第177話 奪われた石
重い空気が漂う祭壇の奥で、粘りつくような音が響いた。
濁流のような瘴気が渦を巻き、やがてその中心から、ぬらりと黒い影が現れる。
黄金に濁った瞳、蛇のようにしなやかな身体、そして幾千の嘆きがこびりついたような声。
「……久しいな、夢追い人。」
沼王ナーガが、低く笑った。
その声音には、王としての威厳も、慈悲もない。欲にまみれた独裁者。
あるのはただ、底なしの愉悦
他者の痛みを嗅ぎ取る獣のそれだった。
ナーガの足元では、タロが嘆き
その背後には、血のように赤い鎖で繋がれたイヴ、ミロ、ティカの姿。
四人の命が、ナーガの掌中にある。
「お前たちは、奪われても立ち上がる。
だが、今回はどうかな?」
その言葉に、ノラは牙を食いしばった。
クロが横に立ち、短く首を振る。
無謀に飛び込めば、全てが終わる
――それを理解していても、拳が震えた。
ナーガは、細い指を祭壇の上へと滑らせる。
そこには、黒曜石の器に刻まれた古代の印。
ルーン石の力を注ぐための“導きの盤”らしき。
「ルーン石を渡せ。
でなければ、この四つの灯を……目の前で消し去ろう。」
静寂。
タロが必死に叫ぶ。
「やめろ、ノラ!渡したらダメだ!」
イヴの目には涙が滲んでいた。
ミロとティカは手を握りしめ、震えながらもノラとクロを見つめている。
ノラの喉が焼けるように痛む。
全てを守るために戦ってきたはずなのに、今は何もできない。
かつて夢を追ったその背中に、重く現実がのしかかる。
「……わかった。ルーン石を、渡す。」
低く、掠れた声。
クロの目が見開かれたが、ノラは静かに首を横に振った。
抵抗しても、命が消えるだけだ。
いずれ取り返す。
その時まで
屈してでも、仲間の命には代えられない。
ノラが祭壇前の階段に近寄りルーン石を差し出し、コドラはそれを受け取りノラを殴り吹き飛ばす。
コドラがルーン石をナーガに渡し、
ルーン石が祭壇の上に置かれた瞬間、空気が歪んだ。
「ふふ……やはりお前たちは優しいな。
だがその優しさこそが、お前たちの枷だ、夢追い人。」
ナーガの尾が地を這い、冷たい音を立てた。
密教徒たちが現れ、骨のような仮面を被りながら円陣を組む。
彼らは低く呪文を唱え始め、古代文字の様な模様がが祭壇を這い回るように浮かび上がった。
「これが“再誕の儀”。
禁じられた命の循環を、我らが王に返す時だ。」
ナーガが両腕を広げる。
天井の裂け目から、黒い光が注ぎ落ち、祭壇を包み込む。
ノラとクロは後ずさるしかなかった。
抗うことのできない圧倒的な力が、すでに動き始めていた。
「見届けよ、夢追い人。
お前が守ろうとしたすべてが、今、儀となって飲まれていく。」
その言葉が、ノラの心を貫いた。
彼の拳が血を流し、地を握りしめる。
――奪われた。
だが、終わりではない。
怒りが、静かに形を持ちはじめる。
祭壇の奥で、鼓動が脈打った。
禁忌の儀式が、今まさに始まろうとしている。




