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第八十一話 昔話

 その集落は、森の中に存在する。

 イダンリネア王国からは遠く離れており、訪れる者などいない。

 真夜中となれば、辺り一面真っ暗だ。ここが隔離された場所だと再認識させられる。

 ここは迷いの森。小動物や昆虫の楽園であり、魔物が生息しない稀有な土地だ。

 光流暦七、生き延びた魔女が身を寄せるように集まり、この地を開拓する。

 千年前の出来事ゆえ、この事実を知る者はほとんどいない。

 集落をまとめあげる女性の名前はハクア。魔眼を宿す、最強の魔女。

 その髪は血の様に赤く、生活に支障が出そうなほどには長い。

 入浴と夕食を済ませたことから、今はラフな格好だ。ダボっとした茶色いチュニックは寝間着として丁度良く、黒いズボンもふわりと柔らかい。

 後は眠るだけ。状況としてはそうなのだが、居間の片隅で読書にふける。同居人も黄昏るように窓の外を眺めており、消灯は後回しだ。

 沈黙が不快なわけではないのだが、ハクアは大きく息を吐くと、独り言のように持論を述べる。


「マリアーヌ様。一晩考えましたが、エウィンが絡んでいるとしか……」


 この家は集落の中で最も大きな建物だ。独り暮らしを前提とした古民家ながらも、多数の本棚を置ける程度には居間も広い。

 ここは今、二人の女性で独占中だ。

 もう一人は、地球からこの世界へ転生した日本人女性のアゲハ。寝間着は色気のないスウェットながらも、誰よりも大きな胸のせいで色気を振りまいてしまう。真っ黒な髪は先端だけが青く、すっかり乾燥したことからも寝る準備は万端だ。

 同居人が彼の名前に触れたことから、アゲハの瞳が反射的に動く。自身に語りかけられたわけではないにしろ、その話題が気になって仕方ない。

 ハクアの話し相手は眼下の古書だ。

 机の上に置かれたそれが、真っ白な姿を見せつけるように反応する。


「あの子がここを出て、ぼちぼち一週間だっけ?」


 白紙大典。これはこれで本当の名前なのだが、人間だった頃はマリアーヌと呼ばれていた。

 書物でありながら人格を持ち合わせている理由も、千年前の戦争に由来する。


「はい。そして、マリアーヌ様に水の因子が戻ったのが昨日。タイミング的にも、洞窟の結界を壊せるという意味でも、エウィン以外考えられません」


 水の洞窟は立ち入り禁止であり、また、忍び込もうとしても絶対に不可能だ。

 出入口には強固が結界が張られており、通り抜けるにはイダンリネア王国の王族から許可を得なければならない

 あるいは、結界を設置した術者くらいか。


「まぁ、そーだねー。後はハクアくらいだけど、違うもんねー」

「あの結界は七百年前に私が張りました。ちょっとやそっとの衝撃にはびくともしません。洞窟そのものが壊されたら、話は変わってきますが……」


 水の洞窟を塞いでいた結界。その作成者はこの魔女だ。

 この千年間、肉体の強化と平行して結界の類を研究し続けるも、その成果の一つが昨日破られてしまう。

 ハクアの推理は当たっており、犯人はエウィンだ。それを可能とする天技を宿しており、実行した。

 そうであろうと、白紙大典は腑に落ちない。


「だけどさー、エウィン君が私の残滓を倒せるー? 無理だと思うけどなー」

「その通りだと思います」

「だよねー。うーん、わからんちん」


 事実として確定していることは一つだけ。

 白紙大典に、結界の残滓が戻ってしまった。

 属性は水ゆえ、水の洞窟に隠していたそれで間違いない。

 問題は、誰がどうやって、そのような愚行を行ったか。

 エウィンに結界を破ることは出来ても、水の化け物を倒せるだけの実力はない。

 だからこそ白紙大典は唸るも、ハクアは苛立つように正解を言い当てる。


「オーディエン……、奴の仕業でしょう」

「あー、それならあり得るかもね」

「あいつなら難なく倒せるはずです。相性の悪さなんて、お構いなしに……」


 その実力を認めているがゆえに見抜ける。

 オーディエンはセステニアの部下であり、本来ならば討伐対象だ。

 しかし、ハクアとは同盟のような関係を築いている。利害が一致しているがゆえの口約束でしかないのだが、今日に至るまで殺し合ったことはない。

 赤髪の魔女と純白の本が議論で盛り上がる中、このタイミングでアゲハが割って入る。


「エ、エウィンさんが、人質に、取られちゃった?」


 ただただ心配だ。

 この集落からは一切の情報が得られない以上、エウィンの安否が気になって仕方ない。


「どうかしらね? それはないと思うけど。あいつはエウィンの保護者気取りだし」


 安心させたいという配慮とは無関係に、ハクアがその可能性を否定する。

 オーディエンがエウィンを利用することはあっても、殺すようなことはしない。

 根拠はなくともそう確信しており、魔女は淡々と自説を述べる。


「断言出来ることは一つだけ。誰かが水の因子を倒して、マリアーヌ様に還元されたということ。残っている因子は三つだから、心配するには時期尚早なんだけど……」

「そうそう、まーだまだ問題ナッシン。そう言えばさ、アゲハちゃんにはわたしのスーパーパワーもとい結界について説明してなかったっけ?」

「あ、はい、詳しくは……」

「だったら教えてあげる。ハクアも、それでいいよね?」

「もちろんです」


 真っ赤な髪が揺れるように頷いたことから、純白の本が語りだす。


「わたしの結界は、魔法でもなければ戦技でもないの。まぁ、天技ってやつだねー。ある日突然、真っ白な本を出せるようになって、最初はそれだけだったから、他に使い道もなかったし、日記帳代わりにしてね。出し入れは念じるだけで自由自在だから、思いついた時にスラスラっと書けてとっても便利」

「マリアーヌ様、話しが脇道に逸れております」

「あ、めんごめんご」


 さすがのハクアも、指摘せざるを得ない。

 白紙大典の特異な能力についてなぞってはいるものの、使いこなす前の思い出だ。

 本題は結界であり、真っ白な本が息を整える。


「わたしの天技は、七種類の結界で構成されてるの。火を司る火花、水の水花、みたいな。んでもって、わたしの結界は相手を閉じ込めちゃう、最大二十四時間ね。ただ、万能なわけじゃなくて、わたしより魔力が高い相手には通用しない。例えば、王様だったり、あの女だったり……」


 王とはオージス・イダンリネアを指す。イダンリネア王国を建国した初代王であり、身体能力だけでなく魔力も他を寄せ付けない強者だ。

 ここまでの説明を補足するように、ハクアも口を開く。


「巨人戦争を終わらせるため、私達は王と共に西を目指した。最後の戦いでセステニアを追い詰めるも、不死身な相手を殺すことは叶わず、マリアーヌ様は結界で封印することを選んだの」

「そだねー。ただまぁ、単一属性の結界が通用しなかったもんだから、とっておきを使うしかなくてね。それが七番目の結界、焔華」

「えん、か……」


 アゲハもその響きには心を揺さぶられる。

 マリアーヌの結界は厳密には六つだ。

 火花。

 氷花。

 風花。

 雷花。

 土花。

 そして、水花。

 同時に一つまでしか発現出来ない上、使い分ける必要性は基本的にない。

 これらも属性の相性を受けるものの、マリアーヌの実力が非常に高いことから、どんな魔物であろうと問答無用で封印することが可能だ。

 しかし、巨人戦争を終わらせる戦いにおいて、その化け物にはこれら全てが通用しなかった。

 魔力の優劣がそうさせるのだが、それでもなお、彼らは諦めない。


「戦ってわかったの。こいつはここでどうにかしないと、ってね。だから、全属性を合体させた最強奥義! 焔華を使ったってわけ。どう? かっこいいっしょ」

「え、あ、そう、思います……」


 一人盛り上がる白紙大典とは裏腹に、アゲハはあくまでも普段通りだ。

 ハクアは保護者のように見守っているため、昔話はこのまま進行する。


「最強奥義は同時に最終奥義でね。なんでかって言うと、ご覧の通り! わたしがこうなっちゃうからだ! 本になっちゃった!」

「本になったマリアーヌ様も素敵です!」

(うるさ……)


 二人の高過ぎるテンションが、アゲハをわずかに苛立たせる。

 そうであろうとお構いなしだ。白紙大典は巨人戦争の決着について説明を続ける。


「焔華を発動させた代償に、わたしの体は消滅。んでもって、こうなると誰かにわたしの代役を任せる必要があって、まぁ、魔力的にも偉いって意味でも王様しかありえないから、最後はわたしと王様の共同作業。なんて言うのかな、こう、ビカーって感じで、あの女を結界に封じ込めたの。見事大勝利ー、めでたしめでたし」


 これが、巨人戦争を終結に導いた経緯だ。

 セステニア。この女は人間でありながら、不老不死という特性を持ち合わせている。

 心臓を貫かれようと。

 首を斬り落とされようと。

 痛がる素振りすら見せずに生き続ける。

 あるいは、死に続けてもなお動けるだけなのか?

 どちらにせよ、オージス王は光の剣でこの女を何十回、何百回と殺し続けた。

 それでも倒しきれない以上、残された選択肢は三つ。

 勝てないことを認めた上での撤退。

 諦めずに戦い続けて、最終的には全滅。

 あるいは、結界による封印。

 実は、三つ目の候補はこのタイミングまで伏せられていた。

 彼女もこのような能力を使う日が訪れるとは夢にも思わず、されど、セステニアという常軌を逸した存在を前にして、ためらうことなく発動させる。

 その結果が王国の勝利ながらも、アゲハは違和感を見落とさない。


「でも、封印が、解けそうに、なってる?」

「ぶっちゃけると、そう。そのからくりなんだけど、まぁ、さらにぶっちゃけちゃうとね、焔華の発動と同時にわたしは意識を失って、その後のことはハクアに教わっただけだったり。と言うことで後は任せた!」


 白紙大典の起床は、おおよそ七年前。つまりは、千年近くもの間、眠っていたことになる。

 その間のことは起きてから学んだだけに過ぎず、ここには生き字引がいる以上、バトンタッチは必然か。


「セステニアを封じた後、みんなはその場を後にして帰国したわ。でもね、その過程でマリアーヌ様から魔源が零れ落ちたの。容量オーバー、だったのかもしれないわね。マリアーヌ様と王の魔源が融合したようなものだもの、仕方ないわ。六回に渡るその現象が何を意味するのか、その時はわからなかった。でもね、魔女の精鋭部隊ですら全滅しかねない魔物が現れたことで、調査は良くも悪くも進んでしまう。王がその内の一体を見事倒すも、その結果、マリアーヌ様に火の因子が戻った。つまりは、そういうことよ」

「なる、ほど……」


 白紙大典に収まりきらなかった魔源が、帰国の最中にばらまかれてしまった。

 魔源自体は魔法を使うためのエネルギーでしかないのだが、彼女の天技が特異だったためか、現地の動物あるいは魔物に力を与えてしまう。

 火の因子は、初代王が倒してしまった。

 土の因子はオーディエンに。

 そして、水の因子もまた、オーディエンの画策通りに討たれてしまう。

 六つの内、三つが白紙大典に戻った。

 戻るということは、セステニアの結界が弱まるということを指す。

 残り三つの因子が倒された時こそ、不老不死の化け物が野に放たれるということだ。


「まぁ、でもー? わたしの結界はまだまだ元気だゼ! あ、エルの口調が乗り移っちゃった。ところでさー、エウィン君の同行は掴めたの?」

「いえ、そのエルに探させていますが、未だ不明です。ジレット大森林に残って狩りでもしてるのかもしれません」


 実際には地下牢に閉じ込められている。平行して取り調べを受けているも、有罪判決は時間の問題か。

 そういった情報はもう間もなくここにも届くのだが、それを知らない現状においては推測に推測を重ねるしかない。

 アゲハは濡羽色の長髪を揺らしながら、窓の外へ視線を向ける。


「無事だと、いいけど……」


 ただただ心配だ。

 しかし、出来ることはない。

 エウィンは異世界について調べるため、帰国した。

 アゲハだけが残った理由は、足手まといである現状を打破するためだ。


「オーディエンと行動を共にしてるのなら、安全なはずよ。私の部下にも探りを入れさせてるから、今は大人しく待ってなさい」

「はい……」


 年長者として、なにより魔女を統べる者として、冷静に説き伏せる。アゲハの胸中を察しつつも必要以上に励まさない理由は、エウィンが想像以上にタフであると見抜いているためだ。

 本音を言えば、そろそろ連絡の一つも寄越せと言いたい。そのための手段は説明しており、一方で気配り上手でないことも把握済みゆえ、望むだけ時間の無駄か。

 俯くアゲハの横顔を眺めながら、ハクアが別の話題を投げかける。


「待つと言っても、あんたはあんたでやることあるの。見てたわよ、今日の鍛錬。何あれ?」

「うぅ……」


 構図としては、おおよそ千歳の魔女が二十四歳の日本人女性を叱っている。


「スタミナはあるようだけど、身のこなしは本当にダメね。モーフィス相手に、何度も何度も尻餅ついちゃって。大きなお尻が重たいの?」

「うぅ……」


 モーフィスは六十歳を越える老人だ。

 しかし、その肉体は筋肉をたっぷりとまとっており、里一番の長身を誇る。

 ハクアですら一目置く老戦士であり、本気のエウィンを子ども扱いするほどの実力者だ。

 老後の日課として里の若者を鍛えているのだが、アゲハもその内の一人として汗を流している。

 そう指示したのがハクアだ。改めて、その理由を言い聞かせる。


「あんたの炎は、人間相手に通用しない。自分の身は自分で守れるくらいに強くなりなさい。さもないと、エウィン共々死ぬことになるわよ」

「は、はい……」


 この世界に転生を果たした際、アゲハは青い炎を授かった。

 触れることで、対象を灰すら残さず燃やすことが可能だ。

 エウィンはこれに深葬という名を与えるも、この里で実験した結果、欠点が発見される。

 人間だけが、なぜか燃やせない。

 衣服も。

 小石も。

 魔物さえも燃やせるにも関わらず、まるで安全装置でも作用しているかのように、人間を対象とした場合、火傷すら負わせられない。

 エウィンを誤って燃やさずに済むという点ではありがたいのだが、ハクアは明確な弱点だと指摘した。

 なぜなら、敵は魔物だけではない。

 人間もまた、自分達に牙をむく。

 その筆頭が魔女だ。この里とは異なる勢力である彼女らは、イダンリネア王国を目の敵にしている。

 運悪く、エウィンとアゲハはその魔女達と出会ってしまった。

 さらには、二人の実力と特異性についてばれたことから、いつ狙われても不思議ではない。

 そういった背景から、ハクアは居残りを命じた。


「あんたの成長速度は秀逸よ。エウィンが無茶させただけかもしれないけど、既に一人前の傭兵と言っても差し支えない。でもね、満足するには早すぎる。もっともっと腕を磨かないと、いつかのジレット監視哨みたいにみんな殺されるわよ」

「はい……」


 たった六人の魔女が、王国の軍事拠点を襲撃した。

 建物が完膚なきまでに破壊されたばかりか、常駐していた軍人達も一人を除いて全員殺されてしまう。

 その場に駆け付け、唯一の生存者を救ったのがエウィン達だ。

 地獄のような光景を目の当たりにしたのだから、アゲハとしても忘れることは出来ない。

 居間の空気が重苦しくなった頃合いに、真っ白な本が助け舟を出す。


「アゲハちゃんはがんばってると思うよ? ハクアも言い過ぎないの」

「はい……」


 この家の家主も、白紙大典には頭が上がらない。

 うなだれるように赤髪を垂らす魔女を他所に、真っ白な本はフォローを続ける。


「筋肉じいさんに鍛えてもらうのも良いと思うけどさー、トカゲの乱獲とかはダメなの?」


 言い換えるのならば、モーフィスとの鍛錬は時期尚早だ。アゲハの実力が追い付いていないため、弱い者いじめにしかなっていない。

 そのための代替案が、ミファレト荒野のトカゲ狩りだ。

 ミファリザド。全長二メートル近い四足獣ながらも、その巨体ゆえか動きは鈍い。

 一方でワニのような皮膚は見た目以上に頑丈なため、狩猟にはそれ相応の身体能力が求められる。

 生息数は多くないのだが、迷いの森に隠れ住む魔女達にとっては大事な食材だ。

 魔物ゆえに時間経過で繁殖もなしに再出現することから、当番制で腕に覚えのある魔女がこれを討伐、持ち帰っている。

 ただし、誰でも真似出来るわけではない。

 ミファリザドの重さは、おおよそ百キログラム前後か。

 つまりは自分達よりも重く、ましてや死体ゆえ、非常に持ち運びにくい。

 さらには、この里からミファリザドの生息域まで片道で数十キロメートルは離れている。

 往復となればその倍だ。

 帰り道は大トカゲの死体を運搬する必要があるため、普通の人間には決して真似出来ない。

 もっとも、今のアゲハが凡人かどうかは怪しい。

 日本に帰還後、マラソン大会に参加しようものなら、女性部門は当然ながら男性部門の世界記録すらも容易く更新出来てしまう。

 ミファリザドについても、慣れさえすれば問題ない。

 触れるだけでその巨体を塵一つ残さず燃やし尽くせてしまうのだから、訓練としては最適か。

 しかし、ハクアは白紙大典の代替案に難色を示す。


「ミファリザドをアゲハに燃やされてしまうと、食卓にお肉が並ばなくなってしまいます……」

「あー、そっかー。問答無用で燃やしちゃうもんねー。蹴り飛ばして倒せるかって言うと、まだ怪しいかー」


 鈍重な魔物ながらも、舐めてかかってはならない。

 その理由は、打たれ強さも去ることながら毒の息を吐くからだ。

 今のアゲハがそれに晒された場合、耐えられるかどうかは怪しい。

 彼女には触れるだけで傷を癒す能力があるものの、毒に有効かどうかは不明だ。

 エウィンならば、問題ない。

 短剣を振り下ろしての刺突。

 あるいは、かかと落とし。

 やり方は多種多様ながらも、この傭兵は初見でありながら瞬殺した。

 仮に毒息に晒されたとしても、耐えられる可能性すらある。その肉体は以前とは別人のように頑丈ゆえ、負ける方が困難か。

 その点で言えば、アゲハも日本人という枠組みからは大きく外れている。

 それでも、エウィンほどではないことから、ハクアとしても悩ましい。


「足は太いけど、脚力が伴ってるとは言えませんし……」

「はう!」

「だけどさー、痩せろとは言えないじゃん。エウィン君、足フェチだし」

「はう!」


 アゲハが顔を赤らめようと、二人はお構いなしだ。

 事実として、彼女は肉付きがよく、足もアスリートのように太い。

 大学中退後、母親からの仕送りに甘えて引きこもった弊害だ。それ以前の服が着れない程度には脂肪がついてしまった。ズボンに足を通そうものなら、その生地はパンパンに膨れてしまう。

 痩せているよりは健康的か。

 前提として、アゲハは太り過ぎてはいない。

 他人より柔らかい部位が多いだけであり、エウィンとしても盗み見ることを止められない。


「あの子、普通にむっつりですしね」

「ハクアさんや、そういうのをスケベって言うの。まぁ、エウィン君も年頃の男の子だからね。むしろ、アゲハが好き好きオーラ全開なのに、なーんでか手を出さないのよねー。不思議」

「はう! そ、そんな、ことは……」


 いかにこの魔女と本が千年を生きる長寿であろうと、色恋沙汰は好物だ。

 アゲハの鍛錬からすっかり脱線してしまったが、姦しく盛り上がる。


「興味がないってことは、ないはずですが……」

「そりゃそーよ。アゲハが歩けば胸が揺れる。それをエウィン君は盗み見る。ついでにわたしも盗み見る。これがここの日常だしねー」

「ですよね」

(ですよね、なんだ……。き、気づいては、いたけど……)


 千年を生きるハクアですら、エウィンの謎については解明出来ない。

 二人の若者が相思相愛にならない理由。

 この少年が蠱惑的な体に欲情していることは確定だ。そうでなければ、アゲハを目で追うはずがない。

 しかし、なぜかそこで踏みとどまる。

 それ以上のアプローチに発展しない理由を、この家の家主と本は残念ながら見つけられない。


「マリアーヌ様はどう思われます?」

「わからんちん。だってさー、わたしがエウィン君だったら、土下座してでも頼み込むもん。その爆乳、揉ませてくれって」


 ハクアと白紙大典に悪意はないのだが、アゲハは縮こまる一方だ。エウィンがここにいないからこその率直な反応なのだろう。

 そうであろうと、老人二人は止まらない。


「ああ見えて、シャイなのでは?」

「それはあるかもだけどさー。女の勘だけど、ちょっと違う気がするのよねー」

「確かに……。ばれてないつもりで、舐めまわすようにアゲハのこと眺めてますし」


 エウィンがアゲハに触れようとしない理由。それは、彼女との結末が別離だと考えているためだ。

 つまりは、最終的には離れ離れになるのだから、男と女の関係になるつもりがない。

 十代でありながら、悟りを開いてしまったのか?

 中途半端なことが出来ないだけなのか?

 どちらにせよ、エウィンの宿願はアゲハの帰還だ。

 その過程で彼女を庇って死んでしまいたいとも考えている。

 おかしな話だがどちらも本心だ。片方しか叶わないとわかっているからこそ、エウィンの葛藤は計り知れない。

 そんなことは露知らず、女二人は騒ぎ続ける。


「あ、もしかしてなんだけどさー。エウィン君ってエルのことが好きだったり?」

「さすがマリアーヌ様! その可能性には気づけませんでし……、あ……」


 禁忌に触れた瞬間だ。

 居間の空気が、前触れもなく凍り付く。

 室温が下がったわけではない。

 氷の攻撃魔法が撃ち込まれたわけでもない。

 黒髪の女性が、揺れるように立ち上がっただけだ。


「今、なんて……」


 怒り心頭だ。そうであると裏付けるように、アゲハの長髪が先端側から半分程度、青く染まっている。

 アゲハの中に宿る、ネゼという人格。彼女が何者かは未だ不明ながらも、その力を部分的に借り受けることが可能となった。

 その際に黒髪が青く染まるのだが、今がまさにその状況だ。

 さすがのハクアも、取り繕うしかない。


「お、落ち着きなさい! 絶対にありえないから。ねえ、マリアーヌ様?」

「そ、そうそう! お姉さんにはわかる! エウィン君はアゲハちゃんにぞっこん! 多分……」


 この家が破壊されないためにも、詭弁を述べるしかない。

 つまりは保身なのだが、アゲハが冷静さを取り戻すには不十分だった。


「ホントウニ?」


 地の底から響くような声だ。その迫力が、ハクアと白紙大典を怯えさせる。

 この日、二人は学習した。

 アゲハだけは、怒らせてはいけない、と。

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