第85話 拒絶と和解
湖面の霧が完全に晴れ、静謐な光が辺りを包んでいた。
試練を終えたノラたちの前に、湖王ゲータがその巨体を横たえ、深く息を吐いた。
「……よくぞ、ここまで辿り着いた。
“優しさ”を示した者たちに、私はこれを託す」
ゲータの背後、湖畔の祭壇に淡い光が灯る。
そこに安置されていたのは、一つの輝く石――優しさのルーン石だった。
柔らかな光は温もりに満ち、見守るように彼らを包み込む。
タロとイヴは思わず手を取り合い、その光を見上げる。
「これが……優しさの力……」
「温かい……心の奥に届くみたい」
ゲータの瞳が静かに彼らを見据える。
「だが忘れるな。優しさはしばしば裏切られる。
かつて私は、ナーガと“夢”を語り合った。
だが奴はやがてその夢を歪め、恐竜の力を求める道を選んだ」
その声には深い哀惜が滲んでいた。
「私はナーガを拒絶した。
だが……それは彼を見放したことでもあったのだろう」
沈黙が湖畔を包む。
ミロが小さく呟いた。
「優しさは時に、背を向けることでもある……」
ノラは義手に《ヒトフリ》を握り直し、真っ直ぐに答える。
「でも、だからこそ俺たちは信じ続ける。
裏切られても、奪われても……また誰かを守るために」
ゲータはその言葉にしばし目を閉じ、やがて深く頷いた。
「……ならば、もう一つ託すべきものがある」
祭壇の脇に置かれた布包みが、ゲータの尾で静かに押し出される。
クロが目を見開いた。
中から現れたのは、鋭い牙を模した双刃の双剣――《狼牙》。
それは、かつてシロが手にしていた形見だった。
「これは……兄さんの……!」
クロの手が震え、声が掠れる。
ゲータが重々しく語る。
「統一戦争の最中、この地で私はこの武器を拾った。
持ち主は既に倒れていた犬族――だがその刃には、なお消えぬ闘志が宿っていた。
私は戦場でこの武器を振るい、幾度も仲間を守った。
だがこれは私のものではない。……本来返すべき者がいる」
クロは膝をつき、武器を両手で受け取った。
震える声で呟く。
「兄さん……俺はまだ、答えを見つけられていない。
でも必ず……いつか応えるよ」
その隣でノラもまた、拳を強く握りしめていた。
「シロ……お前の意志は、まだここに生きていたんだな。
俺も忘れない。この目で見届ける。クロと共に……お前が夢見た未来を」
ゲータは静かに頷き、二人に言葉を贈った。
「その刃は、ただの武器ではない。
仲間を思う心を宿す“牙”だ。
決して忘れるな――優しさとは、命を繋ぐ力だ」
湖畔に吹く風は温かく、クロとノラ、二人の頬を同じように撫でていった。
シロの不在を埋めることはできない。
だが二人の胸には、新たな誓いが確かに刻まれたのだった。




