第3話 母親が二人いますが
翌日、王宮の一室では太陽を模した金のシャンデリアが天井から降り注ぎ、壁には王家の系譜を描いた巨大な油絵が飾られている。王侯の末席ですら足を踏み入れたことのないこの空間に、俺ことスラムで育った少年カイルくんは立たされていた。
対面に立つレティシア王太后は、白いドレスの上に銀糸のショールを羽織り、背筋を伸ばしていた。眼差しに威厳はあるが、母の温もりが宿っているようにも見える。その真偽までは定かではなかったが。
「改めて申し上げます。あなた様は、故・王太子殿下セイラン・アルセヴァ様の唯一の御子にして、妾の実の息子です」
レティシアは、穏やかな口調で語った。
「十年前、ネリーという女が──妾の侍女であり、セイラン殿下の側室候補とされていた女が──あなた様を誘拐いたしました。事実、当時の記録では、セイラン殿下の第一子誕生と同時に、謎の失踪事件が起きております」
「嘘だッ!」
反射的に俺は怒鳴っていた。あまりの怒りに目の前が真っ白になりそうだった。身を震わせながら、振り上げた拳をぶつけるように言葉を吐き出す。
「ネリー母さんは……そんなことをする人じゃない! 俺を拾って育ててくれた。誰よりも優しかった!」
リオンが部屋の片隅で身を小さくしていた。騎士たちが控えていることもあって、俺は今にも捕らえられそうな錯覚に襲われる。けれど、この怒りだけは抑えられなかった。
「アルセヴァ王国の奴らは、嘘ばっかり並べ立てる! スラムで人が死のうが飢えようが見て見ぬふりをして……ネリー母さんが死んだのも、お前らが……!」
「……毒殺したと、おっしゃるのですね?」
レティシアの声がわずかに震えた。その目に、哀しみの色が浮かんだように見えた。
「違うと言い切れるのか? 死ぬ前のネリー母さんは、何度も血を吐いて苦しんでいた。あれが病気だって、誰が決めた! 俺が王子だから都合が悪くなって殺したんだろう!」
俺は勢いで叫んだ。自分でも何を言っているのか分からなくなりながらも、言葉が止まらなかった。
「そもそも、本当に俺が王子だなんて根拠はどこにある! たまたま紫の瞳をしてるだけの孤児を拾って、お前らの都合よく“第一王子”に仕立て上げてるだけじゃないのか!」
その場の空気が一息に凍りついた。俺自身も気づいていた。どれほど無礼な物言いをしたかを。だが今更、退く気にはなれなかった。
するとレティシアは目を閉じ、深く息を吸った。その胸がゆっくりと上下する。そして、息を吐き出すように語り始めた。
「妾は、王太后である前に……母です。嘘を申し上げるつもりは、毛頭ありません」
その声は湖面のように静かだった。
「あなた様が誘拐されたその日から、妾は毎年、同じ夢を見てまいりました。赤子の泣き声が風に消え、残された産着が血で染まっている夢です。探し続け、待ち続け、……そしてようやく、あなた様に出会いました」
レティシアは懐から一枚の布を取り出した。それは色褪せた、だが繊細な刺繍が施された産着の一部だった。
「これをご覧ください。これはセイラン殿下の御子のために、妾自らが縫った産着です。王家の象徴である双頭竜と、紫の瞳を模した貝紫の糸……あなた様の瞳と同じ色をしています」
俺は視線を逸らした。なぜか見るのが怖かった。その紫の瞳をどこかで見たような気がしたのだ。
「……偶然だ」
「“偶然”で、十年前に消えた王子とまったく同じ誕生日を持ち、同じ瞳の色をしている少年が、“偶然”王都のスラムに流れ着いたと?」
「…………!」
それでも俺は前世の敵国アルセヴァの王太后レティシアを睨みつけていた。とにかくアルセヴァに良い思い出がないのだから当たり前である。俺を拷問にかけて辱め、公開処刑した国に、どう好感を持てと?
「それでも、信じられないのであれば、それで構いません。無理に信じろなどと申しません。ただ、妾は……あなた様が生きていたという事実だけで、もう充分なのです」
レティシアの声は涙に濡れていた。目元を拭っても、流れる雫は止まらない。俺はわずかに困惑して口角を下げた。
「どれほど罪深くとも、たとえ一生恨まれようとも、もう一度だけ……あなた様に、会いたかった」
沈黙が落ちた。俺は唇を噛み締め、目を伏せた。思い出の中の死んだ「ネリー母さん」と目の前で生きて「実母」を名乗るレティシア王太后、どちらを信じてよいのか分からなかった。それとも二人揃って嘘をついているのか……。
「リオンは、生まれも育ちもスラムだったよな?」
レティシア王太后が退室した後、俺は部屋の隅っこにうずくまっていたリオンに声をかけた。
「たぶん。気づいたらスラムにいた。両親なんて知らない」
聞けば聞くほど、声は女児のそれだった。ようやく気づいたことに歯噛みする。
「なあカイル、それより、うまい飯を食って元気でも出そうぜ! 難しいことはおいおい考えればいいさ」
リオンは単純に明るいのか、食欲旺盛なのか、この際は判断しかねるところだ。
ちょうど昼時で、俺たちは、侍女がサービングカートで運んできた、ハムと卵をたっぷり挟んだ薄パンに手を伸ばした。いつかネリー母さんが作ってくれた料理を思い出し、涙がこぼれそうになったが、かろうじてこらえた。
◇
その晩、王宮の客間の広すぎる部屋のベッドに横たわりながら、目を閉じられなかった。リオンはすでに隣のベッドで寝息を立てている。だが俺の脳裏には、王太后レティシアの言葉と、ネリー母さんの姿が交互に浮かんでいた。
『お前は強くなるんだよ。私みたいに、無様に死んじゃダメよ……』
五年前の最後の夜、吐血で苦しみながらネリー母さんが絞り出した言葉。ネリー母さんは、なぜか俺に名前を与えず、「お前」と呼んでいた。だから今「カイル」と名乗っているわけだ。震える母さんの手を握って、何もできなかった俺。あの夜、確かに母を喪ったのだ。
「どちらが本当の母なんだ……」
ぽつりと呟くと、扉の外に人の気配がした。そっと立ち上がって扉を開けると、廊下の先にレティシア王太后の姿があった。彼女は、燭台の前で何かを手にしていた。
「眠れぬのですか、殿下」
「その呼び方、やめてくれ」
「では……カイル」
レティシアが初めて俺を名前で呼んだ。思わず目を見開く。
「妾は、あなた様の母になれる自信がありません。ただ、できる限りのことをしたい。……それだけです」
「なれるわけないだろ。俺の母さんは、ネリーだ。ずっと、ずっと一緒にいたんだ……」
「その想いを、否定いたしません」
レティシアはふっと微笑んだ。
「カイル、あなた様の心がどこにあるとしても、妾はあなた様の幸せを祈ります。……それが、母としての誇りです」
俺は黙ってうつむいた。レティシアの言葉が、母親の言葉に聞こえた気がして、喉の奥が熱くなった。
「眠れないでしょう? ミルクと焼き菓子を持ってきました」
「いらない」
そっけなく答えたが、腹の虫は正直に返事をしてしまい、頬がかあっと熱くなった。
「ほら、いただきましょう」
贅沢にバターがたっぷり練り込まれた焼き菓子は、前世、騎士として味わった菓子に似ていて、胸にほろ苦い痛みのような郷愁感をもたらした。小さな祖国は、滅んでしまった。このアルセヴァ王国に滅ぼされてしまった。
その夜、夢を見た。やはり前世の記憶だ。処刑台の上、無様に空を仰いでいたあの瞬間。だが、その夢の中に、見知らぬ赤子の泣き声が混ざっていた。……それは、誰だったのだろうか?
目を覚ますと、いつの間にか夜明けだった。窓の外に朝陽が昇り始める。窓の外をぼうっと見つめていた。信じるかどうかは、まだ分からないが、もう少しだけ真実を知ってみようと思った。俺は一体何者なのかを知るために。