第88話 水精の加護
岩場に囲まれた入り江に、波が静かに寄せては返していた。
ブチとオルガの先導で、ノラたちは水際に立ち尽くす。
オルガが手を伸ばし、掌に小さな光を浮かべると、それは淡く輝く“アクアリス”へと変わった。
透明な貝殻のような装具が一人ひとりの前に差し出される。
「胸に装着しろ。水精が認めれば、呼吸は保たれる」
その声は厳粛で、まるで儀式の開始を告げるようだった。
ノラは一瞬ためらったが、義手の指先でアクアリスを胸に押し当てた。
淡い光が身体に染み込み、ひんやりとした感触が肺へと広がる。
息を止めかけた瞬間
水の匂いが甘く変わり、深く吸い込める感覚が訪れた。
「……これが、アクアリスの力……」
ノラの呟きにクロも頷き、同じく装着する。
「確かに息ができる……だが、不思議な感覚だな」
タロは目を丸くして胸を押さえ、跳ねるように声をあげた。
「わあ! 本当に呼吸できる! 水の中で……息ができる!」
イヴは胸に手を添え、そっと目を閉じる。
「……暖かい……心臓に光が差したみたい」
その言葉に、海風が一瞬強く吹き抜けた。
ミロは揺れる水面を見つめ、小さく呟いた。
「……水精が応えてくれているのですね」
彼女は胸に手を当て、心の奥で祈る。
(……父上、見ていてください。私は夢を奪わぬ未来を、この目で確かめます)
その瞬間、海の底から透き通る声が響いた。
耳ではなく胸の奥に直接届く感覚――水精の囁きだった。
『誠実と夢を持つ者よ。海は、お前たちを拒まぬ』
タロとイヴの目が大きく見開かれる。
「今……声が!」
「うん……まるで夢を歓迎してくれてるみたい」
やがて声は消え、胸の奥に静かな余韻が残った。
まるで海そのものに抱かれているかのような穏やかな静けさ。
ノラは仲間たちを見渡し、深く頷く。
「なら、行こう。俺たちの足で、アトラへ」
オルガは振り返り、力強く水面へと身を躍らせた。
「ついてこい。アトラの門まで案内する」
ブチは腹ばいで勢いよく飛び込み、水しぶきをあげて叫んだ。
「さあ! アトラへの始まりだぁぁ!」
タロが笑い、イヴも小さく微笑む。
クロは無言で水面を睨み、真っ先に飛び込んだ。
ノラもそれに続き、最後にミロが静かに目を閉じてから身を投じる。
水面を割った瞬間、世界は一変した。
光の粒子が舞い、青い世界が無限に広がる。
波の音は消え、代わりに透き通る静寂が満ちていた。
義手にヒトフリを握りしめたノラは、胸の奥に確かな力を感じながら呟いた。
「これが、海の世界……」
こうして、ノラたちはついに海底都市アトラへの第一歩を踏み出した。




