第5話 たぶん、あなたの名はリオン
俺……じゃなかった、私には親がいない。だけど、「リオン」と名前を刺繍された粗末なお包みがあったから、リオンなんだ。
白磁のティーポットを拭きながら、私は今日も「リオン」を名乗っている。それが本当に私の名前かは、知らない。たぶん、知らない。
王宮の雑用係なんて、夢のような暮らしだと誰かは言うだろう。でも、私は最近、夢の中で絞められている。首を。首に手が絡む。母の手。たぶん、母の。これは赤ちゃんだった頃の記憶。
『リオンって名前を盗ったのは、あんたなんだから』
その声が、まるで水の底から聞こえてくる。ここ最近はずっと、その声が聞こえる。
気づいたらスラムにいて、十年間も生き延びられたのが幸運だった。でも、赤ちゃんの私に誰がお乳をくれたんだろう? 誰が生き延びさせてくれたんだろう? お礼が言いたいな。ずっと誰かに見守られてたみたいな……そんな感じがするんだ。
それで、五つの歳が転機だった。宝石みたいな紫の瞳をした男の子。その子は「お母さんが病気で死んだ」ってスラムにやってきた。お父さんのことは何も知らないみたいだった。お母さんがいるだけ、いいな。……それだけで勝ち組ってやつじゃない?
私はついに手に入れられなかったものを、男の子は全部持っていた。だけど、名前だけは持っていなかった。「俺は名無しの“お前”なんだ」って。その子は自分で「カイル」って名乗ってたよ。「前世」の名前なんだって。そんな迷信、あるのかな。
汚いスラムからだって、王宮の建物は見えていた。白亜の真っ白な王宮。立派な塔の鐘が時報を打っていた。その音色を聞いて育ったんだもの。
でも、まさか王宮入りするとは思わなかったよね。まるでおとぎの国のお姫様みたいだ。まさかカイルが王子様だなんて、欠片も思ってなかったから、ほんとびっくりだよ。
私はカイルのおまけみたいな感じでくっついてきた。いやあ、今年の冬で凍え死にするかも……なんて憂いていたから運が良かったよ。
それにしても王宮の廊下は、床も壁もつるつるしていて、スラムの泥道とはすべてが正反対だった。歩くたび、誰かに見られている気がする。スラムのときの見守られてるってより……監視されてる気分だ。なんでお前がいるんだって責められてるみたい。自分が居てはいけない場所に入り込んだみたいで、息が浅くなる。
朝の給仕が終わって、厨房に戻る途中。銀のトレイに映った自分の顔が、ほんの一瞬だけ別人に見えた。頬の輪郭が、ゆらいだ。なんの変哲もない琥珀色の瞳。
……あれ? この顔、私の……?
気のせいだ。気のせいに決まってる。鏡なんてスラムにないし、きちんと顔を見たことなんてなかったんだから。でも、夢の中で私の首を絞める「お母さん」はやっぱり琥珀色の瞳をしていた。
「おい、リオン! 下膳、もう行ったのか?」
声が飛んできて、私は慌てて返事をした。
「すぐに行きます!」
上手に立ち振る舞えば、誰にも追い出されずに済む。食器を一つ割っただけで殴られる世界じゃないから、今のところは幸運だ。幸運のはず、なんだ。
……なのに、昨夜も見た。夢の中で、誰かが私の首を絞めていた。「お母さん」が絞めていた。痛くて、息ができなくて。でも、私は泣いていなかった。赤ん坊のくせに、ただ黙っていた。
──声を出したら、殺される気がしたから。
昼下がり。午後の鐘が鳴ると、厨房の手伝いからは一旦解放された。私は裏手の廊下に出て、ひんやりした石の手すりに背を預ける。すると、広場の向こうで剣を振るう少年の姿が目に入った。
「カイル……」
白いシャツの袖をまくって、木剣を構えている。見よう見まねではない。何かを思い出しているような動き。きっと、前世ってやつかもね。とにかく、教わったのではなく、教える側の構え方だ。そういえば、ちょっと前に「剣を教えてやる」って言ってくれてたよね。
カイルの背中が、誰かに重なる。……誰だろう?
胸がざわつく。肩がひとりでに震える。何も怖くないのに、涙が出そうになってくる。
「変なの……」
ぼそりと呟いた声が、誰にも聞こえていないようにと願った。
そして夜。寝具に入ってからが、本番だ。今日もきっと同じ夢を見る。首に手が回る。名前を呼ばれる。違う、「呼ばれる」んじゃない。「問い詰められる」んだ。
『リオンって名前を盗ったのは、あんたなんだから』
水の底から響いてくるような女の声。それが「お母さん」かどうかは、わからない。でも、私のものじゃない声なのは、確かだった。
私はふと、ベッドの端で強く拳を握り込んでいた。掌に爪が刺さって痛いくらい。これ以上この夢を見たくない。でも、どうしてだろう。見たくないのに、どこかで「知りたい」と思ってる自分がいる。
その夜、夢の中で私は大事な産着を見つめていた。すっかりボロボロだけど、これだけは王宮に持ち込んだんだ。
真っ赤な糸で「リオン」と縫われた白い布。その布を、誰かが引き裂こうとしている。
昨夜の声が聞こえる。
『リオンは、私の子よ……』
まただ。首が苦しい。息ができない。
『お前は、この子から、名前を盗った──』
私は、叫ぼうとして、声にならない。目を覚まして首に手を当てると、汗でぐっしょりだ。まるで絞首台から生き延びたあとのように、喉がひりついていた。
窓の外に、ほんの少しだけ夜明けの気配がある。私は、布団の中で小さく息を吸った。
「……ねえ、カイル。私って本当に“リオン”なのかな?」
その問いは、まだ眠っている王子様に届かない。答えが返ってくる日は、きっとまだ、遠い……遠い日のことなんだろう。