第8話 殺したいほど憎いあなた
夜の王宮図書館は、昼間とは別世界だった。無数の蝋燭が長い書架の影を揺らし、紙と表紙の革の匂いが漂っている。
俺は篝火の届かない闇の奥へ足を踏み入れた。背後を振り向くと、リオンが燭台を携えて追って来る。俺はアルセヴァ文字がまだ読めないので、読めるリオンを連れてきた。彼女には、一緒に図書館を探検して古文書でも見つけようという言い訳を作ってある。
「ここ、勝手に入って本当に大丈夫……?」
「禁書庫って言うくらいだ。見張りは出払ってるが、長居はできないな」
俺は腰の鍵束を指先でもてあそぶ。衛兵の一人から盗んだものだ。王子らしからぬ行い? 笑わせるな。王子と名乗る自覚など、まだ一度も湧いたことがない。
長い石造りの回廊を抜けると、厚い鉄扉が行く手を塞いだ。双頭竜の紋章が浮き彫りになっている。燭台の火を翳すと金線がぎらりと光り、威圧感を放った。
「鍵穴は……ここだ」
錠前に挿し込んだ瞬間、鉄の奥で鈍い音が鳴った。扉がわずかに軋み、暗闇の向こうから冷気が吐息のように漏れ出してくる。
禁書庫は、王宮でも限られた文官しか入れぬ、過去の戦史、裁判記録、古文書、王族の密書が封じられた場所。今晩ここへ来たのは、十年前に俺が処刑された理由を探るため。
棚という棚は天井近くまで革装丁で埋まり、背表紙を触るだけでも埃が舞った。俺は書架を一巡し、最奥に沈む木箱へ手を伸ばす。蓋には封蝋が三重。王家の封印と軍務局の刻印、そして……見慣れぬ赤い印章。
「これは……ダリウスに覚えさせられたばかりの宮内審問局の印だな」
こわごわとリオンが囁く。
「『死刑囚尋問記録』って書いてあるけど……?」
「それだ。開けるしかないな」
ナイフの刃先で蝋を割り、蓋をこじ開けた。内部は羊皮紙の束。表紙は殴り書きっぽい字だ。
「『アルセヴァ・ライカ戦役機密』……だってさ」
ライカ、と聞いて俺の背筋がこわばる。前世の祖国だ。アルセヴァ王国に滅ぼされた小国。リオンが言っている通りならそれでいいのだが、問題は俺がこの文字を読めないことだ。
「リオン、中を読んでくれ」
彼女はこくりとうなずき、緊張で震える指を紙面に滑らせた。
「十年前の国境戦役、司令部日誌……ええと。セイラン王太子殿下は二月十九日、前線に視察に赴く途中で……『討死』」
「どこで?」
「メルダ河畔。『騎兵突撃に巻き込まれ、首級はライカに奪われたまま戻らず。』──って書いてある」
脳裏に火花が散った。河畔。騎兵。奪われた首級。俺は木剣訓練中に襲ったあの眩暈を思い出した。土煙の向こうに剣を振り下ろした瞬間の記憶だ。強く拳を握り込むと、すっかり汗で湿っていた。次の行を見ると、墨で線が引かれ、判読できない。
「隠してやがるな」
「まだ別の束があるかも」
リオンは紙を慎重にめくりながら、さらに奥から薄い冊子を引き抜く。古ぼけた紙が数枚、かろうじて綴じ糸で繫がっている。
「『罪人審問記録』……ここにはライカ戦役の処刑判決の名前が並んでる。でも読めるのは、『被疑者、黙秘。実行を証言せず。斬首刑の判決を下す。』、『判決後、護送先にて刑の執行。』……護送先も墨で潰されてるよ」
俺は身を乗り出し、冊子を両手で包み込んだ。古びた羊皮紙を覗き込んでいると、胸の奥で何かが唸り声をあげる。
──俺だ、確かに俺がそこにいた。
俺が罪人の中の一人ということが確定はしたものの、肝心の「王太子殺し」の実行犯欄だけが、無慈悲に削り取られていた。まるで最初から空欄だったように。残るのは、薄く透けた「────」という断片だけ。これでは、アルセヴァ側の誰かがセイラン王太子の討死を装った暗殺を行って、その下手人を俺に仕立て上げ、冤罪で拷問にかけた可能性もありえるが……。
「名前が……消されてる」
リオンの声が震えた。
「意図的に削った跡だよ。刃物で。誰かが。しかも真新しい痕跡だ。誰がこんなことを……?」
俺は歯を食いしばる。呼吸が浅くなっていた。
「セイラン王太子を殺した奴は消さねばならないほどの極秘ってわけか。それに……その機密を隠したい奴は、今もまだ王宮にいる可能性が高い……と」
処刑された理由が分かれば、俺は納得できると、どこかで思っていた。だが、真相はもっと悪い……俺は、やってもいない王太子殺害の罪を着せられ、拷問され、斬首されたのかもしれない。
──冤罪ならば、下手人を必ず見つけ出して殺してやる。
「落ち着け、カイル」
「落ち着いていられるか……!」
拳が震える。殺意が膝からせり上がり、全身を氷が舐めていくような怒りが駆け巡った。リオンがそっと袖を掴んでくる。
「まだ全部が闇じゃないよ。セイラン王太子殿下が討たれた場所も日付も分かった。次は、そこにいた兵の記録を探そう。名簿とか、戦傷者の報告とか。きっと誰かが見てる」
言い聞かせるような声に俺は目を閉じ、吸い込む空気を肺の底まで押し込んだ。
「……ああ、そうだな。まだ敵の顔も知らないうちから、斬り殺す気でいるのは筋違いだ」
震えが収まると、指先に残っていた羊皮紙のざらつきだけが現実を繋ぎ止めていた。
ふと、リオンの手が俺に触れた。細い指が汗ばんでいる。強がる声とは裏腹に、彼女も怖いのだ。名前を盗ったと責められ、首を絞められる夢に魘されているのだから当然だ。
燭台の灯芯が、ちり、と音を立てた。
「父……セイラン王太子を討ったのが誰なのか、必ず突き止める」
木箱の底に近い仕切りから、もう一つ紙束が見つかった。リオンが小さく息を呑む。
「これ……軍医の戦時記録みたい」
彼女は丁寧に紙をめくる。インク滲みの激しい書面だったが、なんとか名前の列が読める。そこには、従軍した医療班の記録が手書きで綴られていた。
「『戦地外科担当、第四軍所属、ヘルゼル・オロック軍医』……って人、見て。『メルダ河畔負傷兵処置に従事』ってある」
その名前に、リオンが目を見開いた。
「この人……覚えてる。スラムにいた。私、熱を出して倒れたとき、タダで診てくれた。腕の悪くない医者だったよ。廃棄区の裏通り、酒場の奥、今はそっちに引っ込んでるって噂を聞いたことがある」
俺は膝に手を置いたまま、彼女を見上げた。
「生きてるのか?」
「うん、たぶん。もうお爺さんだけど。最近はあんまり人と会わないって聞いた。けど、あの人なら……当時のことを何か知ってるかもしれないね」
言葉が落ちるまでの間に、心臓の鼓動が大きく跳ねた。
「よし……その軍医に会いに行こう。王宮を抜け出して廃棄区へ」
リオンは少し躊躇うように唇を噛んだ。
「大丈夫? またスラムに戻るんだよ。もし巡邏中の兵にでも見つかったら、こっぴどく叱られるよ」
「立場なんて、元々俺のもんじゃない」
言い切ってから、自分の声が思った以上に静かだったことに気づいた。覚悟か、それとも開き直りか。
「王子なんかどうでもいい。俺は知りたい。俺が誰なのか。……何を斬ったのかを、全部はっきりさせたい」
そのとき、リオンの表情がかすかに緩んだ。闇の中で明かりに照らされた横顔が、まるであの日のリンゴのパイみたいに、ほのかに甘いようで、どこか哀しげだった。
「……だったら、私も行くよ。だって、そうしなきゃ眠れないもの。カイルがどこかに行っちゃったら、また夢の中で、首を絞められそうで」
「明日、夜明け前に行こう。見つからずに抜け出すには、あの時間しかない」
「分かった」
互いに顔を見合わせ、黙って禁書庫を出る頃には、蝋燭は半分溶けていた。