第80話 消えたトヒ
旅立ったノラたちの背を見送った後、ハコニワは静かに日常を取り戻すかに思えた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「王! 大変です!」
慌てた兵が駆け込んできた。顔は蒼白で、声は震えていた。
ブルが重々しく立ち上がる。
「何事だ」
「西の牧場にいたはずのトヒが……今朝になって数百も姿を消しました!」
広間が一瞬にしてざわめきに包まれる。
四天王のひとり、メイルが険しい表情で問いただす。
「柵はどうした。破壊の痕跡はあったのか」
兵は必死に首を振る。
「いえ……柵も鍵も無傷のままです。
夜明け前の見回りでは確かにそこにいた……なのに気づけば影も形もなく」
タンタンが低く呟く。
「不自然すぎる……内部の手引きか、あるいは外からの術か」
パオの巨体が震えた。
「ハコニワの象徴ともいえる牧場から、これほどの数が……」
ブレッドが奥歯を噛み締めた。
「もし他族に知られれば……“リーフラはトヒを守れない”と噂が広がるだろう」
その言葉に、ブルの顔に影が差した。
「……平和の象徴が揺らげば、均衡は崩れる。争いの火種となりかねん」
――その頃。
湿地の霧の奥で、低く笑う影があった。
ナーガである。
「……始まったな。リーフラの楽園など、脆いものだ」
隣に立つコドラが、冷たい瞳を光らせた。
「トヒを奪えば、心は乱れ、夢は疑われる。
やがて、平和は音を立てて崩れるだろう」
ナーガは黄金の瞳を細め、舌なめずりをした。
「生贄はすでに集まりつつある。
恐竜を目覚めさせるその時まで……舞台は動き出したのだ」
霧が深まり、湿地の奥で何かが蠢く。
その姿はまだ、誰にも知られてはいなかった。




