第6章「伊佐坂笑美、過去をえぐられる」
翌朝の教室。
蒸し暑い六月の空気が、窓から流れ込んでくる。
けれど、その日いちばん息苦しかったのは、湿気ではなかった。
「……水城、今日休みか」
秋津が教室のドアをくぐりながらつぶやいた。
誰も返事をしなかった。
藤野凪も、昨日の発言が嘘みたいに小さくなって席に座っている。
中嶋ケンゴは「な、なんか地雷踏んだ感あるよな」と落ち着かない。
そして——伊佐坂笑美は、普段通り席にいて、普段通り教科書を開いていた。
ただ、その「普段通り」があまりにも完璧すぎて、逆に浮いていた。
「なあ、伊佐坂」
秋津が呼びかけると、彼女はゆっくり顔を上げる。
「……なに」
「昨日の水城のこと、なんか知ってんのか」
伊佐坂はほんの一瞬、目を伏せた。
「……知らないよ。知ってるのは、あいつが“いつも他人の物語ばかり集めて、自分のは全然語らない奴だった”ってことくらい」
「え?」
「水城が“こじらせルーム”を作ったのって、たぶん、他人の感情を見てれば自分の痛みはごまかせると思ってたからじゃない?」
その言葉には毒があった。
けれど、どこか自己投影のような影もあった。
秋津が眉をひそめる。
「お前、言い過ぎじゃねえか」
「……そうかもね」
伊佐坂は淡々と答える。
でも、その手は小さく震えていた。
そして放課後。
「こじらせルーム」の集まりは中止になったはずだった。
けれど、伊佐坂笑美は一人、美術室にいた。
椅子に腰掛けて、何も描かれていない画用紙をじっと見つめている。
——本当は、一番見られたくなかったのは、自分だった。
「……“あのとき、なにも言えなかった”って、みんな言うけどさ」
彼女はぽつりとつぶやいた。
「私なんか、“あのとき、言いすぎた”側だったんだよね」
画用紙を見つめたまま、記憶のフラッシュバックが始まる。
あの日——中学三年の春。
演劇部で一緒だった彼に、伊佐坂は好意を抱いていた。
明るくて、バカで、でも演技になると真剣で、台詞を合わせる時間がいちばん楽しかった。
けれど彼が別の女子と付き合い始めたとき、伊佐坂は笑って言ってしまったのだ。
「やっと、あんたに釣り合う人が見つかったね。……ずっと、私じゃ釣り合わないって思ってたから、安心した」
冗談めかして、飄々と。
本当は、泣きそうだったのに。
それっきり、彼とは口をきかなくなった。
自分から壊しておいて、今でも後悔だけが残っている。
「“あのとき、黙っていれば”なんて、今さら思ったって意味ないのに」
伊佐坂はポケットから、くしゃくしゃのメモを取り出す。
中学時代、彼からもらった台本の一部。
「俺、お前の言い方、ちょっとだけ怖いけど、嫌いじゃない」
今でも、その言葉だけが、彼女の胸に刺さっていた。
そのとき、美術室の扉がそっと開いた。
「……来ると思った」
入ってきたのは、藤野凪だった。
彼女は、静かに言った。
「伊佐坂さん、あなたも……誰にも言えてない“後悔”があるんですね」
伊佐坂は、目を逸らした。
「……私みたいなのが“こじらせ”とか言うの、ちゃんちゃらおかしいでしょ」
「いいえ。伊佐坂さんは、こじらせの中でもいちばん繊細で、いちばん不器用だと思います」
「……なにそれ、嫌味?」
「本気の褒め言葉です」
そして、凪は言った。
「水城さん、明日、また来るって」
「……へえ」
「きっと、“終わらせに”来るんだと思います。自分のこじらせに、ピリオドを打ちに」
伊佐坂は静かに目を閉じた。