第1章「はじまりは屋上で」
春。まだ肌寒い風が吹く三月の終わり、俺は屋上でぼんやりと空を眺めていた。
チャイムの音が遠くで鳴る。昼休みが終わるのだろう。けれど俺は戻らない。教室に戻っても、座っているだけの空間が待っているだけだ。誰も話しかけてこないし、俺も話しかける気はない。
恋なんて、もう二度とするもんか。
そう心に決めたのは、ちょうど一年前の春。ある告白がすべてを変えた。あの時、俺が何も言えなかったせいで、何もかもが壊れた。以来、俺は人と距離をとるようになったし、なにより「感情」を持つことが面倒になった。
——そんな俺の背後で、カチャリと音がした。
振り返ると、屋上の扉が半分開いていて、そこにひとりの少女が立っていた。
長い黒髪に、整った顔立ち。制服のスカートは風に揺れ、手には小さな包みが握られている。
目が合った。彼女は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、次の瞬間には無表情に戻り、俺の隣へと歩いてきた。
「……ここ、いつもは誰もいないのに」
「俺が先にいたんだけど」
「まあ、いいや。今日は私も、ここでお昼食べるって決めてたから」
彼女は俺の隣に座り、包みを開いた。中身は、コンビニのおにぎりとサラダチキン。まるで病人みたいな食事だと思ったが、口には出さなかった。
「……名前、聞いてもいい?」
「秋津。秋津涼。二年C組」
「へえ。私は水城ほのか。二年B組」
水城——どこかで聞いた名前だった。たしか、去年の学年末あたりに騒ぎになっていた女子だ。教師との関係がどうとか、噂話ばかりが先行していた。
「……あのさ、変なこと聞くけど」
「何」
「失恋って、どうすれば終わるのかな」
唐突だった。その口調には感情がこもっていなかった。まるで、壊れた人形みたいに。
「終わらせる必要あるのか?」
俺はそう答えた。冷たく聞こえたかもしれないが、本心だった。
「あるよ。じゃないと、次に進めない」
水城は小さく笑って、それから言った。
「私ね、恋を間違えたの。連隊を。全然だめな人を“推し”にしてしまって、しかも本気で好きになっちゃって」
「“推し”って……それ、恋愛対象のこと?」
「うん。連隊——“恋愛対象”って書いて、連隊。私の中ではそういう分類なの。意味わかんないでしょ?」
「……まあ、わかるような、わかんないような」
「私は、間違えたの。あの人じゃなかった。もっと早く気づけばよかった。でも気づいた時には、もう“好き”って気持ちだけが残ってて……どうにもできなくなっちゃった」
彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。でも、彼女はそれを拭こうともしなかった。
「ねえ、秋津くん。……あなたは、誰を“間違えた”の?」
俺はその言葉に、一瞬だけ息を呑んだ。
「——誰も。間違えたんじゃない。俺が、何も選べなかっただけだ」
水城は黙って頷いた。
その日の昼休み、俺たちはそれ以上言葉を交わさなかった。ただ、風の音だけがずっと耳に残っていた。
だけど——この日を境に、俺の“こじらせた日常”が少しずつ崩れていくことになるとは、まだこの時は知らなかった。
それから数日、俺は昼休みに屋上へ行くのをやめた。
理由は簡単だ。水城ほのかがいたからだ。彼女は毎日のように、同じ場所で同じコンビニ食をつまんでいた。何を話すでもない。ただ空を見て、風に吹かれ、たまに呟くように意味のわからない言葉をこぼす。
「恋は病気みたいなものだから。誰かに伝染したら治るって、どこかで聞いたことあるの」
「推しが尊すぎて現実に戻れない。……これって、詰んでない?」
「好きな人が夢に出てくるのって、地獄だよね。だって起きたらもういないんだもん」
まともな昼休みを過ごすには、少し情報量が重すぎる。
だから、避けた。単純に。
……はずだった。
「秋津くんって、逃げるの得意そうだよね」
ある日、下駄箱で唐突に声をかけられた。顔を上げると、水城がいた。制服のまま、まっすぐに俺を見ている。
「……なんだよ、いきなり」
「屋上、来なくなったでしょ。別に、来いって言ってるわけじゃないけど。あれだけ偉そうに“終わらせる必要あるのか”って言っといて、逃げてるの、ちょっとださいかなって」
ぐさりと刺さった。別に偉そうに言ったつもりはなかったが——そう聞こえたのなら、仕方がない。
「……じゃあ、お前は何がしたいんだよ」
「んー……逃げてる人を、集めてみたいと思って」
水城は言った。
「逃げてる人、こじらせてる人、恋に負けた人。そういう人たちを集めて、ちょっとした“治療ごっこ”しようと思ってるの」
「治療……?」
「恋の後遺症って、放っておくと重症化するんだよ。だから、そういう人たちと一緒に話したり、笑ったり、泣いたりして……少しでも楽になればいいなって」
「それ、まるで……」
「保健室みたいでしょ? でも、心の方ね。恋の応急処置ルーム」
彼女の表情は冗談とも本気ともつかない曖昧な笑みだった。けれど、どこか切実だった。
「……興味ない?」
俺はしばらく沈黙して、それからポツリと答えた。
「あるわけない。そんな集まり、気持ち悪い」
「だよねー」
あっさり流された。その反応に、逆に少し戸惑った。
「でも、きっと来ると思ったよ」
「は?」
「秋津くんみたいな人ってね、自分の傷に気づいてるから、ちゃんと誰かに会いに来れるの」
水城はにこっと笑った。その笑顔はまるで、風のない水面みたいに不自然なくらい静かで、でもどこか優しかった。
——翌週の金曜日。俺はなぜか、屋上ではなく、旧校舎の一角にある使われていない美術室に立っていた。
扉には手書きの紙が貼られていた。
《こじらせルーム 入室自由・退室自由・心の安静、保証なし》
やっぱ帰ろうかとドアノブに手をかけたとき、中から声がした。
「入っていいよ。秋津くんでしょ?」
声の主は——水城ほのか。
扉を開けると、中には彼女のほかに、二人の生徒がいた。
一人はショートカットのクール系女子。机の上に足を投げ出し、無言で窓の外を見ている。
もう一人は派手な髪色の男子。テンション高めな見た目だが、手元には破れた手紙が散乱している。
「ようこそ、こじらせルームへ」
水城が、にっこりと笑った。