54 あの日の出来事
53話にて修正前のものを投稿していましたので訂正しています。転移の日が15年前→約17年前、ハーディについての会話部分です。気になる方は読み返しをおすすめいたします。
「リーゼロッテ、君は何歳になる?」
驚きが強くて、シュウさんから問われたことを咀嚼するのに少しばかり時間がかかった。
「……十六、もうすぐ十七になります」
「やはり、そうか」
シュウさんがこの世界にやってきた年に、私が生まれている。それは偶然ではないのだと、このやり取りだけでそう感じるのは必然だとしか思えない。
「あの日、俺がこの世界に転移してきた時……俺は病院にいたんだ。ずっと目の調子がおかしくて、精密検査のために外来とは違う部屋に案内されて」
「私もっ……私も幼い頃からずっと入院していて、病で亡くなりました」
慌ててそう告げた私に、シュウさんが目を細めた。そして小さく微笑みながら頷いた。
「足元がぐらついて、転びそうになった。だが身構えたはずが転ぶどころか、気づいたら俺はどこか見知らぬ空間に投げ出されていた。まるでそうだな……広大な宇宙に放り投げられたかと思った」
私は先日思い出した、リントヴルムの主と出会った時の情景を思い出す。真っ黒な魔素に満ちた空間は、確かに宇宙のように圧倒的で、底なしの世界に感じられた。そこでは自分が小さな存在だと、嫌が応にも自覚せざるを得ない。
「恐ろしくて叫びそうになった俺の横を、小さいけれどほんわりと温かい、流れ星が降ってきてね。それを見ていると、怖さが和らいで正気を保っていられた……きっとあれがリーゼロッテ、君の魂だったのかな」
一生懸命看病をしてくれた家族に申し訳なくて、隠れて泣くばかりだったかつての私が、誰かの力になれていたのなら嬉しい。
「リズは、病気だったの?」
それまで黙って聞いていたクリスチーナさんが、私を気遣うように問いかけてくる。
「不治の病でしたが、今は……生まれ変わったこの身体は丈夫で、両親にはとても感謝しています」
「そうなのね、驚かさないでくださる?」
そう言いながらも、クリスチーナさんが安心したような表情を浮かべた。彼女は素直で直情的ゆえに誤解されがちだが、根は本当に優しい人なのだと改めて感じる。
「リズは、リントヴルムの主に呼ばれてこの世界に来たのだと思っていた」
厳しい顔をしたままのラルフが、そう呟く。
それは私も思っていたこと。でもシュウさんの話が本当ならば……呼ばれたのは私ではなかった? それとも私にシュウさんが巻き込まれた?
そんな疑念を払拭したのは、私の背もたれに留まっていたヤタだった。
『呼んでない。墜ちゆく煌めきを拾い集めたのだ』
振り返ると、ヤタはその黒いつぶらな瞳をじっと私に向けた。吸い込まれそうな黒は、かつて魂だけで見た黒い深淵を思い出させられる。
「私が力尽きて亡くなって、魂だけになって彷徨うなら分かるわ。シュウさんが世界から墜ちるのはどうして?」
『死ぬのは身体だけの現象ではない』
その言葉にハッとしてシュウさんを振り返る。
彼はどこか諦観したかのような顔をして笑った。
「確かに、あの時の俺は絶望していた……人生を諦め、どう閉じるかを模索していたくらいだった」
「……シュウさん?」
彼は膝に置いていた手を開き、掌を見つめた。
魔道具屋職人でもある彼の指の爪は短く切り揃えられていて、細かい作業のせいか黒く染まっている。彼が店に掲げる黒い旗……その独自の色を取り扱うせいだろうか。彼にしか染められないあの漆黒色の糸は、マルガレーテでも貴重だ。
「俺は当時、画家を生業にしていた。大学を卒業してすぐに賞をもらえたこともあって、仕事の滑り出しは順調だった。だがそれは単に運が良かったというか、将来性を買ってもらっていたことに気づかず……その後は厳しいものだった。けれども諦めず、小さい仕事をこなしながらも目標にしていた大きな賞を獲ることができて、ようやく日の目を見れた矢先だった。目を悪くして……細部が霞むようになって絵が描けなくなった。多くの病院で診てもらったが、どこでも原因が不明。薬を変えたり、眼鏡を作って矯正したり。だが何をしても良くなるどころか、悪化の一途だった。あの日ももう、ほとんど物の形を識別することができなくなって……俺は絶望していた。死を考えるほどに」
物を作る人間から視力が奪われる。それがどれほどの苦痛であり、絶望だったかなんて、私には容易に分かる。
でも、それなら今のシュウさんは?
「形が判別できないが、色はしっかりと見えていたんだ。だがその色が視界全体に流れる光りの帯のように暴れて見えて……まるで極彩色の糸の海に投げ出されたかのようだった」
「色の、糸?」
その言葉で思い出すのは、ラルフと視界を共有した時のことだった。
魔法を扱えない私にとって、初めて見る魔素は、まるで色とりどりの糸のように美しかった。
「俺が見ていたのは、魔素だったらしい。目が見えなくなったのではなく、魔素を捉えてそのせいで物の形が判別できなくなっていたことを、この世界に来て知った」
シュウさんは、当時のことを詳細に語ってくれた。
死んで魂だけになった私とともに、墜ちた先はリントヴルムの主の元だった。目が見えなかったはずのシュウさんの視界は、そこで開けた。リントヴルムの主の魔素は、黒一色。その中で魔素をまとわない私は、それこそ彼が言う通りに星が輝いているかのように見えていたのだそう。
「その小さな星がとても儚く感じて、俺は無意識に手を伸ばして両手に抱えていた。黒い深淵にこれ以上落ちてしまわないように……」
ふいに、温かい何かに包まれたような、そんな記憶が甦る。
リントヴルムの主様と話したあの時の温もりは、もしかして……。
「私、自分一人がこの世界に来ていたんだと……」
「気づかなくても仕方ない、君は人生を閉じるという辛い経験をしてあの場にいたのだから。それに俺とて、はっきりときみの姿形まで判別できていなかった。自分と同じように、身体を持って墜ちてきたのだと思っていたくらいだからな」
病に負けたことで、家族に申し訳なくて、哀しくて、辛いだけだったあの瞬間にも、私は誰かに助けられていたのだと知り、胸に熱いものが込み上げる。
泣きそうになる私を、隣に座るラルフが支えてくれた。
「そこで深淵を覗くような黒い塊に問われた……相応しい器を自分に示せと」
「器? それは主の羽化を果たした姿のことか?」
ラルフの問いに、シュウさんは苦悩の表情を浮かべた。
「今ならそういう意味だったのだと分かる……だがあの時の俺には、何を言いたいのかさっぱり分からなかった」
「そんなのあなたでなくとも当然だわ」
クリスチーナさんが呆れたように言い放つ。
「……雄々しく、世界を巡るための姿を得たい。言葉ではない意思のようなものに、そう言われた気がする。」
鞄に収めてある緑背のノートの絵を思い出す。かつての世界は、今生きるこの世よりも膨大な伝承や創作物、空想の世界が広がっていた。それが病室から出ることが叶わなかった私に、どれだけの救いをもたらしただろうか。
アバタールたちは、自我の目覚めとともに周囲に存在する生き物の形を借りる。
リントヴルムの主にとって、彼の力を収めるに足る生き物が、この世に存在するだろうか……。
私……私とシュウさんの記憶が、それに代わるはずだったんだ。
「俺は、あの黒い主に素直に応えられるほど、柔軟ではなかったんだと思う。そんな空想にふける年をとうに過ぎていたしな。だから何も思い浮かべることができなかった」
そこでリントヴルムの主様は、シュウさんから私へと手を伸ばしたのだという。
手、という表現が正しいかは分からないけれど、シュウさんから見ても明らかに、感心が私へと向いたのが分かったのだという。
「咄嗟に、黒い何かから君を遠ざけた。恐らくそれが、逆鱗に触れたのだろう。俺はその場からはるか遠い地へと、一瞬で飛ばされていた」
飛ばされた……?
ヤタを振り返ると、彼は首を傾げてしばらく考えるような仕草をする。
『我は詳細を知らない。だが主様は怒っていない。ただ、あるべき場所に移しただけ。リズは生きるための胎へ、その男は助け手の元へ』
それを聞いてハッとした顔をしたのは、シュウさんだった。
「気を失って倒れていた俺を助けて介抱してくれたのは、ディートリント・レフラー。それからレギオン・アイゼンシュタットの二人だった」
「ディートリントさんって、ヒルデさんの亡くなられた……?」
「ああ、そうだ。彼らと出会ったのはスヴェルクという町の外れにある、アングラット・フォルトと呼ばれる騎士団の砦だった」
「スヴェルクって、リントヴルムから一番近い町です」
「ああ……彼らはリントヴルム山の調査に訪れていたと聞いている」
近いといっても、リントヴルム山の中腹にあった村から距離はかなりある。そんな場所まで飛ばされて無事に済んだのだろうか。
そんな疑問にも、シュウさんは詳細を話してくれた。
意識のないシュウさんを発見した当時の騎士団長だったディートさんが、治療を施してくれたのだそう。衰弱していたけれど外傷はほとんどなかったシュウさんだったけれど、当然ながら言葉は通じない。しかも視力に問題を抱えたままだったせいで、異世界に転移したことを理解するまでに、相当時間を要したという。
それはどれほど辛いことだろうか。想像するだけで、途方に暮れる状況。
しかし回復してからも右も左も分からないシュウさんを、本当の意味で助けたのはレギオン先生だったという。
「彼からは、魔素のコントロールを習った。俺の視界を妨げていたものの原因を突き止め、体内の魔素を正しく紡ぐ方法を教えてくれた。そのおかげで、失っていた視力を取り戻すことができたんだ。彼には感謝してもしきれない……」
その話を聞いて、ラルフは複雑な表情を浮かべていた。
レギオン先生が、多くの魔法使いを教えていたのは今も昔も代わらない。魔法使いとして優秀な子供たちの面倒を見ていたからこそ、シュウさんの困り事を解決することができたのだろう。
「俺はしばらく魔法騎士団で世話になり、魔法の使い方を習った。そうだな……こちらに来て三年目には、騎士団を離れて王都グラナートの魔道具屋での仕事にありつくことができた」
「それじゃあそこで修行をして、今は独立を?」
「ああ、当時はまだ魔素の大きな変化の兆候は限定的で、町の様子は平穏そのものだった。だがディートたちが言うには、変化は確実に起きているとは聞かされていた。俺の証言で危機感を抱いていたからというのもあるが、彼らほどの魔法使いたちは魔素の敏感に感じ取っていたようだ。とはいえ騎士団のごく一部の優秀な魔法使いと……ディートが相棒にしていたような一部の特殊なアバタールくらいだったが」
「相棒のアバタール……」
シュウさんは遠くを見るような目をして、黙りこくる。
それはラルフから聞いた、ディートさんが投獄される原因になった、暴走したアバタールのこと……だよね。
そういえば、どういった性質のアバタールだったのだろうか。相棒と言うからには、ミロスラフさんたちのように高い知能を得た存在なのは間違いない。
そんな疑問を察してか、シュウさんは重くなっていた口を開く。
「とても美しい、青色の翼をもった鳥のアバタールだった」
シュウさんが、私ではなくラルフを見てそう告げた。
青は、一般的には水の属性を表す。なのに私の胸には、酷く嫌な予感がよぎる。
「リズ……火は、その燃え方によって色を変えるのを知っているかい?」
私はおずおずと頷く。
炭がゆっくりと燃える赤と、マッチを擦った時の黄色い炎、それからガスバーナーのようなものの炎は色が違う。何が燃えるかというのもあるけれど、色の変化は温度が違うからだと習った気がする。
じゃあ、青は……。
「揺らめく青の翼は、鉄が溶けるほどの温度を有していた」
リントヴルムに魔素が溜まり続け、ついに溢れ出したのは、ちょうど私とラルフが村で出会った頃。
最初の暴走アバタールがグラナートの一角を炎で呑み込んだのだった。




