第52話 沼族の囁き
南東湖の湖畔を後にしようとしたとき、ノラの耳が僅かなざわめきを捉えた。
風に混じる、草を踏みしめる音。
小さな波紋のように、湖の静けさを乱す気配。
「……誰かいる」
ノラが低く呟くと、クロもすぐに反応し、剣の柄に手を添えた。
タロは辺りを見回し、声を潜める。
「まさか、さっきの幻影の続きとかじゃ……」
イヴは首を横に振り、オッドアイを細めた。
「違う。これは……生きた視線。敵意に近いもの」
湖畔の木陰から、複数の影が姿を現した。
黒い鱗を持ち、ぬらりとした体躯。
沼族の間者たちだった。
「……やはり、見張られていたか」
クロが低く吐き捨てる。
先頭に立つ沼族の兵が、舌を鳴らすように声を放った。
「ナーガ様はすでに見抜いておられる。湖王トールのもとを訪ねた時点で、お前たちは監視対象だ」
ノラが一歩前に出て睨みつける。
「……俺たちはただ、真実を求めているだけだ」
「真実? 愚かだな。
空を支配しエアーに住む空族こそ、この星を乱す悪だ。
ナーガ様がそれを正す。お前たちもいずれ気づく」
その言葉にノラの耳がぴくりと動いた。
「……エアーが悪、だと?」
クロの眼が鋭くなる。
「扇動だ。だが……言葉を巧みに使って揺さぶるのは、ナーガの常套手段」
その場に同行していたベルルが、低く補足した。
「ナーガ様とその側近たちは、かつてリーフラ族と
空族に屈辱を与えられた歴史を忘れておりません。
だからこそ、彼らの憎しみは常に西と北へと向かうのです」
沼族の兵はそれ以上近づかず、不気味に笑って姿を消した。
残されたのは重苦しい空気だけだった。
タロが眉をひそめる。
「……どういうこと? 本当に空族って人たちは悪者なの?」
イヴは唇を噛みしめた。
「わからない……でも、あの言葉は……胸に刺さった」
ノラは静かに拳を握った。
「だからこそ、確かめなきゃならない。
どんなに巧みに偽られても……俺たちが信じる真実を見つけ出すんだ」
湖面に映る月が、揺らめく光で彼らの影を伸ばしていた。
その影はまるで、これから待ち受ける試練を暗示しているかのようだった。




