8 マルガレーテ
私が『マルガレーテ』に勤め始めてからというもの、とにかく覚えることが多く、目が回るような忙しさだった。
まず最初にしたのが、店で取り扱っている商品の種類や用途を覚えること。それらは一般の服飾についてのものだけでなく、初めて知るものばかりなので、どうなることやらとため息が出てしまった。
それを笑いとばし、また励ましてくれたのは、同僚で一番年が近いエマ。
彼女は私よりも一年先輩で、すでにこの店にとって立派な戦力だというから、たいしたものだと思う。
「大丈夫よ、ここにあるのは確かに一般的なものではないけれど、オーダーメイドだからその都度覚えていける。微調整まで任されることになるから責任重大だけど、他の従業員たちも助けてくれるから」
エマがそう言って見せてくれたのは、主に魔法使いたちが使うコートや帽子、それから織物でできたブレスレットや靴。
それらにはラルフたち騎士団の制服に施されたような、いくつもの身を守る護符が縫い込まれているのだという。
護符というのは、魔力を方式に則って導き、特定の効果をもたらすために造られた紋章のことだと教わった。ここ『マルガレーテ』では、その護符を含めた服飾品の制作を引き受けている、いわば魔法使い御用達店なのだ。
「前途多難な気しかしないんだけど……」
「あはは、私もそうだったよ。でもヒルデさんが言ってくれたの、『ここに雇うからにはちゃんと選んでいるつもりよ。私が見込んだのだから、大丈夫。きっと一年後もこの店で働いているわよ、あなたは』……てね」
エマは珈琲色のおさげを揺らしながら、得意気に笑った。
一階店舗に置かれたサンプル衣装のそばには、分厚い年季のかかった辞書まである。こんな店はきっと、ここマルガレーテくらいだろう。少しめくってみると、紙は黄ばんでかすれている字もあった。
「私もエマみたいになれるといいけれど」
「すぐに分かるわよ、ヒルデさんって人の意見に左右されるような人じゃないってことは。いくらラルフェルト様の紹介だからって、使えると判断しなきゃ雇わないわ」
「……そういえば、うん。そのヒルデガルトさんの人柄については、なんとなく分かる気がする」
エマはあっけらかんと笑って上階を指差し、続けた。
「じゃあ次はあっちね。今は女性騎士団員用の制服を更新するために、試作品を作っているところなの。個人のものよりも細工が多いし、複雑だから従業員総出よ。おおまかな仕事の流れをみるには丁度いいの、でも滅多にない仕事だから、リズは居合わせてラッキーだったわね」
今度は二階に上がり、私たちは大部屋の方の作業場に入る。
中ではオーナーであるヒルデさんを中心に、型取りして裁断した布地を置き、その周囲に入るワッペンの紋章から飾りの組紐、刺繍で施す護符などのサンプル図などを並べて、皆が囲んでいた。
どうやら発注元の騎士団から入れてほしいと要望のある護符と、無理のないデザインとの組み合わせを決めているようだった。
邪魔にならないよう、エマとともに一歩引いた場所でその様子をうかがっていると、エマが小さな声で補足説明を入れてくれる。
「まずベリエスさんが大元になる生地の裁断と縫製を任されているの。彼が縫う服は正確に体に合っているから、とても動きやすいって評判よ。それで、その生地に隠れるように護符を縫い付けるのが、クーンさん。長年この仕事をしているから、どうしても悩むときは彼女を頼るのよ。たまにアンネなんかは恋愛相談もしてたりして」
「聞こえているわよ、エマ?」
ちらりとこちらを向いて、年頃の従業員アンネが頬を染めながら睨むが、エマはうふふと笑って誤魔化す。
「そのアンネ……アンネゲルトは装飾を取り付けるのを得意にしているわ。飾りに見えて実は組紐にも護符の効果があるから、そういうのはアンネに頼んじゃっていいわ。一本ごと繋げるのは、本当に一苦労なのよね。で、私は刺繍とレース担当よ。編み細工も得意だけど、とにかく数が多くて特に手が足りないから、そのあたりもリズに期待しちゃっているからね。早く仕事に慣れて、私がデートにでかける時間をつくらせてくれれば……」
「その前に恋人をつくりなさいよ~」
「やだもう、ミロスラフってば、言わなくてもいいのに!」
最後に濃緑色の髪をした若い男性従業員がツッコミをいれてきた。
作業場に自然と笑いが起こる。
ここに来て以来、作業場にはピリリとした緊張感というより、アットホームな空気をずっと感じる。作業はとても緻密なものばかりなので予想外だったけれど、のんびりとした田舎育ちの私にはとても心地よい。
「あのたまに余計なことを言うミロスラフが担当するのは、彫金ね。ボタンや補強の金具、細工の細かい部分もまた個別注文になるの。あとは外注の靴屋や帽子屋との細かい調整、それから採寸なんかも手伝っているわ。口が上手いから、ヒルデさんが留守の時は店番もさせられているわ」
エマの説明は、彼女からの感想入りでとても面白い。おかげですぐに皆の特徴まで覚えてしまう。
それからしばらく皆が意見を出し合って、デザインの雛形を決めたようだった。
すぐにベリエスさんが仮縫いで形を整え、まち針でクーンさんとアンネが護符のサンプルを取り付け、ミロスラフさんがデザイン画に飾りの注釈を書き留めていた。エマは袖とジャケットの裾裏に施す刺繍のサンプルを付け加える。
それらをあっという間に完成させるのを、私は目を皿のようにして観察する。いつか、いやなるべく早くそこに加われるように。
「出来たわね、みんなご苦労様。じゃあ午後には届けてくるから、休憩したらいつもの作業に戻ってちょうだいね」
ヒルデさんは全ての仕事を統括している。そしてお客さんに対し、私たちの責任を負うのが仕事なのよ。エマの説明に足りてないわと、そう自ら付け加えて笑う。
私たちが休憩のお茶を入れ終わるころには、ヒルデさんは馬車に乗ってしまっていた。彼女の忙しさは尋常じゃないみたいだ。
私がマルガレーテに来て五日目の朝。
今日は刺繍のサンプルをたくさん作る予定だったので、早速作業場でエマから代表的な紋様を教わる。
店で使う道具は全て用意されているけれど、指ぬきや肘カバー、エプロンなどは好みによるので、各々が用意して使っていた。私も、せっかくなので市場で買った新しい指ぬきを使ってみた。
なかなか使い勝手がよく、思った場所に針を受けてくれて滑らず、良い買い物をしたと満足。
「ちょっと、可愛いのを持っているじゃないの。その指ぬき、田舎から持ってきたの?」
「いいえ、中央市場で買ったの。最初は『アレアナ』で仕事に就けるって思って、ご褒美に」
「ああ、アレアナ!」
「すぐ近くよね。同じダグラス通りで」
エマはバラの刺繍の手を止めることなく、私に向かって苦笑いをして見せる。
「行かなくてよかったわよ。あそこは薄利多売のお店でしょう、だからあまり経験のない娘さんを地方の村でさがしてきて、安い賃金で雇っているらしいわ。今リズに刺してもらっているヒイラギのリース、そんなのだって刺せる子はいないわ。それに『アレアナ』の服に、そもそも紡ぐことなんて期待されてないだろうし」
「……紡ぐ?」
「ああ、言ってなかったっけ、ゴメン!」
エマが舌をペロリと出して謝れば、向かいで違う作業をしていたクーンさんが驚いたように手を止めた。
「いやだね、エマ。まずそれが私らマルガレーテの基本だろうに」
「あは、ごめんねリズ。あなた自然にやっているみたいだから、つい知っているものと思って話すのを忘れていたわ」
自然にやっている? 何を?
ベテランのクーンさんが呆れつつも、ここはエマに任されたことだからと、改めて彼女に説明するようにと促す。
「魔法使いが体に蓄積した魔素を、呪文や紋章を使って集約して魔力に変換し、魔法を使っていることは知っているよね?」
「……うん、理屈だけなら少し」
「魔素の集約を俗に『紡ぐ』といい、それらを上手くいくよう助けるのが、私たちの造る護符の役目。護符はそのものに力があるわけじゃない。私は魔法をろくに使えないから教えられた言葉をそのまま使うと、つまり『ただ膨らんで漂う魔素を、綿花から糸を紡ぐように魔力へ導く』ことを示すらしいわ。もちろん紡ぐこと自体は、魔法使いが魔法を使うことそのものを指すのだけれど、それを助けるための護符を作る私たちのことも、魔法紡ぎと言われるようになっていったの」
魔力を紡ぐ……
そんな風に言われると、針子ですら魔法使いの一員みたいで、なんだかくすぐったい。
「特別な素材と厳密な精度が要求されるから、魔法紡ぎができる針子は珍重されるわ。特別な紡ぎのためには」
あれ?
ちょっと待って。それなら尚更おかしくないだろうか?
「私、ヒルデさんには刺繍の一つだって見せたことないわ」
やっぱりこの就職は縁故なのかなと内心焦っていると、エマが大きな眼をさらに見開いて笑い出した。
「ちょっと、笑うのはリズに失礼よ」
「だってクーンさん。リズってより、ラルフェルト様を思い出したら……」
なぜそこでラルフ?
契約を交わした日以来、会ってないラルフの名が出ることに驚いていると、エマはおしゃべり好きを発揮して、それは楽しそうに話し出す。
「ラルフェルト様が持っているメダリオン。あの中に大事に仕舞われている刺繍は、特級護符として有名なのよ。うちのような界隈ではね」
「あ、あのすっごく汚くて下手くそな、あれが有名ですって?!」
「そう。あのどんなに女性に囲まれてもつっけんどんで、不機嫌そうなラルフェルト様が、子供が縫った可愛いハンカチ……を大事に……だめ、想像しただけでもにやけちゃう」
「だから失礼よ、エマ」
エマが肩を震わせて笑う理由よりも、あのヴィオラの刺繍の存在が知られている事実に、私は顔から火が吹きそうになった。
あれは本当に初めて刺した、ろくでもない仕上がりのものだ。それをエマまでが知っているかと思うと、恥ずかしさでどうにかなってしまいそう。ヴィオラの形は歪んでいるし、糸の始末だって適当だ。それが護符として知られている?
顔を真っ赤に染める私に、向かいのクーンさんが優しく声をかけてくれる。
「どんな見た目でも、今までラルフェルト様を守ってきたのだから、何物にも勝る立派な護符だと思うよ。誰かのために心をこめて刺せる子なら、ここで働けないわけがない。リズはもっと誇っていいのよ」
その言葉は嬉しいけれど、なんだかくすぐったくて、小さな返事しかできなかった。
しばらく黙々と作業をしていると、そこにヒルデガルトさんが戻ってきた。
「せっかく作業をしているところ悪いけれど、ちょっと一緒に来てもらえるかしらリズ?」
少し作業部屋を出るくらいの感覚でいたら、どうも店の外、お客さんの家まで出かけると聞いて、慌てて道具を片付けることに。
私の役目はヒルデさんの鞄持ちらしく、用意されていた大きな鞄を二つ抱えて馬車に飛び乗った。
「ごめんなさいね、せっかく練習しているところだったのに……本当は慣れるまではお店の外に出すつもりはなかったのよ、でも先方の奥さまの希望で」
「人手が足りないとエマが言っていました。私がお手伝いできることでしたら、何でも言いつけてください」
「ありがとう、でも無理はしなくてもいいのよ?」
「大丈夫です」
ヒルデさんはそれから馬車の中で、私を質問攻めにする。
エマのおしゃべりに困ったりしてないかとか、ご飯は口に合うかとか、ちゃんと寝られているかとか。まるで母さんに心配されているかのよう。
「うちは細かい要求に応えることを常に求められる店なの。大変なときもあるから、店の中くらいは家族のように助け合っていきたいのよ」
「はい、すごく良くしてもらっています」
ヒルデさんは頷き、そして外の景色を見て「ふう」とため息をついた。
「もう着くわ。ここは店の常連さんで、ご夫妻は穏やかだし下のお嬢ちゃんはとっても可愛らしいのだけれど……今ちょっと上のお嬢さんが大変な状況なのよね」
「そうなんですか、ではそのお嬢さんの注文ですか?」
「ええ。多感な年ごろの娘さんで、とても苦しんでいるわ。それを少しでも軽くしてあげられたらと思うの」
ヒルデさんの言わんとするところが、この時はまださっぱり分からなかった。
けれどヒルデさんがきゅっと唇を結ぶ様子に、ごく真剣に言っていることだけは感じられて、自然と私も気を引き締める。
馬車が大きなお屋敷の見える門をくぐり、停車する。
そして先に降りたヒルデさんが私に告げた。
「ここが今日のお客様、ミルヴェーデン家。あなたをぜひにと指名してきた、エリザベート・ミルヴェーデン様のお屋敷よ」
エリザベート……って、もしかして中央広場で出会った、あの可愛いシャルのお母さん!
『マルガレーテ』のお客さんとは聞いていたが、まさかこんなに早く二人に会えると思っていなかった。
シャルはまたぴょんぴょん跳ねながら、再会を喜んでくれるかなあ。
私はそんな能天気な考えを巡らせながら、大きな仕事鞄を抱え、ヒルデさんの後についてお屋敷へと足を踏み入れたのだった。




