第175話 湿地に響く希望
湿った風が木々を揺らし、南東湖の湖面が細かく波打っていた。
ベルルの背を追い、ノラ、クロ、ミロ、ティカは一列になって沼道を進んでいた。
夜明け前の空は重く、どこかで水鳥の羽音が響く。
彼らの足元では泥が静かに泡を立て、レプタへ近づくにつれ、空気の質そのものが変わっていくのを全員が感じていた。
ミロは小さく息を飲んだ。
「これが……レプタに通じる道……。」
ティカも頷きながら、周囲のぬかるみに視線を走らせる。
「空気が、重い……。まるで何かが、見てるみたい。」
ノラとクロは前を行くベルルの歩幅に合わせながら、互いに目を交わした。
彼らにとっては二度目の道――
だが、あの時よりも何倍も緊張が濃い。
今回は、仲間を救うための帰還だ。
「ベルル、あの時よりも道が狭くなっていないか?」
クロが呟くと、ベルルは淡く笑みを浮かべる。
「沼は生きている。進む者の覚悟を量るように、道を変えるんだ。」
その声には静かな重みがあった。
同じ頃、レプタの地下牢。
ひんやりとした石壁の奥で、タロとイヴは互いの背中を合わせて座っていた。
わずかな光が天井の割れ目から差し込み、彼らの影を長く引き伸ばす。
その静寂を破るように、鉄扉の軋む音が響いた。
「おい、起きてるか。」
現れたのはコドラとスガイズ。
二人の足音は湿った床を叩き、金属の鎖が微かに鳴った。
「……何の用だ。」タロが低く唸る。
スガイズは笑いながら鉄格子を指で弾いた。
「何の用って?暇つぶしさ。退屈なんだよ、あの連中がここに来るまではな。」
「ノラたちが……来る?」
イヴが小さく反応する。
コドラはにやりと笑った。
「ああ、そうさ。もうすぐここに着く。だが安心しろ――お前らが会う頃には、奴らは立っていられねぇかもな。」
イヴの瞳が一瞬だけ鋭く光る。
タロは静かに立ち上がり、鉄格子越しに彼を睨んだ。
「何を言われても関係ないよ。ノラたちは来る。僕たちは、みんなを信じてる。」
その確信に満ちた声に、コドラの眉がわずかに歪んだ。
「……ほう。まだそんな目ができるか。」
その瞳――どんな絶望にも屈しない光。
それが腹立たしくて、コドラは舌打ちした。
ガンッ――
鉄格子を蹴り飛ばし、錆びた鉄の音が牢の奥まで響き渡る。
「見てろ……今に笑えなくしてやる。」
スガイズも薄気味悪い笑みを浮かべ、
「絶望ってのはな、後から静かに染みてくるんだ。」
と囁き、二人はそのまま地下牢を後にした。
残されたのは、滴る水音と、かすかな呼吸だけ。
タロは目を閉じ、イヴの肩にそっと手を置いた。
「信じよう。みんなは必ず来てくれる。」
「……そうだね。」
イヴの声は揺るがなかった。
――そして、夜が明け始めた頃。
レプタの遺跡群が靄の向こうに姿を現した。
ノラたちは沼道を抜け、湿地の入り口に立っていた。
空気がぴんと張り詰め、見えない何かの気配が全身を撫でていく。
「……感じるか?」
クロが呟く。
ノラは頷いた。
「監視の気配だ。……ここからは俺たちだけで行こう。」
ベルルは立ち止まり、ノラたちを見渡す。
「ここから先は、沼王の支配が強い場所。気を抜くな。」
ノラは振り返り、静かに言った。
「前にもここを案内してくれたからね。もう大丈夫だ。ここまでありがとう、ベルル。」
ベルルは少しの間、ノラを見つめ、それから穏やかに微笑んだ。
「……兄ベルと、オロチのことを頼みます。
二人はこの世界の均衡を守ろうとしている。ノラたちのように。」
ノラたちは深く頷いた。
その瞬間、風が沼の底から吹き上がり、水面に細かな波紋を描いた。
ベルルはその中へ身を滑らせ、静かに南東湖の方角へと帰っていった。
沼の呼吸が静まり返り、空気の中に残るのは、わずかな水音だけ。
ノラたちは息を整え、
「行こう。二人が待ってる。」
というノラの声に導かれるように、レプタへと足を踏み入れた。




