表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

極私的仏教考察 その16  (法華経の大奇跡)

作者: 舜風人

お知らせ


大幅に増補した改訂版がありますのでそちらをお読みくださいませ。↓





法華経の超大奇跡。信じる者は救われる? 極私的法華経論考 法華経を読み解く



↑上記をペーストアンドドロップしてください。












法華経、正しくは妙法蓮華経という。


梵語から直訳すれば「妙なる教えの白蓮」となる。

泥から咲いても決して汚れることなく真っ白い花を咲かせる白蓮のような教え、、、という意味である。


インドで紀元1~2世紀ころ成立したといわれている大乗経典である。


そもそも大乗仏教というのは、原始仏教の、現世主義、常識理論から脱却してより、霊感的な

つまりはカルト的・超能力志向の?仏教の新興勢力である。


戒律や、語学分析論を重んじた一派は上座部を結成して、いわゆる小乗仏教といわれるものになった。

これはまた、南伝仏教とも言われて東南アジア方面に伝わったのはこの系統の仏教である。


さて大乗仏教は、チベットや西域、中国、蒙古に伝わっていった。


当然日本にもこの系統が伝わることになる。


釈迦を久遠佛として永遠化した、つまりもう現実に居た修行者シャカではなくて

永遠の昔から存在した久遠仏として絶対化したのである。


当然この法華経に登場する釈迦も絶対者としての霊感者としての仏陀の得た、霊的なお話が法華経である。


したがって明治以降の原始仏教の研究がすすむと、法華経の空想性や、霊感主義があまりにカルトであるために、これは正しい仏教ではないとする学者も出てきたのである、


確かに原始経典、たとえば「スッタニパータ」などの教えからはかけ離れた空想的な悟りと超能力のお話ばかりである。


スッタニパータでは、「誘惑に負けないで犀の牙のように一人で歩め」「老人が若い妻を娶るのは修行のさまたげになる」とか、そんな実用的な?教えというか処世術ばかりである。


法華経のように、この経を信じ、授持するなら奇跡が起こるというようなことは一切書かれては居ないのである。


法華経神秘主義ともうべき教えがこの経の本体であろう。


不思議なこと神秘なことのオンパレードである、


ただし、法華経とは、この経を信じなさいとは書かれているがでは法華経ってどんなカテキズモなの?といわれてもそこんところは実は何一つ書かれていない。


実は、法華経とは法華経はすばらしいですよということしか書かれていないお経なのである。


どこがすばらしいのか。どういう教えなのか。はついに一切明かされないで終わってしまうという摩訶不思議な経典なのである。



法華経、梵語を直訳すれば、「妙なる蓮の花の教え」となる。


法華経とは法華経というすばらしいお経がありますよということで全編終始しているお経である。


しかしその狂熱的な信仰心と、霊性で古来より多くの人をひきつけてきた。


聖徳太子、空海、最長、日蓮、道元、


近代では、宮沢賢治、石原莞爾、牧口恒三郎、など、


仲でも宮沢賢治はその遺書で

「私の使命はこのお経を広めることでした』と告白するほどの熱心さだった。


その童話は法華主義の広報宣布であったといえるのである。


このように、多くの人を魅了する秘密は何だろう?


ほかの経典にはない特徴である。

こんな仏典は他にはない。


一言で言えば壮大な久遠佛たる、世尊が描き出す宇宙にその魅力がある。

そしてそのカルトな霊的超能力の宣布である。

各人が久遠佛であり、人は誰でも超能力者である。


それに気が付けばすぐにでも人は無限の宝蔵からその能力をくみ出して使えるのだという教えはかなり魅力的だろう。


「あなたはまだ気が付かないかもしれないが実はあなたの中には無限の宝が内臓されているんだよ」


、と。教えるお経はほかにはないからである。


そして信心の功徳として、心のそこから信じるなら何でもできると、とくお経も他にはない。


観音様を信じるなら刀で切られても一切傷つかない、海に落ちてもおぼれない、火に焼かれてもまったく平気である


そう説くお経もまた、他にはありえないからである。


こうした超能力、信仰心の功徳。個人の久遠佛化、壮大な宇宙観、

などなどが多くの悩める人々をひきつけたのであろう。

法華経の最奥真理はただ一つ。



「この経を信じる者は救われる」ということである。

1点の疑いも持たずとにかく信じなさい。

そうすればとんでもない奇跡的な救いが訪れるというものである。


まさにカルトそのものである。


で、その経の内容とは、どんな教えなのかというと、

法華経には何も書いてないのである。

とにかく信じなさい。

この経を受持しなさい。

それだけである。


それが延々と続くだけである。


法華経の中に観世音菩薩普門品という章節がある。

これは独立して、観音経とも言われる。

観音様信仰の根本経典である。


この観音経に

観音様を信じれば、

刀に切られても一切傷つかない。

海に落ちても決しておぼれない、

観音様はどんな困難苦境も必ず救ってくれるとある。


ただし、もしほんの少しでも疑念を抱いたら、

それは達せられないという。


とにかく信じなさい、

そうすれば救いは無限であるというのが法華経の教えである。


観音霊場はこの観音様の絶大な救世救人の力に対する信仰から広まったのである。


法華経には、かく救われるというたとえ話が非常に多い。


こうした法華経の要点は

1、人間全て仏性を持っている、

2、宇宙には広大無辺のエネルギーが満ちている。

3、霊魂は永遠である。

4、菩薩行こそ人間の使命である。


例えば、長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品) のたとえがある。


幼少の時にかどわかされて家を出たまま、困窮して諸国を放浪していた長者の息子が、ある日運命に導かれて、父である長者の城に至り、その城で長者の子供であることを知らずに掃除夫として働くことになります。長者は勿論初めて見た瞬間に自分の息子と分かったのですがだまってその成り行きを見守ったのです。

息子は二十年間、真面目に仕事をして信用を得、長者の財産の管理を任せられるまでになります。そのうち臨終の近づいた長者は親族・国王・大臣などの前で、この息子が自らの子供であることを明かし、一切の財産を譲ることを宣言します。


これは人間誰でも凄い能力を持っているのだが、いかんせん、、それに気がつかずに一生終わってしまうことが多いというたとえばなしである。貴子流離譚のお話でもある。生まれ尊い子どもが故あって諸国を放浪し苦難の道をたどりやがてその身分がわかって幸せになるという、民話のパターンである。

そうだ、貴方も長者の息子なのだよ。それに気がつかないだけなんだよ。

早く気がついて長者の道を歩みなさい。そう法華経は教えているのである。



法華経には、また、衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品) のたとえ話がある。


ある貧しい青年が富豪の仲間の下に遊びに行った。仲間はその貧しい青年を歓待し酔いつぶれるまで飲み明かした。しかし富豪はその夜に商用で遠くに旅だたなければならなかった。


で、その酔いつぶれた青年を哀れと思い誰にも知らせずにそっと青年の衣服の裏に宝珠をいくつか縫い付けておいて旅立ったのである。

さてあくる朝目覚めて青年は富豪が旅立ってしまったことを聞かされてすごすごとそのお屋敷を後にしてまた、放浪のたびを続けるしかなかったのだった。


衣の裏に、とても高価な宝珠をそっと縫い付けておいたことなど露知らずに、諸国をさ迷って、今,こじき同然になって再び富豪の住む御屋敷の前を通りかかったのである。

それを見つけた富豪は、驚いて呼び止め、「一体君は何をしてるんだ。僕が君のために服の裏地に縫い付けた宝珠に気がつかなかったのかね?あれを売れば一生でも十分なお金になろうというのに」と、告げたのである。


このように人はどんな人でも衣の裏にとんでもない宝珠が隠されているのだが、ただ、それに気がつかないのである。気がつかずに貧しく一生を終わってしまうのである。


気がつけば今生の貧弱から、すぐにも開放されるのに。

悲しいかな、誰も自分の衣の裏にそんな宝があるなんて思いもしない。そうして一生を

貧窮と後悔で送って終わってしまうのだ。

光明の知恵あるブッダは、

「早く気がつきなさい、そうしてそれを見つけて一刻も早く豊穣を手に入れなさい」

とおしえているのだ。昔、昔、インドのあるところに、それはそれはたいそうな大金持ちのマハラジャがいたそうです。


そのマハラジャには一人息子がいたそうです。


ところが、この息子が幼いとき、旅芸人の一座に、かどわかされて、

連れ出され、悪党どもは身代金を取ろうという算段。


しかし旅芸人の、一座はその取り分で仲たがい、そのドサクサでこの子は

またしても、一座の男に連れ出されて、挙句の果ては、その連れ出した男も所期の目的を果たさず野垂れ死に、


結局は誰知ることもない貧民街におっぽり出されて、物乞いとなってしまいました、


もちろん幼い少年には、自分がどこの子供であるかが良くわかりませんから帰るすべもありません。


物乞い仲間もまさかこの少年が大富豪の一人息子と知る由もありませんでした。


そうして物乞い仲間とあてどなき放浪するうち、瞬く間に月日は過ぎていったのでした。


もちろんその間マハラジャは八方手を尽くして探し回りましたがようとして行方がつかめないのでした。



そんなある年のこと、何年かが過ぎて、息子は放浪の果て、神のご加護でしょうか?

自然に故郷のマハラジャの住む土地に流れ着いたのでした。


そしてある日少年は、父親の住むお屋敷の前に立って物乞いをはじめたのです。


中を物珍しそうに眺め、門番に物乞いをしていたのです。


そして偶然、マハラジャが城の塔からその様子を眺めていたのです。



遠眼鏡で街の様子を見ていたのです。

そして門のところに望遠鏡を向けると、

少年の物乞いが居ます。


しかしはっと、何かを感じるものがあったのです。


息子の面影にあまりにも似ていたのです。


早速マハラジャは門番に命じてその少年を邸内に入れて、

話を聞こうとしたのでした。


しかし少年はこんな大豪邸の主人が自分に何のようだろうかと思い、

何か恐ろしい目にあうのではないかと恐れて震えて逃げ出そうとするばかりでした。


仕方なく何がしかの路銀と食べ物を渡してどこにいるかと居場所だけ聞いて


返したのでした。


しかしマハラジャはもうわかっていました。

あのあごの特徴そして背中の大きなほくろ、指の大きな怪我のあと


間違いありません。

あんなに探し回った

わが息子です。


しかし信仰深いマハラジャは決してあせりませんでした。


いきなりわが息子よと言ってもこの少年は、驚き疑い逃げ出すだけだろうと。


マハラジャは門番に言いつけて少年の居場所に赴かせ、

「どうだい?あのお屋敷で便所掃除人が必要なんだけどお前してみないかい?給金はもらえるよ」

といわせたのです。


少年はもちろん喜んで飛びついてきました、


そうして掃除人から初めて次第に目をかけてやり、

邸内のいろいろなことを少しづつ教えていったのでした。


数年が瞬く間にたちました。

そのころこの少年はいや、青年はお屋敷の会計係までして財政までまかされていたのでした。


マハラジャはふと重い病気にかかりました。

余命の少なきを知ったマハラジャはもう良いだろうと、

ある日屋敷のすべ手の人々を大広間に集めました、


そうして青年を呼び寄せました。


「皆さん。実は長いこと隠していたのですがこの青年は幼いときかどわかされた

私の息子だったのです。これこれのわけで今まで伏せていましたが

わたしも老い先短い今、真実を発表します。

この子がわたしの全財産を引き継ぐのです」


そういうと老マハラジャは満足げに息を引き取りました。





皆さんこの法華経の寓話からなにを悟りますか?


わたしはこう解します。


1、わたしたちはこの汚辱の世で道に迷い惨めな暮らしに甘んじている。

2、しかし、実はあなたは神の子なのだ。

3、自分の本当の姿も知らずあてどなく迷う人生。

4、しかしもし仏の真理を知るならあなたは無限の宝庫を開くことも出来る。

5、早く知りなさい、仏の見えざる真理を、そして宝の蔵を開けなさい。



観音様をご存知だろうか?

霊場めぐりの33箇所の観音寺などで知っている人もいるだろう。


観音様とはいったいなんだろう?


これは法華経の中の1章節に観音菩薩普門品というのがありそこにいろいろと観音様の功徳が説かれているのである。


そこに語られているのはまさに不可思議極まりない、信じがたい?ことである。


観音様を信じれば刀で切りつけられても一切傷つかないし、

海におぼれても大丈夫だし、毒を飲まされてもまったく大丈夫だしと、

そのほかさまざまな危害が加えられてもまったく大丈夫だととかれている。


さて、これは本当だろうか?

というか、疑ったらこの観音力は現れないという。


心の底から信じれば観音様はあらゆる手段で我々を助けてくれるというのだ。


まさに観音妙知力である。


これを現代人はおそらく一笑に付すだろう。


だが、世の中に不思議なことはあるもので、がんが一瞬で消えたとか、

まさに、神の助けで間一髪難を逃れたとかそういう事実があるものなのである。


世に霊能者といわれる人も、難病を治したり、運命を好転させたりしている事実もある。


信じることは、偉大なパワーを秘めているのである。

信じる力は絶大である。

そしてこの架空世界人間界では、その人が信じるように人生は展開していくという黄金律も存在するのである。人生はあなたが思い描いたようになっていくのである。よくも悪くも、、、。


昔、イエスキリストは


盲人と道で会った。

盲人はイエスの評判を聞きつけてこういった。

「私の目が見えるようにしてください」

イエスは言う。

「本当に見えるようになりたいのか?」

「そうです、見えるようになりたいのです」

イエスは言う

「ではこの人の願うようになれ」

すると盲人は目が開き物が見えるようになったのである。



ここでイエスは私の霊能力で見えるようにしたとは言っていない。

「あなたの願うようになれ」としか言っていないのである。


人はもし心の底から信じたなら、

とてつもないスーパーパワーを発揮できるのである。


イエスはそれを確かめて、この盲人に暗示しただけなのだ。


あなたの信仰心がこの奇跡をもたらしたのです。

私はそれを手助けしたに過ぎません。

イエスはそういっているのである。


観音様もまさにそれである。

観音経という経典は、まさに、

人間の信じる力の偉大さを、

マインドパワーの偉大さをあらわした、

いわば最古の?自己啓発の書であると言っても良いであろう。


信じるものは救われるのである。

ゆめゆめ疑ってはならない。


人生で大事なことは


信じること、

愛すること、

希望をけっして失わないこと


この3つである。



以下、観音経の原文です。




妙法蓮華經観世音菩薩普門品第二十五偈




爾時。無盡意菩薩以偈問曰。世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音 具足妙相尊 

偈答無盡意 汝聴観音行 善應諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清浄願 

我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 

火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須彌峰 為人所推堕

 念彼観音力 如日虚空住 或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞

 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼観音力 刀尋段段壊 

或囚禁枷鎖 手足被[紐]械 念彼観音力 釋然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力

 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖 

念彼観音力 疾走無邊方 [虫元]蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 

降雹[樹]大雨 念彼観音力 應時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦

 具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 

以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 

能伏災風火 普明照世間 悲體戒雷震 慈意妙大雲 [樹]甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟經官處 

怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念

 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量?

 是故應頂禮 爾時持地菩薩。即従座起。前白佛言。世尊。若有衆生。聞是観世音菩薩品。

自在之業。普門示現。神通力者。当智是人。功徳不少。仏説是普門品時。衆中八万四千衆生。

皆發無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。 


さて日本では、

日蓮神秘主義とも言うべき思想家が明治以降輩出してきた。


田中智学  国柱会総裁

木村鷹太郎 日蓮を日の神とした、超古代史家

北一輝  「国体論及び純正社会主義」で有名な国家社会主義者、

鷲谷日賢 霊界の統一による世界平和を説いた日蓮僧

井上日召  右翼日蓮主義者、

宮澤賢治 法華文学による世界救済を説いた文学者。

江川忠治 死なう団の首魁。


そしてここに取り揚げるのは、

石原莞爾である。


彼、石原莞爾は欧州戦史を丹念に研究した。

そして勿論熱心な日蓮信者だった。


彼のテーゼは、世界最終戦争論である。

これは近い将来、世界が2大陣営に分かれて最終戦争を行い、それに勝った陣営が、世界を支配するだろうという思想である。


そしてわが日本がもしその最終戦争に勝利すれば、その後世界から戦争はなくなり、

法華経の理想社会「一天四海皆帰妙法」が実現すると説いたのである。


この最終戦争は天皇を信仰するアジア、王道日本と、天皇を信仰しない覇道アメリカとの間で起こると石原は考えた。


もしアメリカが勝てば最終平和は実現しない、しかし、日本が勝てば、八紘一宇の理想世界が実現するとしてそのために「昭和維新」を唱えたのである。


また日、韓、満、中、蒙の5族協和による欧州対抗を説き、「東亜連盟」の重要性を、説いた。

これは満州国の実現で現実味を帯びてきたが、


更に産業革命によって欧州に負けない基礎作りも説いていたのである。


これらの彼の説はほとんどが法華経の予言による、仏説に対するほとんど妄信的な信念でもあった。


「日蓮宗本門の戒壇を日本国に設けて、日本国の国体による世界の統一」というのが彼の最終的な結論でもあった。


彼の夢見た最終戦争後の世界帝国とは、legend of empireでしかなかったのかもしれない。


彼は満州国の運営をめぐって甘粕正彦と齟齬をきたして志半ばで追放されてしまった。


その後は半ば引退状態で終戦を迎えて、昭和24年に没している。


さて、、、、


次の、、法華経信者の巨星とは?


宮沢賢治である。


彼に「くもとなめくじと狸」という少々怖いお話があるのをご存知だろうか?


ここには当時は許されただろうが、今は差別用語として許しがたい表現もあるので、

そのまま引用するのは差し控えるが、


地獄行きのレースをするこの呪われた三人の短い人生がおぞましくつづられているのである。

あの、ユートピアニストの賢治からは想像もできない、

いわばホラ-小説のような陰惨な世界がここにはあるのである。


くももなめくじもたぬきも

平気で獲物を殺し食ってしまうし、無慈悲に殺して何の罪の意識もまったくない。


機械的に残忍に殺す様子が面々とつづられる。


これは果たして子供に読ませていいものかと考えざるを得ないほど、はっきりいって残忍だ。


次に、

「土神と狐」という作品では、


なんと嫉妬に我を忘れた土神が狐の体をねじって投げつけ、容赦なく踏みつけて殺すのである。


これは果たして童話なのか。


其れとも異常なストーカーまがいの犯罪小説なのか?


宮沢賢治を、甘ったるい人畜無害な童話作家とおもっていないだろうか?


とんでもないことだ。彼は人間心理の怖いところもしっかりみつめているのだ。

人間の心の中には天使も居れば悪魔も居る。

まるっきり善人も居ないし丸っきりの悪人もいない。

というか、人はそのときそのときで悪魔にもなれば天使にもなる

人間深層心理の闇は深い。


グスコーブドリの伝記ではブドリは

火山の噴火をとめるために、自ら噴火口に飛び込んでしまうのである。

死を持って衆生を救う。

それはまさに捨身飼虎のジャータカ譚に発するものであるが

釈迦の過去世の功徳譚の集大成である。

そのように仏陀は過去生で幾多の功徳を施してからこそ、

仏陀(覚者)になり得たわけである。


さらにはこの衆生救済を前面に押し出した教団が成立した、

インドで6世紀ごろといわれている。

その教団の教理の集大成が「法華経」である。

正しくは「妙法蓮華経」

この経について語りだしたら、きりはない。


それがのちのち、日蓮の心を捉えた。

法華経の行者日蓮と自称したくらいだからそのほれ込み方は尋常ではなかったろう。


宮沢賢治も青年期に法華経とめぐり合い、

後に、「私の一生はこの経典を広めるためだったのです」とまで言わしめている。


法華経の教理を要約すれば、

菩薩行である。

衆生救済である。

自分ひとり悟ってもダメ。

衆生が救われない限り、アラハン、どっかつ、観音、ボーディサッタの救済もない。

これが法華経である。


であるから、日蓮宗ほど、常に社会への働きかけを重視する仏教教団もない。

今に至るまで、政治に対して関わろうとするのはそれがタメである。


鎌倉幕府に直訴した日蓮である。

今も、政治団体といえば日蓮系と決まっているのを見ても明らかだろう。


宮沢賢治も「まず社会が救済されなければ個人の幸福もない」と断言する。


個人救済より衆生の救済が優先される。



それが捨身飼虎である。


ジャータカ譚(本生譚)に

こんなお話がある。

兎、狐、虎が3匹いた。

そこへおしゃかさまがきた。

3匹は何とかお釈迦様をもてなそうと

虎は、森に行って獲物を捕まえてきてささげた。

狐は森に行って、木の実を拾ってきた。

しかし兎は森に行っても何も得られなかった。

兎はお釈迦様にこういった。

「私はなにもありませんでした。ですからこの私をドウゾ食べて下さい」というが、焚き火の中に

身を投げたのであった。

お釈迦様はそれを見て直ちに兎を神の列に列したのであった。

というお話である。

一身を捨てて尽くす。

まるでどこかの国の忠君愛国のような。

だが本來これはそうではなかったはずだ。

この教えは形を捨てろということだ。


銀河鉄道の夜にある。

ジョバンニは死後の旅立ちに行く。

そこで冥府はよみがえりのたびでもあるという

アレゴリーが繰り返されるのである。





以上総括的に法華経なるものを見るなら、


この経典は、哲学的に、分析的に読み解くものではないという重大な?事実であろう。


この経典は、心で感じるべきものであり。

体得すべきものであり、

受持すべきものであり

信じ切るべきものなのである。


そういうなんというか、


象徴的な宗教的な叙事詩、、


それが法華経の真実なのだから。




分析しようとしたり合理的に

論理的にせんじ詰めようとしたら


法華経はまさに荒唐無稽な嘘話?ばっかりでしかないじゃないか



っていう結論ですものね。




そうではなくて、、


考えるのではなくて、心で観じるのです。


真っ白い心で受持するのです。


無心に信じ切るのです。


疑うことなく菩薩行をするのです。



そこにしかこの経典の神義は無いのですから。



南無北斗妙見菩薩


南無七面天女


南無鬼子母神


南無八大竜王


南無大黒天


南無帝釈天


南無毘沙門天


南無摩利支天


南無観世音菩薩


南無阿修羅神


南無持国天


南無常不軽菩薩


南無弥勒菩薩


南無普賢菩薩


南無薬王菩薩


南無妙音菩薩


南無勢至菩薩


南無八幡大菩薩


南無天照大神


南無弘法大師


南無伝教大師


南無釈迦釈牟尼佛






南無妙法蓮華経


南無妙法蓮華経


南無妙法蓮華経


南無妙法蓮華経


南無妙法蓮華経


南無妙法蓮華経




以上の諸神、諸仏、諸菩薩の御名を毎日、


無心に、となえてみてください、


分からなくてもいいのです。


無心に唱えれば必ずなんらかな良き変化が、


好転が必ずあなたに訪れるでしょう。




もっと、極端に言えば


これら諸神、諸菩薩の中で、


あなたが気に入った?というかこれは相性がいいというオーラが出ている


一神、一菩薩の御名だけを唱えても、その効果は変わりませんよ。




お知らせ


私の作品で、、続き物、連作、シリーズものを、すべてお読みになりたい場合には、「小説家になろう」サイトのトップページにある「小説検索」の欄に、読みたい連作シリーズ作品群の「共通タイトル名」を入力して検索すれば、全作品が表示されますので、たやすくお読みになれます。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ