第141話 美しき北東湖
……北東湖。
それはナナシの世界で唯一の汽水湖でありながら、古代湖としての特徴も併せ持つ特異な湖。
遥か昔から水を湛え続け、数え切れぬほどの生物を育んできたその湖は、透明度と多様さにおいて世界一美しいと謳われる。
霧が漂い、湖へ近づくほどに空気が張り詰め、ただ歩いているだけで肌に冷たい緊張感がまとわりついてくる。
丘陵を越えた一行の目の前に、その湖面が広がった瞬間、誰もが息を呑んだ。
「……すごい……」
イヴが小さな声を漏らした。
湖面は鏡のように静まり、霧の合間から淡い光が差し込み、水面に虹色の揺らぎを描き出していた。
タロが両手を広げて叫ぶ。
「見てよ!まるで空が湖に閉じ込められてるみたいだ!」
ミロも目を丸くし、慎ましくも感嘆を口にした。
「こんなに澄んだ水……わたし、今まで見たことありません。湖というより、宝石のようですね。」
ノラは感動を噛み締めながらも、背筋に走る冷たい感覚を拭えずにいた。
「……けど、綺麗だけじゃないな。湖そのものが、何かを隠してるみたいな……そんな気配がする。」
クロも頷き、鋭い眼差しを湖に向ける。
「確かに。水の奥から視線を感じる。まるで……試されているようだな。」
その言葉にティカが静かに続けた。
「北東湖は古来より“龍の棲まう地”と……空族では伝えられ呼ばれてきました。
そして北東湖にも湖を護る王がおります。」
イヴが不安そうにティカを見上げた。
「他の湖と一緒で湖王がいるの?……龍だけじゃないんですか?」
ティカは首を横に振る。
「いいえ。龍は直接姿を現すことは無いです。けれど、その存在を隠し護る“湖王”がいます。その方の名は……マナス。」
ミロが瞳を輝かせて言った。
「湖王マナス……。まるで神話に出てくる守護者のようです。私もお会いしたことすらありません。」
ノラは湖の縁へ歩み寄り、霧の中へ目を凝らした。
「……まだ見えないけど、確かに何かがいる。空気が張り詰めてる気がするのは、そのせいかもしれない。」
クロは湖岸に並ぶ石碑へ目を留めた。
「……見ろ。あそこに刻まれてるのは……古代文字か?」
一行は近づき、苔むした碑を囲む。そこには龍を思わせる長大な影と、円環のような紋様が刻まれていた。
タロが首を傾げる。
「これって……絵?それともこれが龍の姿……」
ティカは碑にそっと触れ、静かに告げた。
「龍信仰の痕跡です。私たち空族の先祖が残した証なのでしょう。」
ノラは深く息を吐き、胸の奥に湧き上がるざわめきを抑えきれなかった。
「……ルーン石の気配を感じる。間違いない、この湖のどこかに……」
ミロが静かに頷く。
「ええ……確かに。私の身体まで震えてしまいます。」
イヴは小さな手を握りしめ、不安を抑えるように言った。
「怖いけど……でも、ここまで来たんだもん。きっと答えがあるはずだよね。」
ティカは仲間たちを見渡し、少しだけ微笑んだ。
「湖王マナスに会えば、必ず道は開けます。……ただし、その前に皆さんが試されることになるでしょう。」
その声音は、静かでありながら確かな予兆を含んでいた。
一同は互いの顔を見合わせ、胸の奥に湧き立つ緊張と期待を押し殺しながら、霧深き北東湖の畔に足を踏み入れていった。




