14 リカー
疲れきって『マルガレーテ』に戻ってきた私とヒルデさんを迎えてくれたのは、ベリエスさんだった。
ヒルデさんは休む間もなく、次の打ち合わせが入っているからと、自分の作業部屋へ。これからエマとアンネに手伝わせて資料を集めというのだから、本当にタフな人だと感心する。
私はというと、広い作業部屋でベリエスさんに椅子を引いてもらい、どっさりもたれ掛かったところ。他にはクーンさんがずいぶん離れたところで集中して縫い仕事に没頭しているし、ミロスラフさんは接客だそう。
一息ついた私の前に、ベリエスさんがお茶を出してくれた。
温かい湯気が出るカップに口をつけるものの、喉を通るのはざらざらとした砂のような空しさ。辛い選択をしたイリーナさんのことが頭を離れず、私は高ぶった気持ちの落ちどころを、失ってしまっていたのだ。
「そんなに責任を感じなくてもいいんだよ、リズ」
「でも……私はなにもしてあげられないのかな」
「そんなことはない、リズの刺繍が役に立ったんだろう?」
「私のだけじゃないわ、持っていったのは皆さんの物の方が多いわ。しかもそれはイリーナさんにではなくて、お友だちのレナーテさんのためよ……もちろん辛いのはイリーナさんも一緒なはずでしょう、だから……」
「……そう」
ベリエスさんは、私の向かいに座る。
ゆったりとした動作でポットからお茶をつぎ、自分の前に寄せてからひとつ息をついた。その表情はとても優しく、柔らかかった。
「ひとつ、伝説を聞かせてあげようか」
「……伝説?」
「そう、このグラナートに伝わる昔話さ。聞いたことあるかい?」
「いいえ、知らないわ」
もう知らない人も増えたからねえ。そんな風に笑いながら、ベリエスさんは話して聞かせてくれた。
この街の由来を。
ベリエスさんが言うには、それはもう国が興るよりも前っていうくらいだから、それこそ千年も前なんじゃないかということだった。
このグラナート一帯には、魔法化身くらいしか住んでなかったらしい。それくらい世界には魔力が溢れていて、人間には住みにくい土地だったのだ。
そこに、一頭の強いアバタールが生まれた。
長くて細い脚に、小さな蹄。逞しい胴にはびっしりとビロードのような毛、細長い顔に角なしの頭、それからつぶらで濡れた青い瞳は、美しくてまるで宝石のようだった。
それが、リカー。牝鹿のアバタール。
彼女はとても変わっていた。
体はとても小さくて、とても好奇心旺盛で、警戒心がなくて。でもその小さな体には、たくさんの魔力を溜め込んでいた。それは到底信じられないくらいの量だったらしい。
長い時を生きるアバタールだから、当然リカーも長い年月を生きた。
およそ五百年前のある日、リカーはぐうぜんに怪我をする。それはとても不自然なことではなくて、ちょっと好奇心が過ぎて、つい得意の崖を走っているところで脚を滑らせ、擦り傷を作ったのだ。
そうしたらリカーの流した血が、赤くて熱い塊となって、大地に落ちた。そこにはリカーの持っていた魔力がたくさん含まれていて、次第に硬く冷たい輝きの石になり、それは大地の奥深くに沈んでいった。
リカーはそれで全てを理解した。
己の役目を。
それからのリカーはこのグラナート周辺を走り回った。まるで何かに取りつかれたかのようで、そう、今でいう魔力酔いのようなものだったのかと、ベリエスさんは言った。
そうしてリカーが最後にたどり着いたのは、このグラナートの街のあたり。そこでなんと、リカーは信じられないことをやってのけたのだった。
魔法で自分自身を切り裂いた。
飛び散る真っ赤な血。
それらがグラナートを囲む山々にまで届き、血は石となって大地に沈む。そうして、このグラナートに溢れていた魔力が鎮まり、いつしか人が住むようになった。リカーの血しぶきの名残なのか、魔力を持つ石の鉱脈も見つかり、繁栄していったのだという。
「血のように赤い宝石を知っているだろう? そこからこの街の名はつけられたんだよ」
とても高価なものなので、大きなものなどは直接見たことはないけれど、よく知っていた。その石はマグマのような熱を与えてくれる魔石としても、広く流通しているから。
「いいかい、リズ。魔力というのは、色、形がその力の性質を表しているんだよ。僕ら水の魔力を扱うものは、君も知ってのとおり、ああいう姿形をしている。それは人間……イリーナも同じかもしれないね」
「……もしかして、ラルフも?」
「もちろん」
私はラルフが金色の炎に包まれた姿を、思い出す。昔とは違うけれど、きっとあのハニーブロンドが、本当のラルフの色なのだと、どこか納得をしている自分がいた。じゃあ、イリーナさんは……。
「……赤い、髪」
「そう、そしてあの娘の細くて長い手足は、鹿のようにしなやかで美しいだろう。まるでリカーが現れたようだ。彼女はグラナートの申し子なのかもしれないね」
「でも、なんだか不吉ですよ、伝説ではリカーは死ぬんだもの」
するとベリエスさんは細い目をきょろきょろとさせた後、柔らかく笑った。
「それは違うよ、リズ」
「……死んでないの? 切り刻んでバラバラになったんでしょう?」
「リズ、僕たちは何でできている?」
「……え、あ、魔素?」
「そうだよ、どんなに人間に似せようと、僕たちは魔素が集まって練り上げられた、魔力の塊。いつかはまたリカーのようにバラバラになって、世界を巡る。リントヴルムほどに派手ではないけれど……人間の死とは意味が違う」
私はベリエスさんが何の気なしに出した名に、ビックリして彼を見つめていた。
ベリエスさんは何もかも分かっているよとばかりに、微笑み返して言う。
「きみの村で起きたことは、ある意味リカーとは反対の現象なのだろうね。地下に溜め込んだ魔素を、今度は大地が吐き出したんだ。それがこの国のあらゆるところに届き、新しいアバタールを産み、人を惑わせている。だけど誤解しちゃいけない。リントヴルムだけでなく、同様のことは今までもこれらも、どこでも起こっていることなんだ。この世界はそうして成り立っているのだから」
「……そう、なの?」
「ああ、だからきみも、リントヴルム村の亡くなった大勢の村人たちもみんな、なにも悪くないんだよ」
ああ……。
私はこのとき、初めて心の底から力が抜けたのだと思う。
ずっと、分からないことだらけだった。
私が転げるようにして山から降りて逃げた先で、父さんは村人たちを避難させようとしていたけれど、間に合わなかった。気づいたらたくさんの村人たちが、苦しみながら倒れていって、それは父さんだけでなく、村で逃げ遅れた母さんも同じで……。
動ける僅かな人たちで、息のある者だけをなんとか運んで連れ出したのは、何時間もたってからだった。父さんは辛うじて生きていてくれたけれど、母さんは最初にもう……。
それから数日のうちに、父さんも含めて大勢が死に、村は村ではなくなってしまった。
久しぶりに、リントヴルムと両親を想って涙が滲んだ。
今朝といい、今といい、どうして今日は哀しいことをこんなに思い出す日なのだろうか。
「いや、その……魔力酔いをおこして暴れた僕が言うのもなんだけどね」
頭をぽりぽりと掻きながらそう言うベリエスさん。しんみりとしてしまった私に、笑顔を取り戻そうとしてくれたみたい。
そうよリズ、過ぎたことはもう仕方ない。今は気持ちを切り替え、不安に思っていたことを、ベリエスさんに尋ねる。
「大地を裂いて吹き出た魔素にあてられて、リントヴルム村のみんなが命を失ったのなら……自ら限界を超えた魔力を使おうとするレナーテも、同じようになるのね?」
「放っておけばそうなるだろうね」
だからイリーナさんは決めたのか。レナーテが望む高い魔力よりも、彼女の命を守ることを。
ならば、私もお手伝いがしたい。
リントヴルムの村人が悪いわけではないけれど、でも今、そのリントヴルムから届く膨大な魔素に苦しむ人がいるのならば。
「ごちそうさま、ベリエスさん。ありがとうございます、色々と教えてくれて!」
「……どういたしまして」
私は飲み終わったカップを片付けると、大急ぎで放置したままだった裁縫道具を取りに戻った。
イリーナさんのための刺繍のアイデアを思い付いたのだ。できれば、レナーテのために魔法を使うときに、間に合わせたい。
お店のなかに置き忘れた鞄を取りに降りると、ふといつもラルフが座る椅子が目にはいった。
誰もいないそこから、通りの見える窓を眺める。
絶えない人の往来のなかに、ついつい探してしまうハニーブロンドの影。毎日来るって言っていたけれど、今ごろはまだ忙しいに違いない。
「……べつに、待ってなんかいないけど」
そう言い訳をする自分に、なんだか恥ずかしさを覚え、ついでにとばかりに資料本を拝借することにした。
いくつかある一冊のなかに、目的のものを見つけたのだ。
それからは大忙しだった。
ヒルデさんに相談したら二つ返事で了承をもらい、さっそく製作に入る。かねてより注文を受けていた衣装に使えるよう、生地を選び、針で刺繍を施す。女性らしさをあまり好まない彼女のために、派手にならないよう、少し隠れた位置と色合いで、ニードルレースを施すことになった。
モチーフは、躍動感溢れるリカー。
牝鹿の申し子のようなイリーナさんに、かつてのリカーのような気高さと強さを与えてくれるように。そしてイリーナさんの優しいからこそ傷ついてしまった心を、リカーの赤い宝石にたとえて。一針一針、心をこめて刺していった。
気づいたら、クーンさんが部屋の遠くにあるランプの火を吹き消しているところだった。
火が残ったのは、私の周りのいくつかだけ。それをもっとよく照らすようにと、私のそばまで持ってきてくれた。
しばらくぶりに針を置き、疲れた目をこすっていると、そばにやってきたのはクーンさんだった。
「おや、ようやく一息ついたのねリズ? 何度か声をかけたんだけど、ずっと集中していて、まったく聞こえないみたいだったのに」
「……すみません、熱中すると何も聞こえなくなっちゃって」
「ははは、そうみたいだねえ。私はそろそろ家に帰るけど、エマが心配していたよ。夕飯ももう出来る頃だから、休憩しといで」
クーンさんは近くに家を借りて、旦那さんと二人暮らし。私やエマ、アバタールの二人とは違い、通いで働いていた。それでももう暗い、いつもはもっと早く帰るので、きっと夢中になった私のせいだろう。
そう言って謝れば、首を横に振って笑われた。
「この店の人間にはたまにあることだから、気にしなくてもいいわよ。ほら、早く行っといで」
「はい」
「ああ、そうだ。イリーナさんの件、明後日になったようだよ。ちょっと思っていたより早かったけれど、あと一日ある。みんなで手伝うから、きっと間に合うよ」
クーンさんはそう言うと、上着を持って帰っていった。
明後日……。
手元にある、刺しかけのリカーを見下ろし、私は気を引き締める。あと少し。もう少しだけ形を縫うことができれば、あとの糸を引き抜く作業は手伝ってもらえる。それまでは、頑張らねば。
私の長い夜は、まだ始まったばかりだった。




