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第2話 御落胤なのです

 ぎい、と車輪が軋むたび、馬車の中で柔らかなクッションが身体を揺らした。革張りの座面は信じられないほど弾力があって、座るたびに沈み込む。窓外を流れていく石畳の通りはどこまでも真っ直ぐで、俺の知っている入り組んだ下町の泥路とは別世界だ。リオンは向かいに座り、目を丸くしたまま口をぽかんと開けている。

 

「なあ、カイル。……いや、殿下?」

 

「やめろ、その呼び方」

 

 思わず小声で睨みつける。馬上した護衛の騎士たちが外で並走しているのが窓からちらりと見え、背筋がこわばった。冗談が冗談で済まなくなる世界が、もう始まっている気がした。


 やがて到着したアルセヴァ王宮。やたらと豪華だが威圧的な回廊を通され、扉の向こうに現れたのは……絢爛な湯殿だった。

 

 純白の大理石に囲まれた十人以上が優に入浴できそうなほど巨大な浴槽。湯面には紅い薔薇の花弁が浮かび、真水が滝のように注ぎ込んでいる。スラムで泥水を啜ってきた俺にとって、清潔な水をたたえた場所は神殿と言い換えてもいい光景だ。

 

「殿下、こちらへ」

 

 侍女たちが銀盆に石鹸とリネンを並べて待機している。俺とリオンは戸口で固まったまま動けなかったが、鎧の騎士が背後から咳払いを一つした。観念して()()切れの服を脱ぐと、真水が足首を撫でてきた。冷たくない。ぬるりとした湯の感触に鳥肌が立つ。

 

 背後で布を鳴らす音。見知らぬ侍女が俺の背を流そうと近づいてきて、慌てて肩をすくめた。

 

「自分でやるから!」

 

 情けない声が裏返った。顔が熱い。リオンはけらけらと笑い、俺の頭を指差した。湯に浸けた瞬間、茶色く濁った泥が出てきた。


 指の腹で頭皮をこすると、いつまでも土汚れが出てくる。何度すすいでも湯が濁ってしまう。どれだけの年月、頭をまともに洗えていなかったのか。

 

 やがて侍女に促され、絹のすべすべしたシャツと新しいスラックスを纏う。肌に触れた瞬間、ふわりと滑る感触に背筋が震えた。腕を動かすたび光沢のある布が光を受けてかすかに艶めく。鏡台に映ったカイル少年は、伸び放題の髪こそ乱雑だが、確かに王子のような格好をしていた。


「その紫の瞳こそ、王家の証なのですよ」

 

 背後の声はレティシアのものだ。

 

「瞳が……証?」

 

 洗いざらしの髪をかき上げると、鏡の中の瞳がぎょろりと紫水晶(アメジスト)めいて光る。これが、アルセヴァ王家の血の色……そう思った途端、鏡像が誰か別人に感じられた。

 

「覚えておきなさい、殿下。貴方様は王位継承第一位にして、セイラン王太子殿下唯一の御落胤。紫の瞳は、その揺るぎない証左でございます」

 

 レティシアはうやうやしく(こうべ)を垂れる。俺は小さく息を呑み、襟元を握りしめた。すると更衣室の戸口で、リオンがぴょんぴょんと跳ねている。

 

「お前だけ王子だったなんて、ずるいぞ!」

 

「俺が選んだわけじゃない」

 

 そう答えながらも、心の底でどこか安堵していた。リオンは変わらずいつものリオンで、俺を他人行儀に扱わない良いやつだ。


「でも似合ってるぜ。髪は相変わらずボサボサだけどな」

 

「そっちこそ綺麗になったじゃないか。身体、ちゃんと洗えたか?」

 

「見ろよ、この肌! まだ白い石鹸の匂いがする!」

 

 リオンは腕を振り回し、侍女を慌てさせた。俺は喉の奥で笑いを漏らす。ここがどれほど眩くても、リオンがいる限り、俺が俺でいられる気がする。


「まさか、本当に女子だったとは……」


 リオンの素っ裸を見てしまった俺は小さくぼやいた。


 ◇

 

 夕刻、レティシアに案内されて小食堂へ連れられる。卓上には銀蓋(クローシュ)が並び、鼻腔をくすぐる強い香りが漂っていた。蓋が上がり、湯気とともに姿を現したのはとろとろになるまで煮込まれた羊肉のシチュー。香辛料が鮮やかに彩り、表面に浮く黄金色の油が蝋燭の灯りを映していた。

 

 前世の記憶が舌の奥で蘇る。かつて騎士の位だったろうと貧しい小国の人間。香辛料を使った料理は贅沢な一品だった。だが今、目の前にあるのはアルセヴァ王家の常の食卓なのだろう。

 

「まさか毒なんて、入ってないだろうな……」

 

 思わず呟いた声は、銀匙に吸い込まれていった。

 

「すげぇ! でっかい肉だっ!」

 

 席の反対側でリオンが大歓声を上げる。深皿を抱えて、スープに浮く肉塊へ豪快に齧りついた。見る間に顔を綻ばせ、頬にソースをつけて笑う。

 

「……どうだ?」

 

「うまい! 夢みたいだ……」

 

 その笑顔に背中を押され、俺も匙を口へ運んだ。久しぶりの温かい食事。舌先で弾ける脂。柔らかくほどける羊肉。痺れるような香辛料の火花……。胸が熱いのは湯気のせいなのか、泣きそうだからなのか分からない。今世の母ネリーと死別してからというもの、まともな食事にありついてなかったはずだ。

 

 リオンが喜んでいるならそれでいい……そう自分に言い聞かせる。けれど、温かい食事を摂って身体に熱が灯り、鍋の底をさらう頃になっても、心の奥が冷え込むようだった。


 立派な晩餐を終え、またもや豪奢な客間へ通された。天蓋付きのベッドはふかふかで、身体が沈むたび羽毛が柔らかく包み込む。リオンは向こう側のベッドで早々に寝息を立てていた。

 

 天井を見上げる。薄い絹帳が月明かりを受け、紫水晶のように淡く輝く。その光が湯殿の鏡で見た自分の瞳と呼応している気がして、目を閉じた。もし、これが人違いだったら? 明日には別の子供と取り替えられて、俺は再び廃棄区へ戻されるのか……?


 寝返りを打ったリオンのベッドがぎしりと鳴った。彼、いや、彼女を巻き込みたくはない。でも、一人では立っていられない。目を閉じても、瞼の裏に羊肉の赤と真水の白が浮かんで離れなかった。明日に目覚めても、ここが夢でありませんように……俺は枕元の薄絹を握り、誰にともなく祈りを込めた。

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