第94話 アトラの波間にて
海王ジークとの謁見を終えた一行は、しばし海底都市アトラに滞在することを許された。
都市は静謐でありながらも、光と潮流が生み出す温かな息吹に満ち、訪れる者の心を解きほぐすようだった。
珊瑚で彩られた街路を小さな魚群がすり抜け、遠くでは海族の子どもたちが水草の輪を投げ合って遊んでいた。
広場では、いつものようにブチとオルガの掛け合いが始まっていた。
「僕は戦わないからな! 絶対に! 平和主義ってやつだ!」
「ほう? さっき巨大エビに追いかけられて泣き喚いていたのは誰だ」
「ち、違う! あれはエビの目が多すぎて気持ち悪いんだ! 僕は戦わないって決めてるのに、勝手に追ってきたんだ!」
「戦わぬ割には、逃げ足だけは達者だったな。“逃げ足最強”の称号をくれてやろう」
「そんな称号いらないよ! 僕はもっと格好いいのがいい!」
そのやり取りに、周囲の海族たちから笑いがこぼれる。
タロは声をあげて笑い、「すごかったよ! あんな速さ、僕も見たことない!」と無邪気に讃えた。
ブチは胸を張り、「そ、そうだろう? 僕はやればできるんだ!」と調子づくが、すぐ横でオルガが「やれば逃げる、の間違いだ」と切り捨て、さらに笑いを誘った。
クロも思わず吹き出し、肩を揺らす。
「確かに、あの必死な顔は忘れられないな」
イヴは手を口元に添え、くすっと笑った。
「でも……なんだか、温かいですね。こういうやり取りって」
ミロは落ち着いた微笑みを浮かべ、静かに言葉を添える。
「戦う強さも大切だけれど……こうして笑い合えるのも、力のひとつなのね」
ノラは頷き、胸の奥に残っていた重苦しさが少しずつ和らいでいくのを感じた。
だが同時に――心の奥ではまだ、あの日の記憶がざわめいていた。
忘れようとしても消えない痛み。そして、いずれ再び相まみえるであろう不吉な影。
クロはそんなノラの横顔を見つめ、声を潜めて呟く。
「兄さんの死の真実……必ず辿り着こう。どれだけ時間がかかっても」
アトラの波間は静かに揺れ、一行の決意を抱くように柔らかな光を放っていた。




