第4章「藤野凪、好きだった人の名前」
「……じゃあ、始めます」
放課後の美術室。
スクール机をステージ代わりに並べた即席舞台の上に、藤野凪が立っていた。
うつむきがちだった彼女の声が、再現劇の幕開けとともにわずかに変わる。
震えていたはずの声に、かすかな覚悟が混じり始めていた。
「これは……去年の夏の話です」
彼女は語り始めた。
その声は静かで、そしてどこか切実だった。
場面は中庭。ベンチに座る男子と、それを遠くから見つめる少女。
「セリフ、私が言います。相手役……お願いします、秋津くん」
「え? 俺?」
「凪さん指名入ったー!」
「おいケンゴ、うるさい」
俺は観念して立ち上がり、彼女の前に座る。
凪は深く息を吸った。
「……わたし、ずっと、あなたのことを見てました」
最初の一言。
セリフだとは分かっていても、まっすぐな目で見られて、思わず息を呑む。
「教室で笑うところも、眠そうな朝の顔も、体育祭でちょっと頑張ってた背中も……」
「…………」
「全部、全部……目で追ってました」
凪の声がだんだん震えてきた。
「でも、私には……その資格なんてなかったんです」
「……どうして?」
俺は“相手役”として返す。
「……だって、あなたには、もっと似合う人がいると思ったから」
静かに落ちるその言葉は、きっと彼女が何百回も心の中で反復した台詞なんだろう。
「だから私、何も言わずに、勝手に諦めた。誰にも言わずに、笑って、泣いて、それで終わったつもりだったのに」
彼女は一歩、俺に近づいてきた。
「……今も、思い出すたびに、胸が苦しくなるんです。あのときの自分に、言ってやりたい。“ちゃんと、伝えてあげて”って」
言葉が、止まった。
場に、静寂。
やがて——凪は、小さく笑った。
「はい、終わりです。これが、わたしの“こじらせた過去”です」
全員、言葉を失っていた。
ただの演劇のはずだった。
なのに、それはまるで、傷口にそっと触れられるような、優しくて痛い時間だった。
「……でさ」
沈黙を破ったのは、伊佐坂だった。
「その“好きだった人”って、結局誰なの?」
凪は、少し迷った後に、ぽつりと答えた。
「……同じクラスの人。いつも、教室の一番後ろで窓の外ばっか見てる男子」
「……ん?」
全員の視線が、俺に集中する。
「ちょっ、まさか——」
凪は、そっとこちらを見て——
ほんの少しだけ、恥ずかしそうに、でもはっきりと。
「……秋津くん、です」
時が止まった。
俺も、ケンゴも、伊佐坂も、そして——水城も。
誰もが声を失ったまま、凪の言葉が、空気を変えていた。