第6話 リンゴのパイを焼きましょう
朝の陽が差し込む厨房の隅で、まだ少し煙たい空気の中、焼きたての何かの匂いがふんわりと空気に漂っていた。その匂いを嗅いだ瞬間、俺は一歩足を止める。甘い香り。香ばしくて、やや酸味のある匂い。
「……まさか」
リオンが木の大皿を持って振り向いた。どこか誇らしげな笑顔。皿の上には、つやつやとした焼き目のついたリンゴのパイが載っていた。パイの層が幾重にも織られ、角の部分がカリカリに仕上がっている。
「今日のまかないで余ったリンゴを使った。料理長に教えてもらって。……ちょっと、やってみたかったんだ」
リオンは恥ずかしそうに笑って、一切れ俺に差し出した。
「ほら、食べてみてよ。味は……保証できないけどさ」
俺は無言で受け取った。表面の照りと、焼きしめられた芳醇な果実の香りが胸の奥をざわつかせる。小さく息を吸い、一齧りする。
ふわっと舌の上に広がるまろやかな甘み。熱でとろけたリンゴの果肉がしゃくしゃくと歯ごたえ良く、ほんのりシナモンの芳香が鼻を抜ける。脳裏に、ぼんやりとした記憶が浮かぶ。
「……リンゴのパイか。ネリー母さんが、機嫌いいときによく作ってくれたっけ」
ぽつりと呟いた言葉に、リオンがぱちりと瞬きをした。
「ネリー母さん、よく思い出してるよね。私も会ってみたかったな」
「五つの歳まで俺を育ててくれた恩人。……母親代わりってやつだな」
リオンは小さくうなずいて、ほんの少しだけ眉をひそめた。ちょうど焼きたてのパイのような琥珀色の瞳が揺れる。
「そっか。……でも、なんでだろう」
手元のパイを見つめながら、彼女が言う。
「私、スラムでリンゴのパイなんて一度も見たことがないのに。……食べたことなんて、絶対にないはずなのに、なんでか、懐かしい気がするんだ」
その声には、どこか不安にも似た戸惑いが混じっていた。
「懐かしい……?」
納得が行っていないように、リオンはまたうなずく。
「うん。変だよね、私……。リンゴのパイの味なんて知らないはずなのに、知ってる気がする。……こんな味だった気がする、って」
俺はその言葉を胸の内で反復させながら、沈黙する。言葉にはしないが、記憶の奥で何かがかすかに引っかかる。それは、ときどき魘されたリオンの夢に出てくる「首を絞める手」の記憶と、どこかで繋がっているような鈍い感覚だった。あくまで直感にすぎないが。
まさかな……と、思った。だが、否定するには心の中の何かがざわついてたまらなかった。ふと、リンゴのパイを鼻歌交じりに焼いているネリー母さんが思い出されて、そのメロディが頭の中で響き、つきっと胸が痛くなる。俺は皿に残ったパイの端を口に運びながら、ぼそりと呟く。
「味覚や嗅覚は……記憶の直感的な場所にあるって、誰かが言ってたな」
すると、リオンがこちらを振り向いて小首を傾げた。
「え?」
「いや、なんでもない。うまかった。ありがとな」
リオンが嬉しそうに笑う。いつもの笑顔なのに、瞳の奥がどこか哀しげだったのに気づき、俺は目を逸らした。
◇
その日の午後、騎士団の訓練場では、白い太陽が眩しく輝いていた。一陣の風が通り過ぎて、土埃が舞う。俺は訓練用の軽い木剣を握り、騎士見習いたちと並んで立っていた。身分上は王位継承第一位だが、それでも「剣が触れる」と見込まれて、形式的な基礎訓練には加わっている。
「いいか! まずは構えからだ!」
訓練教官の怒鳴り声が響く中、他の少年たちが慣れない手つきで木剣を構える。肩に力が入りすぎている。足がそろっていない。体幹がぶれている。見ているだけで分かった。自分の身体がそれを覚えている。
俺は黙って足を開き、腰を落として、木剣を自然と肩の位置に構えた。また風が吹いた。隅に植えられている木の葉がざわめいた。時間が一瞬だけ止まったかのように感じる。前世の騎士としての経験。やはり手が覚えている。
「……構えが、出来ている?」
教官が目を細めて俺を見る。隣の少年がちらりと視線をよこし、戸惑ったように木剣を持ち直した。
俺は、それとなく剣を振った。一太刀が空を斬る。重心がぶれない。軌道が正確で、木剣の端が空気を切る音を立てた。
「殿下……それは、誰に教わったのです?」
教官が声を低くして問う。俺は首を横に振る。
「……知らない。身体が、勝手に動いた」
もちろん前世の経験とは答えられないので適当に誤魔化しておく。教官は不審そうにしばらく俺をじっと見つめたあと、何も言わずに背を向けた。遠くで、剣を打ち合わせる音がこだましていた。
前世の記憶が、どこかで染み込んでいる。だが今、この身体は間違いなく少年のものだ。無惨に首を刎ねられた騎士カイルのものではない。
俺は、もう一度構えを取り直した。
ふいに、誰かがこちらを見ている気配を感じた。視線を感じて振り向くと、訓練場の柵の向こう、日陰の石畳に腰掛けているリオンの姿があった。顔ははっきり見えなかったが、彼女は確かに俺を見ていた。木剣を構える俺の姿を、目を見開いてじいっと見つめていた。……まるで、何かを必死に思い出そうとしているかのように。
その眼差しに、心臓が一瞬だけ跳ねる。俺は思わず木剣を下げ、深く息を吐いた。
やがて鐘が鳴らされ、午後の訓練は終わりを告げる。
「今日はここまで! 各自、剣は倉庫に戻して解散!」
教官の声とともに見習いたちがぞろぞろと列をなして引き上げていく中、俺は木剣を抱えたまましばらくその場に立ち尽くしていた。額の汗を袖で拭い、ようやく背を向けようとしたとき……。
「ねえ、さっきの構え……ほんとに誰にも教わってないの?」
リオンが声をかけてきた。少し埃っぽい空気の中、彼女の髪が光に透けて見える。
「前にも、そんな動き……したことがあるような気がして」
「見てたのか」
「うん。なんか、背中が誰かに似てた気がして。……夢の中で見た、誰かに」
俺は返す言葉を探して口を開きかけたが、喉の奥に言葉が引っかかって出てこなかった。
夢──またか。
夢の中で、リオンは「女の手」に首を絞められている。何度も、何度も。あれが単なる記憶の残骸だと、言い切れるのか。その夢の中の誰かと、俺の剣を振るう姿が重なったというのなら……それは、あまりにも、出来すぎた偶然だ。
「お前の夢ってさ、女の人の手……それの他に何か思い出せる?」
俺の問いかけに、リオンはほんの一瞬だけ顔をこわばらせた。そして、唇を震わせながら答える。
「手は冷たくて……でも、指先にだけ、温もりが残ってた。あと、声がしてた」
「……声?」
「『リオンって名前を盗ったのは、あんたなんだから』って。……ずっと、そればかりを繰り返すんだ」
木剣を持つ手の先が、汗ばみもしていないのに、すうっと冷えていく感覚に襲われた。
……盗った? リオンが、名前を?
リオンに残されたのは確か、赤字で名前の刺繍された産着だけだ。彼女にとっての「リオン」はそれしか根拠がない。その名前すら、誰かのものだった……?
「それでも、私にとっては大切な名前なんだよ。誰かの名前でも。捨てられた名前でも……」
リオンは静かに言う。少し笑ったような、泣きそうなような、そんな顔で。
その表情に、どうしてか俺は何も返せなかった。ただ、今朝食べたリンゴのパイの甘さが、どこか遠くへ溶けて消え失せていくような気がした。
何か知ってはいけないことを、俺は知りかけている──そんな気がしてならなかった。