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第1話 スラムのクソ餓鬼

 ちょうどパン屋のゴミ置き場はスラム街に面しているから分かりやすい。そこに打ち捨てられている焦げたパンの耳は、まるで宝石だった。カビていないというだけで、腹を壊す危険性が格段に減る。腹を壊すことはすなわち死を意味していた。綺麗な水が手に入らないスラム街「廃棄区」の住民は脱水症状になったら命取りだ。身体の小さな子供なら大人より危険性が増すのは言わずもがな。


「前世は拷問ののち処刑、おそらくは晒し首か……」

 

 ふと呟くと、パンの焼ける甘く香ばしい匂いが煙突から白煙と共に漂ってきて、きゅうっと腹が鳴った。腹と背中がくっつきそうなほどだ。前世では当たり前に食べられたふかふかのパンが、今世では食べられない。そもそもパン自体が頻繁に手に入らず、ゴミ捨て場の残飯やその辺に生えている草で空腹をしのいできた。


 突然、耳に怒鳴り声が轟いた。パン屋の主人のものだ。


「また来たな、スラムのクソ餓鬼! これでもやるからさっさと行け!」


 言っていることこそ酷いが、パン屋の主人は実は優しさの塊のような人物である。焼きたての薄パンを一枚、こちらに放ってくれた。


「お恵みを、どうもありがとうございます……」


 いかにも弱々しそうに立ち振る舞い、さっさと逃げ去る。こうやってしたたかに生きていくより他ないのだろう。


「ちっ、死なれても気分悪いからよ……」


 体格のいい身体を揺らして、主人が店の裏口へと戻っていく気配がした。


 俺は前世のおかげで会話と計算はできたが、何の不幸か生まれ落ちたこの敵国──アルセヴァ王国の文字の読み書きまではできない。読み書きができなければろくな仕事にも就けない。正直に言えば困っている。身寄りのない孤児を雇おうとする変わり者なんて、そう都合のいい話はないのだ。


 名もないスラムの孤児。そんな肩書さえあれば上等で、俺はよく「クソ餓鬼」とか「ドブネズミ」などと呼ばれていた。もっとも、そう呼ぶ連中だって飢えれば同じ路地に降りてくる。死んだ母からは名前で呼んでもらった記憶がない。名無しなので、騎士であった前世の名「カイル」を名乗ることにしている。父もいない。あるいは俺も、前世の俺が斬った兵士の子供であるかもしれない。そうであるならば因果なことだった。


「おい、カイル、今日は収穫あるか?」


 そんな俺に声をかけてきたのは同い年のリオンだ。擦り切れた上着の下で、肋骨が数えられるほど細い体をさらに小さく折り曲げている。

 

「パン屋の主人が薄パンを一枚くれたから半分やる。あと、塩漬け肉の欠片も一つ拾った」

 

「やった! 分けてくれ」

 

 俺はリオンに向けてちぎったパン切れを放り投げた。リオンの琥珀色の瞳が一瞬だけ輝く。俺の腹も虚無の空洞だが、ここで収穫を分け与えられなければ仲間と呼べるやつは誰も残らない。弱肉強食の世界で、唯一生き残る(すべ)だった。


 パンと肉の欠片を齧ると、冷え切った身体と心に少しだけ熱が灯る。前世と比べて栄養失調のせいですっかり味覚が衰えてしまい、まともに味など分かるわけもなく、美味いかどうかも判断がつかないが、胃に無理やり捩じ込む。


「なあ、カイル」


 隣で地べたに座り、パンにありついていたリオンの瞳がこちらをじっと見つめた。


「どうした」


「今年の冬はどうやって越そうか」


 それは切実な問いだ。冬が来たら野晒しの子供など凍死する他ない。


「さてな。前の冬は森の外れで枯れ葉をかき集めてなんとかやり過ごしたが……」


 リオンがうつむいて、ぽつりと呟く。


「こんな生活、いつまで続くんだろうな」


 それは俺も同意見だ。


「俺が剣を教えてやる。いつか傭兵にでもなって食いつなごう」


 そう答えると、リオンは驚いたようにこちらを振り向いた。


「剣が分かるのか!?」


 王国直属の騎士ではなく、金で使い捨てられる傭兵は、時に残酷な扱われ方をする。要は金で雇った捨て駒だ。それでも、いつだろうと死に直面している「スラムの餓鬼」よりかはだいぶマシな生活だろう。


「多少なりとも……な」


 前世、騎士という名の人殺しになり、今世また人斬りとして暮らしていくのは変わらないらしい、と心の中で苦笑する。地獄へなら、とっくに堕ちていた。それが今この生き方そのものではないか。


 その日の夜、廃棄区の裏通りは吐く息が白むほど冷え込んだ。石畳の隙間には雨水が溜まり、じっとしていると足の裏から骨の芯まで凍えそうだった。


 俺とリオンは、半壊の倉庫跡をいつもの寝ぐらにしている。空は見えるが屋根の一部が残っていて、雨露はしのげる。風さえ吹かなければ、どうにか眠れるだけのいくらかマシな場所だ。


「剣って、どうやって教えてくれるんだ?」


 リオンが薪代わりの板切れを撫でながら尋ねてきた。腹は空いているはずなのに、未来の話になると嬉しそうに笑うのが、俺にとっては逆に痛かった。


「明日から、正午の鐘が鳴ったあとに広場の外れに来い。飯集めのかたわらで少しずつ教える。まずは構え方からだ」


「分かった!」


 リオンは無邪気に笑った。今ここが戦場ではないことを改めて感じる。俺は焚き火にくべた()()布をじっと見つめた。燃える布の焦げた匂いが、なぜか拷問部屋の鉄の匂いと重なって鼻を刺した。


 前世の記憶はときおり、こうして不意に蘇る。とくに眠る直前、意識が沈んでいくときに。それは夢というより、もう一度その場に戻るような感覚だった。


 松明のゆらめき、どこから入り込んだのか、その明かりに惹かれて周りを舞っている羽虫。俺はそれに等しい存在ではなかったか。拷問にかけられ、火傷と血に汚れた身体で王の名を繰り返し心の中で祈るように叫び、ついに処刑台に立って陽の光を見上げ……そして、斧が振り下ろされた瞬間。


 俺は、死んだ。そして今、ここにいる。地べたを這い、焼けたパン耳を拾い、仲間のためにパンをちぎり、これから剣を、人の殺し方を教える。


「……せめて、リオンが剣で生き残れたら、それでいい」


 焚き火の残り火がぱちんと弾け、リオンが眠る方をちらりと見る。すうすうと小さな寝息を立てている彼は、スラムで生きるには少々優しい子だった。


 その翌日、薄雲のかかった昼の空の下で、俺は広場の片隅にリオンを立たせ、折れた箒を渡して構えさせていた。


「まず、(つか)を握る重心。間違うと斬られる前に取り落とすぞ。足の位置は腰と肩幅をそろえろ」


「はいっ!」


 必死なリオンを見ながら、ふと笑みをこぼした。そんなときだった。広場の向こうから、ふいに馬車の車輪の音が近づいてきた。こんな場末の広場に、馬車など滅多に来ない。物好きな貴族か豪商か。


「……誰だ?」


 人影が馬車の中から出てくる様子を俺は怪しんで見守った。


「その紫の瞳……間違えようもない、あの方のもの……!」


 そう呟いた人影は女人だった。やがてその女人がその場で膝を折って座り込み、嗚咽を漏らし始めたのを、俺はひたすらに困惑して見つめていた。


──アルセヴァ王家の双頭竜。

 

 拾った貨幣でしか見たことのない紋様が、馬車に描かれている。ここが寂れたスラムだということを、一瞬で忘れそうになるほど非現実的な眩しさだ。


 銀の鎧をよろった男が一歩、石畳を鳴らして進み出る。

 

「孤児の少年──いや、名もなき王子」

 

 全身に冷水を浴びせられたように、心臓が跳ねた。女人が膝を折って俺の視線の高さまで身を下げた。

 

「ご無礼をお許しください。(わたくし)はこのアルセヴァ王国の王太后レティシアと申します」

 

 王太后が汚れたクソ餓鬼に頭を下げている? 見世物か何かだろうか、と心に疑いがちらついた。

 

「……人違いだ」

 

 喉が震える。声が掠れていた。が、レティシアは静かに首を振る。

 

「あなた様は今は亡きセイラン王太子殿下が遺された唯一の御落胤にして、王位継承第一位であらせられます」

 

 背後で鎧の騎士たちが片膝をつき、胸に拳を当てる。広場に積もった土埃が舞い上がり、朝陽の中で金粉のように散った。何が起こっている? 俺は拾い物の靴を踏み締め、後ずさる。歩幅は逃げ腰になっているそれだった。


「迎えに参りました、王子」

 

 完全に同じ台詞を、両脇の騎士が重ねた瞬間だった。頭上から鐘の音が響く。午後一時の時報を告げる鐘だ。口の中が、焼けた鉄の味で苦い。王子? 俺が? 冗談ではない。王都の張り紙にすら名前の出ない路地の虫ケラが「殿下」? 場違いにも程がある。

 

 背後でリオンが息を呑む音が聞こえた。おそらくリオンは半分も理解していない。ただ圧倒的な権力の匂いに、本能的に怯えているのだろう。


「さ、殿下。このような汚い場所とは、あなた様は不釣り合いです。我らと共に参りましょう」


 今まで暮らしていた馴染みのある場所をけなされて、すっかりレティシアに反感を持ってしまった。


「……嫌だと言ったら?」


「困ります」


 レティシアは眉を下げる。


「リオンを一緒に連れて行けるなら、俺は行く」


「そのような……ご友人を?」


 リオンを一瞥した騎士が明らかに困惑した様子で身じろぎし、鎧をがちゃりと小うるさく鳴らした。


「そうだ。俺を連れて行くならば、こいつも一緒だ」


 リオンは、何度も窮地を助け合った、今世の友だ。このゴミ溜めを生き抜いてきた同志だ。こればかりは譲れない。いっそうレティシアを睨みつけると、ようやく折れたようにうなずいた。


「……承知しました。その()()は、王宮の雑用見習いにでもいたしましょう」


「……少女?」


 俺は眉を跳ね上げた。リオンが(おな)()だと勘違いされているからだ。確かに痩せこけていて弱そうではあるが。


「……? 紛れもなく女子でしょうに」


 俺の混乱をよそにレティシアは言葉を継ぎ、汚れるのも躊躇わずこちらに手を差し出す。


「それでは参りましょう、名もなき殿下。……アルセヴァ王宮へ」


 震えるリオンの手を引き、恐る恐るレティシアの手を取った。


 だがこれは、アルセヴァ王国第一王子カイルとしてのすべての始まりにすぎなかったのである。

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