第57話 霧中の囁き
森の奥へ進むにつれ、霧は濃さを増し、視界はわずか数歩先までしか届かなくなった。
水面に浮かぶ藻がじわじわと広がり、足音さえも吸い込むように沈んでいく。
「……変だな」
クロが低く呟いた。
「音が消えている。さっきまで鳴いていた鳥の声が、ぱたりと止んだ」
ノラも耳を澄ます。
聞こえるのは、自分たちの呼吸と、遠くで響く太鼓の音だけだった。
――その時。
霧の中から、ぬるりとした影が滑り出た。
沼族の間者だ。黒い鱗の身体が霧に濡れ、無数の目が光を反射していた。
「旅人よ……いや、“夢追い人”たちよ」
低く湿った声が囁くように響く。
「お前たちの求める真実は、この森にはない。だが――警告だけはしておこう」
クロが一歩前に出る。
「警告だと?」
間者は舌を長く伸ばし、ぺたりと音を立てて笑った。
「リーフラ族もそうだが空族こそ、この星を乱す悪だ。
奴らは空を支配し、世界を操ろうとしている……」
タロが目を瞬かせ、小声で呟いた。
「空族……って? 空を飛ぶ種族のこと?」
イヴも首を傾げ、霧の中を見渡す。
「私は……よく知らない。けど、“悪”って、そんなに簡単に決めつけられるものなの?」
その素直な疑問が、かえってノラの胸を締めつけた。
脳裏に、あの戦場の光景が蘇る。
血に染まった白い毛並み――シロの傍から、羽音を立てて飛び去った空族。
(……あれは……偶然じゃなかったのか?)
冷たい汗が背を伝う。
思い出すたび、胸に刺さる棘が深く突き立っていく。
クロが間者を睨みつけた。
「くだらん扇動だ。言葉で揺さぶろうとしても無駄だ」
ベルルが静かに一歩前に出た。
「皆さん、惑わされないでください。ナーガ様は長らくリーフラ族と空族を憎んでいます。
その“望み”のために、こうして森の影から間者遣い代わりの囁きを送ってくるのです」
その声に、仲間たちの呼吸がわずかに落ち着いた。
だがノラの心は完全には揺るがなかった。
疑念が、彼を追い詰めていた。
間者は嘲笑を残し、再び霧の中へと消えていった。
残されたのは、湿った重苦しい空気と、仲間たちの沈黙だけだった。
ノラは胸の奥で呟く。
(空族……本当に、お前たちは……敵なのか?)
霧の奥で、再び太鼓の音が低く響いた。
それはまるで、ノラの心の迷いをあざ笑うかのようだった。




