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第八十七話 もう、大丈夫

 空気が髪を撫でる。

 茶色い大地は荒れ果てており、そこには植物さえも根付けない。

 無味無臭なここはミファレト荒野。

 この地で二人と二人は出会ってしまう。

 その内の一人は伏せており、赤い水たまりの中でピクリとも動かない。

 彼女は敗者だ。頭部を壊され、右足を握りつぶされた。

 生死は不明ながら、だからこそ一刻を争う。

 残された者として、ここからはアゲハの出番だ。

 二色の長髪を揺らしながら。

 右手にアイアンダガーを握りながら。

 覚悟と共に前へ進む。砂埃が顔に当たろうと、足を止める理由にはならない。

 立ちはだかる敵は仁王立ちだ。笑みさえ浮かべており、アゲハの接近にも怯まない。


「魔眼は使わないでやる。あっちの死にかけより強いって言うのなら、考えてやるよ」


 余裕な態度は見栄などではない。ユーカリを倒した実績がそうさせる。

 その姿は勇ましく、その体躯は巨人族のように長身だ。


「どいて、って、言ってるのに……」


 交渉は失敗だ。

 その先へ向かうためには、眼前の魔女を倒すしかない。

 漏れ出る闘気に殺気を織り込みながら、アゲハは加速と共に斬りかかる。

 鎧ごと腹部を切り裂くための横一閃。えぐるような斬撃は鋭く、鍛錬の成果が見て取れる。

 そうであろうと、届くかどうかは別問題だ。


「腰が引けてるね」


 魔女の名前はタイガー。巨体でありながら、この場では誰よりも素早い。

 そうであると裏付けるような後退だ。移動距離は半歩にも満たないが、短剣の刃を避けるだけなら事足りる。

 挑発紛いの発言に対して、アゲハは攻撃の手を緩めない。その後も一歩、二歩と歩み寄りながら、足の稼働とは比較にならない速度でアイアンダガーを振り回す。

 残念ながら、その全てがかすりもしない。

 タイガーは刃の軌道を完全に見極めており、最小限の動作で避けきってみせる。

 その結果がこれだ。


「ほらよ」


 重鎧から伸びる腕は丸太のように太い。分厚い筋肉がそう感じさせるのだが、握られた拳はもはや凶器だ。

 次の瞬間、アゲハは引っ張られるように吹き飛ぶ。長すぎる滞空時間が飛翔距離を物語っており、それほどの威力で殴られた。


「う! がはっ」


 穴が空いたように、腹が痛い。

 鉄の味は吐血であり、激痛と不快さが思考をかき乱す。

 吹き飛ぶ過程で短剣を手放したのだろう。右手は何も掴んでおらず、両手で腹部を押さえずにはいられない。

 ここがどこで、自分が何をしていたのかさえ失念するほどの鈍痛だ。

 アゲハは涎と血液を吐き出しながら、いつまでも悶え苦しむ。そうするしかないのだが、近づく足音には耳を傾けられた。


「進んだ分以上を押し戻されたな。お仲間を助けるんじゃないのかい? お、おー、なんだ、立てるじゃないか」


 タイガーの眼前で、アゲハはゆらりと起き上がる。口元は汚れたままながらも、痛がる素振りはもう見せない。

 折り紙。触れるだけで傷を癒す天技。魔法と異なり魔源を消耗しない点は優秀ながらも、治療のためには直接触れなければならない。

 自身を治す際はデメリットが無いに等しいため、戦線復帰は迅速だ。


「ごほごほ……、邪魔、しないで」

「馬鹿言うんじゃないよ。ここは戦場で、オレ達は敵同士。だったら……、後はわかるだろう?」


 意地を通すためには、勝つしかない。

 タイガーはそう主張するも、この状況下では正論だ。

 二人の年齢差は、親と子ほど離れている。

 アゲハは二十四歳。

 対して、この魔女は四十代半ばだ。

 眼前の敵が年長者であり強者だからこそ、アゲハの要望は届かない。

 ならば、立ち向かうまでだ。


「あなたを……倒す」


 アゲハの決意表明は、戦闘再開の合図だ。

 武器を失ったが戦意までは手放していない。右手をギュッと握ると、対戦相手に歩み寄る。


「おう、受けて立つぜ」


 タイガーの気力も十分だ。

 手を伸ばせば届く距離ながらも、この魔女は身構えない。先ほど同様に、先手を譲るつもりだ。

 ゆえに、アゲハは腹部目掛け殴りかかるも、次の瞬間、その光景には目を疑ってしまう。

 その鎧はびくともしない。色褪せ、擦り傷まみれのそれは、そういうデザインではなく劣化した結果だ。

 それでも傷つけられないばかりか、眼前の巨躯を揺らすことさえ叶わなかった。

 一方で、アゲハは拳に痛みを感じている。鉄よりも硬い板金を力一杯殴ったのだから、当然と言えば当然だ。


「うぅ……」

「ふん、この程度かい?」


 格付けが完了してしまった。

 後ずさるアゲハを見下ろしながら、タイガーはつまらなそうに目を細める。

 速さ。

 肉体の強度。

 防具の頑丈さ。

 その全てで魔女の圧勝だ。

 ましてや彼女は手の内を一切晒していない。それでも優劣を示せた以上、ここからは一方的な蹂躙だ。


「暇つぶしにもならないね。ほら、お手本を見せてやるよ」


 殴られたから殴り返す。

 たったそれだけの行為ながら、結果は残酷だ。

 仰け反りもしなかったタイガーとは対照的に、アゲハは地面に叩きつけられた。

 回避も防御も間に合わない。受け身すらも不可能だ。

 長身から繰り出される、振り下ろすような打撃。それがアゲハの顔を真上から叩いた結果、鼻骨の骨折に留まらず、脳震とうを誘発する。

 こうなってしまっては、立ち上がることなど不可能だ。

 意識は完全に混濁しており、激痛と吐き気が彼女を襲う。

 魔物を狩って強くなろうと、アゲハはただの日本人だ。地球人とも言い換えられる。

 この世界への転生は、おおよそ半年ほど前。

 原因は火事に巻き込まれたから。大学中退後も済み続けたアパートが全焼した際に、彼女も息を引き取った。

 その人生は二十四年で幕を閉じるも、その前後で性格が変わったわけではない。

 極端な人見知り。他人からの視線に恐怖心すら抱くほどゆえ、日常生活は苦痛の連続だった。

 父親はいない。そういう出生だからだ。

 つまりは、家族は母親だけ。

 しかし、大学生活が二人を遠ざける。アゲハがそれを望んだ結果であり、あえて母親から離れた。

 娘として、彼女は唯一の肉親を嫌っていた。

 母親は仕事を優先するあまり、帰宅は毎日遅かった。

 親子揃っての大き過ぎる胸も、コンプレックスでしかない。

 それでも今は、感謝している。

 大学の費用だけでなく、中退後も仕送りは継続された。

 豊満な乳房に関しても、恩人の視線を釘付けに出来た。

 自身の恵まれた境遇に今更ながらに気づくも、時すでに遅い。

 ここはウルフィエナ。地球とは似て非なる惑星だ。世界そのものが異なる以上、母親との再会など果たされるはずもない。

 それでも娘として、切に願う。

 叶うのなら、感謝の言葉を伝えたい。

 ありがとう、と。


「わたしは、まだ……」


 諦めない。

 錯綜する意識の中、治療が間に合う。

 チュニックの長袖で鼻血を拭きながら、アゲハはよろめくように立ち上がってみせる。

 その意気込みには、魔女も唸るしかない。


「へ~、根性あるな。回復魔法を使った素振りはなかったが、まぁ、なんでもいいさ。だけどね、おまえさん弱すぎないか? ははーん、わかったよ。あんた、切り札なんだろう? 魔眼に抗えるなんて、とんでもない逸材だからね。だけど、戦う力までは持ち合わせていない、と。さっきの嬢ちゃんが護衛ってところか。うんうん、だったら、合点がいくね」


 的外れな指摘だが、そう思いたくなるほどには対戦相手が脆い。

 以前と比べれば、アゲハは劇的に成長した。フルマラソンどころか百キロメートル以上を走れる体力はその証ながら、眼前の魔女はそれ以上。ユーカリが敗れた時点で、残念ながら八方塞がりだ。

 それでも、屈しない。

 あるいは、単なる自暴自棄か。

 勝てないことは、理解している。

 ユーカリの救助も絶望的だ。

 逃げることさえ叶わない。

 だったら、前へ進むしかない。

 体のあちこちが痛む中、アゲハは右足を前へ進めると同時に、右手に青い炎をまとわせる。

 その姿と謎の能力には、タイガーも驚きを隠せない。


「なんだい、それ? フレイム? いや、違うね」


 深葬。物質を塵一つ残さず燃やし尽くす。人間には効果がないのだが、追い込まれた以上、あらゆる手を試すしかない。

 もとより両者は離れておらず、たった数歩で到達だ。

 手を伸ばせば届く相手へ、振りかぶるように殴りかかる。

 もしも、青い炎が人間を燃やせるのなら。

 もしも、その拳が当たるのなら。

 逆転勝ちはありえた。


「遅すぎる」


 可能性が潰えた瞬間だ。

 青い軌跡を描きながら、拳が空を切る。

 当然だ。巨体はそこから移動しており、現在地はアゲハの右隣。二人が他人同士ならばすれ違うのだろうが、現実は異なる。

 これは、終わらせるためのダメ押しだ。タイガーは即座に向き直すと、靴底を押し付けるように右足で蹴とばす。

 吹き飛ばすように。

 人体を破壊するように。

 体重を乗せるような一撃ゆえ、破壊力は相当だ。

 そうであると裏付けるように、アゲハは大地と激突しながら転がるように遠ざかる。

 最終的には停止するも、彼女も死体のように動かない。

 決着だ。

 蹴った本人は当然ながら、遠方から見守るもう一人の魔女も息を吐く。

 もっとも、アゲハに関しては生死の確認が必要だ。


「念のため、とどめを刺しておこうかね。はぁ、楽しい時間もこれでおしまいか。後方支援なんて、ただの貧乏くじじゃな……」


 タイガーが歩き出したその時だった。

 ここは、見渡す限りの荒野だ。進行方向には動かなくなった敗者が伏しており、魔女はそこを目指すつもりでした。

 しかし、第三者がそこに立っている以上、タイガーは足を止めずにはいられない。


「誰だい?」


 もちろん、この問いかけは届かない。

 それは同時に、彼らのやり取りも彼らだけのものだ。


「大丈夫ですか?」


 少年の声が、アゲハを包み込む。

 本気で心配しているのだろう。腰を屈め、手を伸ばすも、傷だらけな彼女に触れられない。

 着衣はいつも通りの上下、緑のカーディガンと黒い長ズボン。大きなリュックサックは傭兵の必需品ながら、一人旅ゆえスカスカだ。

 灰色の髪は短く、その顔は年齢の割にはあどけない。

 その顔が青い理由は、疲労ではなく不安だからだ。

 それほどに、アゲハの姿は痛ましい。

 茶色のチュニックはあちこちが破れ、赤く染まっている。

 黒いズボンにも穴が空いており、砂汚れのせいで元の色がわからない。

 この少年を最も怯ませた要因は、黒髪の変色だ。現在進行形で青色が減少しており、つまりは元に戻ろうとしている。

 力尽きた結果なのか?

 意識を失っただけなのか?

 答え合わせは、アゲハによってもたらされる。


「うん、平気、だよ。もう、大丈夫。エウィン、さん……、エウィンさん!」


 感情が爆発した瞬間だ。

 怖かった。

 殺されるかと思った。

 守りたかった。

 守れなかった。

 再び、会いたかった。

 こうなってしまっては、我慢など出来ない。

 大きな瞳から、多量の涙があふれ出る。

 体が痛むことなど失念して、少年にもたれかかって嗚咽をこぼす。

 新たな奇跡の到来だ。

 涙が頬を伝い、こぼれたタイミングだった。祝福するように、雫が光の粒子へ置き換わる。

 これこそが神様からの贈り物だ。

 アゲハは知らない。

 エウィンも知らない。

 そうであろうと、不具合は何一つ存在しない。

 光の粒子は意志を持つように、寄り添う二人を目指す。

 アゲハが転生の際に願った想いは一つ。

 臆病な自分を変えたい。

 言い換えるなら、殻を破りたい。

 その願いを叶えられないほど、神という存在は不完全ではない。

 発動のトリガーは彼女の涙。

 当人達の知らぬ間に、奇跡はもたらされた。

 新たな一歩はここからだ。

 神に見守られながら。

 手と手を取り合いながら。

 いつの日か彼らは、全てを越えてみせる。

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