくそうに構えてから冷たくなる箱から氷を取り出し、ビニール袋に氷を入れ始めた。
非常に出しにくそうであるな。
うむぅ……手伝ってあげたいのだが、吾輩の手ではそれも難しい。
普段は柔らかさが自慢の爪と肉球であるが、吾輩の五指はこういう作業にとんと向いておらぬ。
口惜しく思う間にもご主人は氷を入れた袋で首筋を冷やし始めた。
その後もご主人は普段は滅多につけぬテレビをつけてゴロゴロと転がっている。
しかし首が快方に向かっている様子はないようだ。
そんなときである。
何やらご主人がごそごそとおかしな動きを始めたのだ。
首を奇妙な方向にかしげたまま左手を背中に回す。
「………………痛い」
ご主人が両の瞳に涙を溜めながらうずくまる。
そしてひとしきり震えた後、次は右手を背中に回す。
「痛っ!」
珍妙な仕草で腕を回した後、ご主人は再びうずくまる。
むぅ、痛そうなのであるな。
如何したか? ご主人?
「孫の手があったらな」
孫?
ご主人よ、孫や子の前に番の雄を見つけるのが先ではないのかな?
吾輩の頭の中に無数の疑問符が増えて行く中、ご主人がムズムズと背筋を動かしていく。
おや? この動きは?
ご主人は背中のある部分を目指して手を伸ばしている。
だが首に不具合があるのか上手く手を伸ばせず、ゴソゴソと悶えている。
ふむ、どうやら背中が痒いようであるな。
心配して損をした。
それにしても人間というのは不便であるな。
手が駄目ならば足で背中を搔けば良いものを。
見よ、この吾輩のしなやかな後ろ足。
雉虎柄に包まれた吾輩の後ろ足は自在に背中を走る。
背中だろうと、首だろうと、耳の裏側であろうとも、搔き放題なのである。
吾輩が得意げに毛並みを掻き分けていると、ご主人は部屋の中を漁り始めた。
「何か代わりのものないかな?」
うむ、どうやらご主人は孫の手とやらの捜索を諦め、何か別の物を探し出したようである。
ある程度の長さの棒を見つけては背中に回し、それが短いと「うんうん」と唸り声をあげている。
「去年、編み物に挑戦しとけばよかった……」
そういえば去年は編み物がどうのと言っていたのであるな。
結局、編み物はしなかったのだが、例え挑戦していたとしても編み棒で背中を搔くのはいかがなものかな?
「くそ~、この痒みのヤツめ……」
憎々し気に悪態を吐く。
ご主人よ、如何に人目がないとはいえ少々はしたないぞ。
吾輩のご主人である以上、如何なるときも優雅さを忘れてはいけないのである。
吾輩は尻尾を揺らしながらご主人に向かい「みゃ~う」と鳴いて窘める。
普段ならここで吾輩に注目するのだが、今日のご主人はよほど余裕がないらしい。
相変わらずごそごそと部屋の中を漁り続けている。
そうして諦めがついたのか、部屋の中の探索を中止すると台所に向かい歩き始めた。
むむ? 次は何をするつもりであるか?
訝しい顔をする吾輩を他所にご主人はピタリと足を止める。
そこは台所の柱の前だ。
「なら、これでどうだ!」
ご主人が獅子吼する。
むぅ!?
ご主人、何を??
困惑する吾輩を前に、ご主人は柱に角に向かい背中をゴリゴリと擦りつけた。
ふむ、なるほど。
手が回らない故に、こうして背中を搔くわけだな。
妙案ではあるが、こうして背中を柱に擦りつける姿はお世辞にも見目が良いとは言えない。
奇行と言って差し支えない動きなのだが、それほど切羽詰まっているという状況なのだろう。
吾輩は広い心でご主人の挙動を許して見せるのだが、どうにもご主人の様子がおかしい。
「よし、いい感じ……かも?」
それは重畳。
良かったな、ご主人よ。
吾輩は「うにゃ~」と鳴いてご主人を慰撫する。
しかしご主人はそんな吾輩の声が聞こえていないのか、柱に擦りつけていた背中の動きを止めてひと言いった。
「これ……ちょっと違う」
その顔は不満に塗りつぶされたものだった。
どうにも上手く掻けなかったらしい。
むぅぅ、そうかご主人、残念であったな。
背中の痒みが頂点に達しているのか、ご主人の動きはどんどんおかしくなっていく。
そしてこともあろうか上に着ていた服を脱ぎ捨てたのだ。
「なら、これでどうだ!」
上の服を脱いだご主人の上半身は裸で、起伏のない流麗な身体の線が露わになる。
当然、次に行うのは先ほどと同じ「背中を柱の角に擦りつける」という奇行だ。
「あ……ちょっと気持ちいいかも」
うむ……良かったのであるな……
しかしご主人よ。
今の姿は吾輩の主人の姿としてはあまり褒められたものではないぞ。
吾輩は呆れながらも生暖かい目でご主人の挙動を見守る。
むぐぅ……やはりうら若き乙女が乳房を見せながら背中を柱に擦りつけている様は世辞にも麗しいとは言えぬ。
禄を食む身とはいえ、本来なら主人を強く窘めるべきなのだろう。
しかし今はご主人の窮地。
吾輩は尾の先に力を込めると、無様に悶えるご主人を見守ることにした。
ご主人は相変わらず、むき出しの背中を柱でゴリゴリとやっている。
そんなときご主人の喉からひと際大きな声が上がった。
「あぅ!!……………くびいたい」
そしてご主人は崩れ落ちる。
おまけに瞳には涙まで溜めている始末だ。
どうやら己の無力を噛みしめているらしい。
うむ、これはいかんな。
これはいよいよ吾輩の出番であるな。
吾輩は床で突っ伏しているご主人に向かい、案ずるがよいと意を込めて「みゃ~お」と鳴いた。
「しゃもじ?」
これ、そのような顔をするでないぞ、ご主人よ。
ご主人の悩みはこの吾輩が解いてしんぜよう。
吾輩は伏したままのご主人の背にそっと前足を乗せ、指の先からそっと爪を伸ばした。
見るがよい!
人間と違い吾輩の爪は自由自在に出し入れが可能なのだ。
常に爪とぎ用の板で磨き上げている吾輩の爪は名刀の如く研ぎ澄まされている。
本来ならば人間の肌など容易に引き裂くことが可能な吾輩の爪であるが、今はその力を十全に発揮する必要はない。
ご主人の背に前足を乗せた吾輩は爪先に僅かながらの力を込めて引っ掻いた。
するとどうだろう。
先ほどまであれほど痛痒に悩まされ歪んでいたご主人の表情が氷解するように解けていく。
「えっと、しゃもじ……もっと右の方もお願い」
うむ、任せるがよい。
カリカリ、カリカリ――
「あぅ!」
ボリボリ、ボリボリ――
「ふぁぅ!!」
吾輩の爪がご主人の背中を駆け抜ける度に、ご主人が奇声をあげる。
「あ~あ~、きもちいぃ~」
それは重畳。
しかしご主人よ。
余人に聞かれておらぬとはいえ、あまり喘ぎ声を上げるのははしたないぞ。
「しゃもじ次はちょっと強めで」
ご主人は満足そうに表情を蕩けさせている。
ふむ、まぁ、良しとするか。
ここで水を注すと言うのも無粋であるな。
吾輩はご主人の注文するとおり、ほんの少しだけ力を加えて痒みの元を裂いていく。
「ああ~、気持ちいい~♪ しゃもじがいたら、もう彼氏はいらないわ~」
それは光栄であるが、いずれ番は見つけねばならぬぞ。
まぁ、今日ばかりは吾輩が相手をしてやるとしよう。
そう思い、吾輩はご主人の背中をボリボリと搔くのだ。
前話とは逆視点で書いてみました。
シリーズですので、よければ前の話もご覧ください。