最終章「こじらせは、終わらない——けど、前に進む」
梅雨明け前、重たい雲の隙間から、淡い陽が差し込む。
「こじらせルーム」が最後に使われてから数日。
美術室の鍵は返却され、白いイーゼルだけがぽつんと残されていた。
誰もいなくなった部屋。
けれど、その“誰もいない”という事実が、少しだけ心をあたためた。
——あの日、たしかにみんなで、ここにいた。
その後、みんなの日常はちょっとずつ、だけど確実に変わっていった。
秋津遼介は、相変わらずぶっきらぼうで、感情を表に出すのが苦手だったけど、
クラスの誰かがちょっと元気なかったとき、
不器用に声をかけるようになった。
その後ろには、伊佐坂がちゃっかりくっついて、フォローする。
「お前、最近“人間力”上がってね?」
「そういうこと言うから減るんだよ」
——でも、その会話の温度は、確実に変わっていた。
伊佐坂笑美は、久しぶりに筆を持った。
描きかけのキャンバスに、昔の後悔を少しだけ塗りつぶすように。
そして、新しい色を混ぜていくように。
「好きになったこと、なかったことにはできないから」
そうつぶやいた笑美の顔は、妙にさっぱりしていた。
中嶋ケンゴは、密かに始めていたラジオ配信の中で、
「“恋バナ供養室”って知ってる?」と冗談めかして話し、
「実は俺も、ちょっとだけ痛かった」と笑った。
その声は、どこか凛としていた。
藤野凪は、依然としてミステリアスで知的で、
でも「誰かを分析する」よりも「誰かの話を最後まで聞く」方を選ぶようになった。
「痛みの比較に意味はない」と、言葉で語らなくても。
彼女の仕草は、以前よりもやわらかくなった。
そして——水城ほのかは、
あの日「終わらせた」と言った想いを、本当に“過去”にした。
自分の気持ちにラベルを貼って他人事にしない。
ちょっとずつ、自分の人生を、自分の言葉で語ろうとし始めた。
「また誰かを好きになるのが怖いって思う日も、あるかもしれないけど」
「でも……次はもう、逃げないつもり」
そう言って笑った彼女の目は、まっすぐだった。
季節は変わって、夏の終わり。
教室の掲示板に、一枚の張り紙が貼られた。
【新企画:こじらせカフェ、開店準備中】
恋バナ? 愚痴? ポエム?
「ちゃんと痛い」ってことを、笑いながら話せる場所。
興味ある人、放課後、美術室の前までどうぞ。
——発起人:こじらせルーム旧メンバー有志
こじらせは、簡単には終わらない。
誰かを好きになって、うまく伝えられなくて、意味もなくすれ違って。
心のどこかに残った「未消化」の感情たちは、きっとこれからも繰り返す。
でも。
それを、ひとりで抱えなくていいと知っているだけで。
それを、ちょっとだけ笑って話せる誰かがいるだけで。
人は、前に進める。
——物語は、終わらない。
こじらせながらも、生きていく。
〈完〉