第4話 お行儀のよろしいことで
夜明けでまだ眠い目をこすっている。護衛騎士が分厚い扉越しに囁き交わす声でふと目が覚めた。ベッドから滑り出し、足音を殺して扉に耳をそばだてる。
「……なぜ、穢らわしい貧民が格式ある王宮に紛れ込んでおるのだ?」
一人がもう一人に話しかけている声には明らかに侮蔑が混じっていた。
「王太后様の招きらしい。男児の方は、あの紫の瞳が亡き王太子セイラン殿下にそっくりだからと……」
もう一人がそう返事する。
「確かに紫の瞳は王家にしか伝わらないものだが……万が一、億が一の“偶然”ということもある。確定したわけではない」
「そうだな。……だが聞けば、セイラン殿下の名付けなさった本当の名とは別の名を名乗っているそうではないか。しかも本当の名を名乗っているのが……」
途端に、扉の向こうで片方が鎧を軋ませる音がした。
「しっ……!」
そこまでだ、子供が起きる、と騎士たちは会話を打ち切ったが、俺の脳裏には「名」という言葉だけがなぜか違和感の棘として胸に残った。結局、会話はそれだけしか聞き取れなかった。勝手に王宮に連れ込んでおいて、何やら失礼極まりないことを言われているらしいが、怒りは呑み込む。リオンが凍え死にせず、うまい食事を口にできればそれで充分だからだ。
俺は隣のベッドで安らかな寝息を立てているリオンを横目に再びベッドに潜り込んだ。ここに来てからというもの、スラムで散々世話になった枯れ葉がブランケット代わりの固い土寝床ではなく、柔らかなベッドだというのに、やたら眠りが浅い。前世の俺なら、こんな朝には苦い酒をひっかけていたかもしれない。子供の身体なのでそれも叶わない。早く酒が飲める歳になりたいものである。あと十年くらいか。辛抱強く待つしかない。
たっぷりの茹でた小エビを焼きたてのパンに乗せ、緑のディルが散らされた朝食……。食卓に置かれた銀のカトラリーは一点の曇りもなく磨かれ、窓から射し込む朝の光を鏡のように跳ね返している。まったくもって恐ろしい場所だ。
俺は背筋を正し、前世で身体に叩き込まれた礼儀作法の記憶を頼りに、黙々とナイフとフォークを使って食べる。目線の動き、手の運び、咀嚼の速度まで、粗相のないよう気を張った。もっとも、この“敵国”の作法とは微妙に違うかもしれないが、目立って悪目立ちしない程度には見よう見まねでこなしているつもりだ。
対面に座るリオンはというと──口の端にクリームチーズをつけたまま、パンにエビをこれでもかと乗せ、ぱくりと頬張った。
「ん〜っ、うまっ!」
満面の笑みで咀嚼しながら、フォークもナイフも手をつけず、指でパンを折っては口に運んでいる。完全にスラム時代の癖が抜けていない。いや、それ以前に、そもそも正式な食事作法などと知るわけもないか。
そばに控えていた侍女が、軽く咳払いをした。
「こほん」
それだけで部屋の気温が下がったかのごとく、ひやりと引き締まる。リオンはびくっと肩を跳ねさせて動きを止め、俺の方をちらりと見た。
俺はそっと目線で合図を送る。ゆっくり、カトラリーを持つ位置、手の角度、背筋の伸ばし方……できるだけ自然に、模範になるよう意識して動かした。
リオンは目を丸くしてそれを見つめた後、おっかなびっくりフォークに手を伸ばした。けれど、上手く使いこなせずパンを転がしてしまい、小皿の上でエビが跳ね飛ぶ。
「…………ッ」
気まずそうに唇を噛んだリオンに、俺はなだめるよう囁いた。
「大丈夫だ。落ち着いて、ゆっくりでいい」
その言葉に少しだけ顔を緩めて、リオンはもう一度パンを持ち上げた。今度は慎重に、なんとかフォークで口元まで運ぶ。ぎこちなくても、きちんと食べられれば十分だ。
侍女が目を細め、それでいい、とでも言うように、かすかなうなずきをしたような気がした。
朝食を終えた頃、扉が静かにノックされる。中に入ってきたのは、黒い礼服を着た壮年の男だった。細身の体躯に背筋はぴんと伸び、顎の角度一つとっても、貴族社会の面倒な規律という概念を丹念に捏ねて焼成した陶磁器のようだ。髪も短く整えられており、何より、目つきが違った。
「お初にお目にかかります、殿下。王室礼儀作法指南役を拝命いたしました、ダリウス・ヴェストールと申します」
丁寧に礼を取るその動作に、どこか無機質なものを感じた。操り人形めいた正確な仕草には、人間味を感じない。俺はとりあえず、前世で身に染みついた所作をなぞるように、椅子の背から離れ、軽く会釈を返した。
「……カイルです」
「殿下は、亡きセイラン王太子殿下の御落胤にして、王位継承第一位の立場にあらせられます。ゆえに、正しき王宮の振る舞いを、いち早く身につけていただかねばなりません」
淡々とした口調でそう述べたダリウスの視線が、一瞬だけリオンに向いた。リオンは朝食のパンを持ったまま、ぎこちなく止まっている。
「……そちらの方は?」
「彼女は俺の──」
そこで一瞬、言葉が詰まった。「友人」と呼ぶには浅すぎる。「妹」と言うには血が繋がっていない。けれど、「ただの同行者」などと形容する気には到底なれなかった。
「同志です。王宮に連れてきていいと、王太后殿下が」
ダリウスの眉が不愉快そうに動いた。驚いたというより、想定外の異物を目の前にした、という顔つきだった。
「承知いたしました。では殿下、午前の課目は礼儀作法、午後は騎乗訓練、夕刻には──」
つらつらと長い口上を述べられ、耳の右から左へその言葉が通り抜けていくようだった。いや、わざと聞き流している。
「──では、参りましょう。まずは、歩き方からでございます」
歩き方? と一瞬、思ったが、なるほど、王族の歩き方すら型があるというのか。俺は内心で盛大なため息をついた。まるで、全身を鎧で覆われていくような感覚。前世では、好きなように剣を振るい、戦場を駆けた。だが今世は、言葉も、所作も、すべて王侯たる型を身につけねばならないらしい。
「まるで“晒し首”だな」
と、ダリウスには聞こえないように皮肉をたっぷり込めて呟いた。