3K?
「お父様。前、私に ”薫子が進みたい進路に進みなさい” って、言って下さったわよね?」
薫子は恐る恐る、仕事で海外にいる父親に電話で聞いてみた。
先日、急な進路変更の事で執事を泣かせてしまった為、”早めにお父様の許可をとって執事を安心させてあげたい” という思いと、”もしお父様に反対されたら?” という心配な気持ちが、薫子の心の中で交錯していた。
「薫子、今日はどうしたんだ?
いきなりそんな事聞くなんて、めずらしいな」
目に入れても痛くないほど薫子をかわいがっている薫子の父、鈴木昇造は、娘の様子がいつもと違うことを、その声のトーンで察知し、少し戸惑いながら答えた。
「私も、もう高校3年生だから、進路を決めたの。
それをお父様に報告しようと思って、今日は電話しました」
と、薫子がかしこまって、本題を切り出した。
「そうか、そうだな。それでお父さんに教えてくれるんだな。嬉しいよ」
と、昇造は愛娘の律儀な報告を嬉しく思いながら、言った。
「あのね、学校は今の学校の大学に行きたいと思うんだけど、いいかしら?」
と、薫子がまず無難な所から、確認して聞いた。
「ああ。もちろん、いいよ。そのほうがいいと、お父さんも思うな」
と、昇造は心から賛成して言った。
「あの……あと、驚かないで聞いて欲しいんだけど、学部は看護学部に進みたいと考えているの」
と、薫子がやや小さめの声で言った。
「は? 今、何と言った? ちょっとお父さんには、よくわからない言葉が聞こえてきた気がするから、もう一度、はっきり言ってくれないか?」
と、思いもかけない言葉に、頭の中が混乱して聞き返す昇造。
「あのね、看護学部に進みたいと考えているの!」
と、薫子が思い切って大きな声で言い放った。
「看護!!!? 看護学部と言ったのか? 薫子?」
と、昇造はさらに混乱した様子で、聞き返した。
「そうよ、その通り! 看護学部に進学を希望しているの!」
と、薫子が先程よりも、もっと大きな声で言った。
「……いや、まさか……そんなことを薫子が言い出すとは思わなかったよ。
薫子は看護師の仕事の大変さをわかっているのかい?
看護師は昔、”3K” といわれて、”キツイ・汚い・給料が安い” といわれていたんだよ。今は、昔よりは職場環境は良くなってきているとは思うが、こういっちゃ何だが、お嬢様育ちの薫子には勤まらないと思うがな。
もっとよく考えなさい! お父さんを驚かせるにもほどがあるぞ! 薫子!」
と、昇造がやっと頭の中の整理がついて、論理的に薫子を諭した。
「お父様! 私、本気なんです!
やってもいないうちから無理だと決め付けないで欲しいの。お願いします。
私は今まで、お父様や家の人たちみんなに大切にされ、守られてきました。
本当に感謝しています。
だけど、いつも受身ばかりの自分に嫌気がさしてきたの!
もしかして、お父様は会社の後継者の事で反対しているの?」
と、薫子は父の意見に、ひるむことなく食い下がった。
「会社の後継者など候補者は山のようにいるから、お父さんはそんなことを問題にして反対している訳じゃない!
でも、どうして急に看護師なんだ? 何か隠しているだろう?
お父さんには隠せないぞ、薫子! 正直に本当の事を話しなさい。
本当の事を話さないと、看護学部に進学する事は絶対に許さないぞ!」
と、昇造が何かに感づいて言った。
「ごめんなさい。やっぱり、お父さんには隠し事は出来ないわね。
わかりました。話します。
最近、ある不思議な人に出会ったんだけど、その人は私にいつも不思議な言葉を教えてくれるの。
その人の話を聞いていたら絶望の暗闇に光がさしたような気持ちになって、その生き方に憧れて、その人が目指している医療の世界に私も進みたいと考えたの……」
と、薫子は父には隠し事はできないと考えて、正直に話した。
「そうか、よく本当の事を話してくれたね。
で、その不思議な言葉を教えてくれる人は、もしかして男性かい?」
と、昇造は確信をついて、聞いた。
「うっ、そうです……」
と、薫子は父親のするどさに驚きながら、答えた。
「それで、その彼に少しでも近づきたいと思った。違うか?」
と、まるで薫子の心の中を見透かしたかのように、昇造が聞いた。
「うー、その通りでございます。もう、お父様にはかないません!」
と、薫子は父親に降参宣言した。
「お父さんも人の子だ。
恋をすると人間がどうなるか、その事が全くわからないわけじゃない。
だがな、そんな甘い考えでやっていけるほど看護師の仕事は簡単じゃないぞ! これは、緊急事態だ! 来週日本に帰るから、その男性に会わせなさい。
あと実際に、最近の医療現場を見学させてもらおう。
今、ちょうど友人が聖マタイ病院の理事長をしているから、頼んでみるよ。
それで、薫子もお父さんも納得した上で、再度進路を決めよう。
それでいいな?」
と、昇造は娘の重大事項のために、緊急措置を提案した。
「ありがとう、お父様! 嬉しい!
もしそれで納得したら、看護学部に進学してもいいのね?」
と、薫子は父親の提案を嬉しく思いながら、言った。
「喜ぶのはまだ早いぞ、薫子!
あと、その男性について事前に調査させてもらうからな!」
と、昇造が浮かれ気分の薫子に、釘をさした。
「お父様、それはひどいわ! その人はただ私の片思いだから……、
お付き合いしているわけでもないし……調査なんて失礼よ!」
と、薫子は怒って父に反論した。
「……それなら、お父さんがその男性に直接、会いに行って本人に色々質問する。それなら、いいか?」
と、昇造は娘が本気で嫌がっているのを感じて、妥協案をだした。
「そんな高圧的な態度で、彼を傷つけて欲しくないわ!」
と、薫子はまだ不機嫌そうに答えた。
この時、薫子は自分がいつも義也に対して、とても高圧的な態度をとっている事をすっかり忘れていた。
「それじゃあ、どうしたらいいだろう?
お父さんも彼に会って、話を聞いてみたいんだが……」
と、昇造が困った様子で言った。
「それなら、こうしたらどうかしら?
私とその人は毎朝5時頃、家の庭で5分程話をしているのだけれど、その時にお父様も一緒に話を聞かせて欲しいと言えば、きっと喜んで話をしてくれるわ。その時、少し質問するくらいならいいと思うし……」
と、薫子が父親の希望に対する譲歩案を出した。
「そうか、それならそうしようか。
しかし、薫子が ”恋” とはな。正直、寂しいよ。
小さい頃からお父さんにべったりだったのに……そんなお年頃か。
最近は晩婚化が進んで結婚しない人が増えているそうだから、それよりは、きちんと愛し合う人と幸せな家庭を築いて欲しいと思うが、やっぱり寂しい事は本当だ……」
と、昇造は薫子の案に賛成すると共に、本音をもらした。
「お父様、あんまりにも気が早すぎるわ!
それに、彼に変な事、聞いたり言ったりしないでね。お願いします」
と、薫子が父に頼んだ。
「わかったよ、気をつけるから。 じゃあ、そういうことにしようか。
来週日本に帰ったら、彼に会う事と、あと病院を見学する予定にしよう」
と、昇造は不安と楽しみな気持ちと半々な様子で、言った。
「ありがとう。お父様、大好き!」
と、薫子は喜んで言った。
「お父さんも大好きだよ! お父さんは薫子の幸せを考えて、いろいろ言っている事だけは忘れないでくれ!」
と、昇造は少し涙ぐみながら、電話の向こう側で言った。
「はい、わかりました!」
薫子は元気に答えた。