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第七話 涙を拭きながら、前へ

 ここがどこだか、わからない。

 朝なのか夜なのか、時間すらもわからない。

 なぜ自分が罵られているのか、その理由だけはわかってしまった。

 耳をふさぎながら。

 目を固く閉じながら。

 それでもなお、罵声が頭の中を駆け巡る。

 あいつ、ウジウジしてて気持ち悪い。

 お化けみたいな奴。

 積極性が無さすぎです、弊社だけでなく他所でも内定なんてありえませんよ。


(いやっ!)


 言われるまでもない。その全てを自覚しているのだから。

 彼女の性格は内向的だ。

 その理由はシンプルに、自分に自信を持てなかった。

 母とは対照的に、頭が良いわけでもなく、運動もからっきし。

 人付き合いさえ苦手だった。

 気づけば胸だけが育ってしまい、男子から向けられる好奇の目がただただ怖かった。

 ゆえに、ふさぎ込むしかなかった。

 それこそが彼女の処世術であり、行き着く先は大学中退と引きこもり生活だった。

 狭いアパートに一人きり。他人のいない生活を望んでいたのだから、楽園だと思っていた。

 そんなことはなかった。

 隙あらば押し寄せる、不安と恐怖。

 将来への絶望。

 何も出来ない無力感。

 想像を絶するストレスだった。

 息苦しかったキャンパスライフや、手が震えるほどの就職活動からは解放されたものの、社会から零れ落ちてしまったと気づけた時には、既に手遅れだった。

 いつまでこんな生活を送れるの?

 それすらもわからない。母からの仕送りが止まれば、その瞬間に破綻してしまう。

 じゃあ、何から始めればいいの?

 それすらもわからない。何も出来ないのだから、今日も明日も同じことの繰り返しだ。

 昼頃に起きて、軽食をつまみ、だらだらとインターネット。

 外が暗くなり始めた頃に、やる気があったら料理を作ってそれを食べる。

 当然ながら夜が更けようと眠くはならず、無気力にライブ配信を視聴。

 太陽が昇り、学生や社会人が身支度を始める頃合に、自分は気絶するように夢の中へ。

 自堕落な生活だ。

 そんなことは言われるまでもなく、自覚している。

 可能なら這い上がりたい。

 しかし、その方法がわからない。

 大学に通い直す気力など、ない。

 就職活動など、もってのほかだ。

 居場所などない。

 ここにしか、ない。

 ゆえに、引きこもる。

 引きこもり続ける。

 社会から取り残されようと。

 少しずつ太ろうと。

 もう、引き返せない。

 食糧の買い出し以外では、外出すらもままならない。

 落ちこぼれだと、わかっている。

 負け犬だと、認めてしまっている。

 もはや、この性格は変わらない。

 変わるはずがない。

 世界が終わろうと。

 異世界へ転生しようと。

 泣き虫のまま、ウジウジと自分の殻に閉じこもり続ける。

 手を差し伸べてくれた少年に、迷惑をかけるとしても?


(それは、いやっ!)


 否定と同時に目が覚めた。

 しかし、状況把握がままならない。

 ここはアパートの自室でもなければ、秘密基地のようなボロ小屋でもない。

 暖かなベッド。

 白い壁紙。

 左腕へ伸びる、透明のチューブ。


(だるい。トイレ行きたい……)


 体調は芳しくない。自分の置かれた状況は未だわからないままだが、自身の健康状態および生理的欲求だけは把握出来てしまった。

 どうやら病室のようだ。素っ気ない室内は薬品の匂いで満ちている。

 ベッドカバーも病的なまでに白く、寝かされている自分自身が異物のようだった。

 患者の名前は坂口あげは。日本で死に、ウルフィエナで再誕した転生者。

 尿意を感じているものの、体が起き上がることを嫌がっている理由は体調不良のせいか。

 しかし、体を起こさないという選択肢はありえない。

 眩暈のような感覚に襲われていようと。

 顔がむくんでいようと。

 この場で漏らすことだけは避けたかった。


(あ、これ、点滴。こういう時って、どうしたら……)


 上半身だけをゆっくりと起こすも、次の行動は左腕を力なく眺めることだった。

 トイレへ向かう場合、点滴スタンドごと移動すれば良い。たったそれだけのことなのだが、寝起きのアゲハは頭を傾けることしか出来ない。

 その時だった。


「あら、起きたの? 体調はどうかしら?」


 扉を押しのけるように、ボサボサ頭の女性が現れる。

 桃色の長髪は寝起きのように乱れているものの、天然パーマゆえにこれこそが自然体だ。赤ぶち眼鏡がずれているせいでやる気のなさそうな表情に見えるも、医者としての責任感はプロと言う他ない。。

 白衣とその下のセーターが大きく膨らんでいる理由は、アゲハに匹敵するほどの乳房を持ち合わせているためだ。


「あ、えっと……」

「体温測らせて」


 戸惑う患者を他所に、アンジェの手際は素晴らしい。寝間着ですらないタートルネックの中へ、体温計をテキパキと突っ込む。

 突然の状況にアゲハは脇を絞めながら硬直するも、ある意味では正しい姿勢だ。尿意はそのままながら、唯一自由な口を動かす。


「私の、風邪って……」

「顔色は昨日より良くなったね。口の中見せて。はい、あーん。うん……、まだちょっと腫れてるけど、回復の兆しはある、と。今は焦らないでゆっくり寝てな。あ、食欲あるかい?」


 点滴の成果か。

 暖かいベッドのおかげか。

 おそらくは両方なのだろう。なんにせよ、体が痛むほどの咳き込みは影を潜めてくれた。


「あ、あの、おトイレ、行きたい、です……」

「あぁ、ごもっともだ。廊下を出て右手側だよ。一人で歩けるかい?」

「多分、だいじょぶ……」

「もう不要そうだし、点滴外してあげる。体温計ももらうよ」


 よろよろと歩く後ろ姿は病人そのものながらも、漏らしたくないという意志に突き動かされ、アゲハは退室と共にトイレを目指す。

 彼女がいなくなれば、当然ながら室内には丸椅子に腰かけたアンジェだけ。

 医者として、患者の容態を分析しながら待つこと数分、すっきりした様子のアゲハが戻れば、話し合いは再開だ。


「体温はまだちょっと高いし、後で食事を用意するから、それ食べて薬飲んだらさっさと寝な」

「は、はい、ありがとう、ございます……」


 万全を期しての入院継続だ。

 アゲハも断る理由がないため、首を縦に振る。

 ベッドの中は暖かい。先ほどまで彼女がそこで眠っていたことから、体温が残り続けていた。立って歩いたことから食欲もいくらか湧き上がっており、内心では食事という単語に胸躍らせる。


「起きたついでに色々訊いてもいいかい? エウィンに尋ねたら、本人の承諾なしには答えられないって言われてさ」

「え? はい……」


 ここからは医者でなく、一人の王国民として問いかける。ずれた眼鏡をくいと持ち上げ、厚い唇をゆっくりと動かせば、質疑応答の開始だ。


「あんたはこの国の出身じゃないし、つい最近、来たばかり。先ずはここまでで間違いない?」


 予想外の質問がアゲハを硬直させ、そのついでに生唾を飲み込ませる。

 話題が風邪とは無関係だっため身構えられず、その上、内容はズバリ正解だ。冷や汗をかぎながら、石像のように黙ってしまう。


「言いづらいなら嘘でもついて軽くあしらってくれて構わないよ。単なる私の興味本位だからね。考えてもみてごらん? その服、いったい何なのさ? 目立って当然の服装をしておいて、追及はされたくない? だったら、さっさと馴染む努力をした方があんたらのためにもなるってもんさ。あんた、無一文なんだろ? だったら、今はあの子に、エウィンに甘えればいいさ」

「は、はい……」


 ぐうの音も出ない指摘だ。アゲハは異世界に転生しておきながら、ジャージとジーパンを着続けている。サイズの合う服がこれしかないのだが、そうであろうとこれを着ての外出は無防備と言う他ない。

 半ば説教のような言い回しが彼女を普段以上に委縮させるも、この話題は継続だ。


「で、どこから来たのさ?」

「え、え~っと……。ひ、東、です」


 日出ずる国、日本。東の方角に位置することからそう呼ばれたが、アゲハはとっさにその表現を転用する。

 つまりは、嘘なようでそうではない。

 日本から来た。そういう意味では正しいと開き直れてしまう。

 先端だけが青い黒髪を指でいじりながら、アゲハは女医を見ずに視線を泳がせるも、その仕草は残念ながら不審者そのものだ。


「エウィンと言ってることが違う気もするけど、まぁ、いいわ」

「え⁉」

「海を渡ってデフィアークあたりから来た、って言われた方がしっくりくるもの。あっちの方が色々と進んでそうだしね。金属の加工技術にしても、造船技術にしても」


 この世界には多数の大陸が存在しており、その土地毎に人間が集まれば、村や町、そして国が出来上がる。

 イダンリネア王国もその内の一つでしかない。

 デフィアーク共和国は大海原を超えた先に存在する隣国だ。技術大国としての側面を持ち合わせており、生産品の一部は王国にも輸入されている。


「嘘か本当かは、さておき……ね」

「う、その……」


 女医が眼鏡越しに意地悪な視線を向けると、患者はベッドの中で縮こまる。

 腹は空いており、喉もカラカラだ。朝食の用意を催促したいものの、普段以上にしどろもどろになってしまい、それどころではない。


「意地悪はこれくらいにして、朝食にしましょう。少し時間がかかるから、先に飲み物持ってきてあげる」

「あ、ありがとう、ございます」


 アンジェ個人としては、追及したいに決まっている。アゲハの出身地および正体は、知的好奇心をそれほどに刺激してしまった。

 そうであろうと、彼女は医者だ。イダンリネア王国一の名医と呼ばれており、患者の機微な変化を見抜ける。


「リクエストある? 好き嫌いでも構わないのだけど。あぁ、お金は気にしないで。エウィンに請求するから」


 この発言がアゲハに自身の境遇を思い出させる。

 無一文の人間が入院など出来るはずもない。

 ならば、誰かが代わりに支払うだけだ。

 その誰かがエウィンだと気づかされた以上、朝食を食べたいなどと口が裂けても言えない。


「あ、えっと、我慢、します……」

「馬鹿言ってんじゃないよ。ちゃんと食べな」

「だけど、お金……」

「そんなこと気にする必要ないって。もらう側の私が言うのもなんだけどさ。エウィンもあんたの回復を願って必死に稼いでるんだし、あの子の努力を無駄にするんじゃないよ。足りない分は、ちょっとずつ返してくれればそれで構わないしね」


 女医は呆れるように諭すも、アゲハの表情は曇ったままだ。

 お金を稼ぎたい。本心ではそう思っているのだが、こちらの世界で働ける自信などこれっぽっちもない。

 そもそも日本にいた頃ですら、アルバイトの経験すらなかった。

 大学を中退後、何年間も引きこもっていた彼女には、勤労は高いハードルだ。


「だけど、それでも……、入院も、切り上げ、ます」

「あんたってウジウジしてる癖に頑固なところあるね。今退院したって、治りかけの風邪がぶり返すだけだよ。そんなことになったら、今度はエウィンにうつしちゃうかもね。それでもいいの?」


 こう言われてしまっては、反論など出来ない。アゲハは肩を落としながら、黒髪をギュッと握って顔を伏せ続ける。

 その姿は、親に叱られた子供のそれだ。

 そう自覚出来てしまう以上、彼女の心は一層落ち込んでしまう。


(私、あの人に迷惑をかけちゃってる。ご飯を食べさせてもらってる上に、今度は病院の費用まで……。二十四歳なのに説教までされて……。こんなんじゃ……)


 地球にいた頃と何一つ変わらない。

 学費も生活費も、全て母親に払ってもらっていた。それ自体は親として然るべき行為なのだが、大学を辞めた後もすねをかじり続けてしまった。

 その負い目を謝罪するために。

 そして、感謝の気持ちを伝えるために。

 アゲハは元いた世界への帰還を望むも、現状は手がかりすら見つかっていない。

 それだけならまだしも、少ない収入の中でやりくりしなければならない状況の中、体調を崩してしまい、入院までしてしまった。手痛い出費と言えよう。

 迷惑をかけてしまっている。今更ながらも改めてそう自覚してしまったのだから、涙を堪えることなど出来るはずもなかった。


「私……、私……」


 情けない。

 自分に自信を持てなかったがゆえの苛立ち。

 何も出来ない自分への嫌悪感。

 そして、恩人に迷惑をかけ続けることへの不甲斐なさ。

 これら負の感情が、この瞬間に爆発する。こうなってしまっては、溢れる涙を止める術などない。

 風邪のせいで心身共に弱っているということもあるのだろう。

 それでも、見知らぬ大人の前で泣き続ける。嗚咽は止まらず、雫は頬を伝って、白いシーツに大きな水玉を作り出す。

 どうすればいいのか?

 それすらもわからない。

 何が出来る?

 やはり、わからない。

 その手は既に掴んでいるのだが、それを自覚出来ていない以上、怯えるように泣くしかなかった。


「安心しな。あの子は、エウィンは何があってもあんたを見捨てたりはしないよ。まぁ、根拠なんてないけどさ、第一印象でそう感じたんだよね。それに、睡眠時間を削ってまでがんばってるようだし? あ、これって失言か?」


 慰めるつもりだったのだが、アンジェは天井を見上げながら頭をかく。

 保護者が寝る間も惜しんで働いている。そう告げてしまったのだから、言われた方は負い目を感じて当然だ。


「お母さんにも……、エウィンさんにも……、守られてばかり……。大人、なのに……」

「大人うんぬんってのはこの場合、関係ないんだけどね。親からすれば、自分の子供はいくつになっても子供なんだから。私だって、成人になってからもじじいからはガキ扱いされてたし」


 泣きじゃくるアゲハへの反論は簡単だ。

 医者としてではなく、一人の人間としてアゲハは諭し続ける。


「エウィンに関しても、頼れる内は頼っちゃっていいと思うよ? それにさ、あんたのおかげで今がある、みたいなこと言ってたし。多分だけど、案外、持ちつ持たれつの関係なんじゃないの? あんた達って」

「うぅ、そんなことは……」


 アゲハの涙が少年を強くした。その事実は揺らがないものの、本人にその自覚がないのだから、慰めるには至らない。

 それでも、アンジェは言葉を紡ぎ続ける。諦めの悪さは医者ゆえの性分か。


「エウィンは昨日だけで、私への支払いのために二回も遠征したっぽくてね。なんで一回で済ませなかったかわかる? 傭兵のルールに、受注出来る仕事は一人につき一つだけって制限があるからさ。実はこれが思いの他厄介らしい。つまりは、ついでに、って稼ぎ方が出来ないわけ。どこどこへ遠征するなら、併せてこっちの仕事も受けよう、ってことが出来ないの。だから、独り身の収入は大きく跳ねない。一方で、二人組や三人組は一回の遠征で複数の仕事を同時にこなせちゃうから、安定した収入が見込める。この差が案外大きいみたいでね、まぁ、知り合いの傭兵からの又聞きなんだけどさ。言われてみたら確かにって思えるし、あいつもこんなことで嘘をつくような奴じゃないから、きっと真実なんだろ。まぁ、偉そうなこと言っちゃったけど、私が言いたいことはただただシンプルさ。そういう手伝い方も出来るし、こんな物騒な方法じゃなくても、持ち味を生かして金を稼げるよう努力してもいいんだし、思い悩む必要なんてないんだよ」


 説教のようで、そうではない。

 言いくるめるというよりは、気づかせるためのものだ。

 年上の女性として。

 この国に住まう、一人の人間として。

 アンジェは持論を交えながらも、エウィンの置かれた境遇を諭すように説明した。

 その効果は絶大だ。

 アゲハは涙をこぼしながらも、嗚咽を止めることには成功する。


「役に……、立ちたい……」

「あぁ、いつか叶うさ」

「私も、傭兵に、なれますか?」

「そこまでは知らん」

「そんな……」


 突き放すような返答が、大きな瞳にさらなる涙を発生させるも、アンジェは医者だ。魔物討伐の専門家ではない。

 しかし、試験の内容についてはある程度把握出来ているため、フォローのつもりで補足する。


「まぁ、傭兵試験に合格すること自体はきっと簡単でしょうね。あんたの場合、エウィンに手伝ってもらえばそれで済む話なんだし。あ、ズルとかじゃないから安心なさい。等級四に上がるための試験以外は他者の力を借りても問題ないの。協力を仰げる仲間がいる、そのこと自体が財産と言うか、実力の一つだから」


 ロングスカートの内側で足を組み、背中で背もたれを探すも、女医の座っている椅子はチープな丸椅子ゆえ、もたれかかれる場所などなかった。傾いた上半身を渋々直立させて、患者の返答を待つ。


「私が……、私の魔法が、役に立つのなら……。ううん、違う。役立てたい、支えて、あげたい」


 祈るように。

 後悔しないように。

 アゲハが自分の想いを口にする。その手は黒髪から離れ、力強く握られている。

 溢れそうな涙を袖で拭くと、大きな瞳は前だけを向いていた。


「おう、その心意気だよ。そそのかした手前言いにくいけど、傭兵のことはよくわからないから、今後のことはあの子と相談して決めな。今はとにかく、休むことだけを考えるように」

「は、はい……」


 診療も兼ねた相談会は終了だ。

 アンジェは医者としての責務を全うしたものの、一日は始まったばかり。患者が腹を空かせている以上、次の業務に取り掛からなければならない。

 椅子から立ち上がり、大きな胸を揺らしながら、退室の前に問いかける。


「んで、何食べたい?」

「あ、その……、お寿司、とか」

「ねーよ。パンとフルーツジュースで我慢しな」

「は、はい……」


 女医は満足そうに立ち去る。患者のリクエストには答えられないが、少なくとも活力は取り戻せたようだ。

 一方、残されたアゲハは一人静かに窓の外を見つめる。

 差し込む陽射しは朝陽そのものだ。

 隣家の石壁は灰色に輝いており、わずかに覗く青空には雲一つ見当たらない。


(私が……、傭兵。私が、働く……。やれるの、かな? お母さん、どう思う?)


 自信などあるはずもない。

 アルバイトの経験すらないのだから、未知の領域に足を突っ込もうとしている。それに対して怯えることは、誰であれ避けられない。

 勇気が必要だ。

 本来ならば、彼女には備わっていない素養だった。

 しかし、今は違う。

 異世界に転生するも、一人っきりで泣くことしか出来なかった自分。

 その姿を見かね、手を差し伸べた少年。

 この出会いに感謝しつつも、恩義に報いたいと思ったのだから、それこそが活力となってくれた。

 地球生まれの日本人。この世界にとっては異物のような存在ながらも、神の意志によって降り立ったのだから、時に迷いながらも前へ進むしかない。

 元の世界に戻るため。

 母に気持ちを伝えるため。

 そして……。

 世界の名はウルフィエナ。

 人間と魔物が争う戦場。

 ここは既に線の上ではない。

 ボーダーラインも見当たらない。

 なぜなら、それは彼女の背後にあるのだから。

 それが強制的であろうと。

 自分の意志とは無関係であろうと。

 線を乗り越えた以上、後戻りは不可能だ。

 もっとも、時間を巻き戻したいとも思ってはいない。

 エウィンとの邂逅を消し去りたいとは、これっぽっちも願ってはいない。

 恐怖と感謝を抱きながら、アンジェよりも大きな胸に手を当て、ゆっくりと瞳を閉じる。

 くぅ。

 同時に腹が鳴ってしまったが、空腹ゆえの生理現象だ。誰にも聞かれてはいないのだが、頬を赤らめずにはいられない。


(朝ご飯食べたら、寝よう)


 食べたら眠る。引きこもっていた頃と何ら変わらないが、心境は正反対だ。

 不安は付きまとうものの、心は後ろを向いてはいない。

 内気な性格はそのままながらも、目的に向かって邁進するつもりだ。

 先ずは、エウィンを支えられるだけの人間になりたい。

 地球への帰還は後回しだ。実現可能かどうかもわからないのだから、目先の課題から取り組むしかない。

 もしも帰れなかったとしても、それならそれで構わないのだから。



 ◆



 少年は泣いた。

 押し黙ったまま、むせび泣いた。

 理由は明白だ。入院の費用が五万イールではなく十万イールに跳ね上がったのだから、心の中で壮大に泣き崩れた。

 もちろん、医者の前では笑顔を維持した。アゲハの体調が回復に向かっていると教えてもらえたのだから、喜ばしい限りだ。

 しかし、背負った借金は決して安くない。

 おおよそ十万イール。診察料は払い終え、入院代もほんのわずかだが支払い始めた。

 しかし、返済には程遠い。

 十万イール。借金としてはそれほど膨大なわけではないのだが、エウィンに関しては問答無用の大金だ。

 草原ウサギを日に数体狩っていた頃の収入が、千イール前後。そのほとんどが食費に消えていった。

 今なら、ウサギ狩りを継続したとしても、その数倍は稼げてしまう。多い時なら五千イールほどか。

 このペースなら、返済までにかかる期間はそう遠くない。

 二千イールずつ毎日納めれば、たったの五十日で済んでしまう。

 ゆえに、心の中であろうと泣く必要はないはずだが、小心者ゆえ、十万イールという規模に面食らってしまった。

 そもそも一万イール金貨すら手に取ったことがなかったのだから、足が震えてしまっても無理はない。

 稼がねば。

 改めてそう決意するのだが、傭兵稼業はそこまで甘くはない。

 アゲハの入院生活が二日目に突入する一方、少年は病院を後にしたその足でギルド会館へ向かう。

 今日もここは普段通りの賑わいだ。多数の同業者がひしめいており、とりわけ掲示板の前は汗臭さでいっぱいだ。


(僕も鎧とか着た方がいいんだろうけど……)


 エウィンの身なりは浮浪者のそれだ。残念ながら傭兵らしさは皆無であり、腰から下げている短剣が唯一の言い訳になっている。

 対照的に、周囲の大人達は誰の目からも傭兵だ。

 灰色の鎧をまとった、大剣使いの男。

 ハーネスで繋ぎ合わせた革鎧とホットパンツをおしゃれに着こなす女戦士。

 黒紅色のフード付きローブがよく似合う、長身かつニヒルな男性。

 杖を携帯しつつも、白金の胸部アーマーと腕部装甲を身に着けた女魔法使い。

 その在り様は人それぞれな上、派手な色合いから事情を知らぬ者からすれば、ここは仮装パーティそのものだ。

 ならば、この少年は浮浪者の真似事か。

 水浴びと洗濯は毎日欠かさず済ませているのだが、着ている服はへたってしまっている。

 前開きの長袖は本来ならば綺麗な緑色だったのだが、すっかり色あせ、生地も傷み切っている。そのほつれ具合から修繕は不可能だろう。

 黒いズボンも膝部分が穴あきだ。上着が清潔ならば格好がついたのだろうが、上下共にボロ雑巾と遜色なく、その姿が貧困であることを証明している。

 そうであろうと、心構えは傭兵のつもりだ。

 もっとも、武器や防具を揃えられていないのだから、そういった意味では半人前以下と言わざるを得ない。

 エウィンもそれは自覚しており、改善のためにも金を稼ぎたいと思っている。

 ましてや、アゲハが退院したら、さらに出費がかさんでしまう。

 今までのような生活は避けなければならない。不衛生なボロ小屋で彼女を保護してしまったがゆえの結果だと承知しており、ならば生活の改善が何に置いても最優先事項だ。

 今後は、彼女だけでも宿屋に泊めなければならない。

 そのためには宿代の支払いが日課となってしまう。

 つまりは、今まで以上の収入が必要だ。


(昨日みたいな美味しい仕事があるといいんだけど……)


 昨晩は二つも依頼をこなしてしまった。

 ウッドファンガーの傘を三体分、収集。報酬は一万イール。

 結果は数時間であっさりと完了だ。

 そのおかげでアンジェに頭金のような形で不足分を支払うことが出来たのだが、問題は二個目の方だった。

 夜も遅いことから遠征は避けたかったのだが、それ以前に目ぼしい依頼が見つけらなかった。

 掲示板の前で唸ること数十分、少年は満を持してその羊皮紙に手を伸ばす。

 草原ウサギの耳、四体分の収集。報酬は千二百イール。

 今となってはみすぼらしい仕事内容だ。

 耳の提出だけで良いことから、その他の部位、つまりは本体を精肉店で売りさばけば、そちらは一体あたり二百イールで売却出来る。

 それも加味すれば稼ぎは二千イールに届くものの、満足出来るかどうかは話は別だ。

 それでも、遠征はしたくないという本音もあり、エウィンはこの依頼を受注した。

 その結果、真夜中のマリアーヌ段丘を二時間以上も走り回ることになるのだが、少ない草原ウサギを何とか四体倒すことに成功する。

 残念ながら、行きつけの肉屋は閉店していたため、耳の提出およびウサギ肉の売却は朝一番に実施した。


(こうして眺めてると、やっぱり仕事って多くないし、偏ってると言うか、稼ぎづらいものばかりが余っちゃうんだな。これなんて、誰がやるんだか……)


 同業者と肩を並べながら、エウィンは一枚の羊皮紙を見上げる。

 そこに書かれている依頼内容はシンプルながらも異質だった。

 マリアーヌ段丘の中央に位置する高台で、指定したソーセージを焼いて欲しい。


(意味がわからない。報酬はたったの五百イールだし、儀式か何か?)


 その金額は、せいぜいが一食分の食費代か。ましてや、依頼主の思惑が一切わからぬ以上、この依頼に飛びつこうとは思えなかった。


(あっちの掲示板見よう)


 設置されている掲示板は一つではない。種類ごとに区別されており、最も賑わう場所は魔物討伐系の前だろう。

 多数の話し声が行き交うのだから、この辺りはとにかく騒がしい。

 エウィンのような一匹狼なら寡黙に仕事を探すのだが、チームを組んでいる場合、仕事選びの時点から相談し合わなければならない。

 得意不得意。

 好みの問題や収入面。

 好奇心や戦闘欲求を満たしたいのか、安全に狩りたいのか。

 様々な事情を加味しながら、仲間同士で方針を決めなければならない。

 そういった煩わしさとは無縁と言う意味では、独り身は気楽だ。

 報酬を独占出来る点も実は大きい。

 二人組なら収入を折半、三人組なら三等分か。

 もちろん、能力や貢献度合いによって差をつけてもよいのだろうが、遺恨を残さないような配慮が必要だ。

 エウィンは孤独な傭兵ゆえ、一人で仕事を選び、一人で挑まなければならない。

 にも関わらず、収入の半分近くはアゲハのために使う。

 食費だけでなく、今後は宿代も支払わなければならない。

 もっとも、この状況を悔いてもいなければ、恨んでもいない。

 彼女がいたからこそ、生き延びることが出来た。

 彼女のおかげで、強くなれた。

 本心からそう思っているのだから、働くことに抵抗など感じない。


(こっちの掲示板は依頼が多いな。その分、人も多いけど。それに……)


 羊皮紙が、次々と傭兵達によって剥がされていく。

 依頼の受注は早い者勝ちだ。

 需要があるからこそ供給もある。

 今回の場合、依頼に群がるのは荒くれ者達だ。

 エウィンもその内の一人なのだが、どうしても二の足を踏んでしまう。

 草原ウサギだけを狩り続けてきた弊害であり、ノウハウが圧倒的に不足している。昨晩、ウッドファンガーを倒してみせたが、経験不足であることは揺るがない。

 傭兵歴十一年。この事実は誇っても良いのだろうが、知識量は新人と大差ないどころか劣ってさえいる。


(一時的にチームを組んで、勉強させてもらうってのもアリなのかな。だけど、僕って戦闘系統わからないし……)


 腕は立つ。アゲハによって限界を突破した今なら、その辺りの魔物には引けを取らない。

 それでもなお劣等感を払拭出来ずにいる理由は、戦技も魔法も使えないためだ。

 戦技と魔法。本来ならば、これらを会得しているはずだった。


(アゲハさんのおかげで強くなれたけど、ここから先は改めて努力しないといけないのかな? うん、きっとそうなんだろうな。何が使えるようになるのか、今から楽しみ)


 覚える戦技と魔法は、当てはまる戦闘系統によって左右される。

 その数は全部で十一種類。

 戦術系。

 加速系。

 強化系。

 守護系。

 魔防系。

 技能系。

 探知系。

 魔攻系。

 魔療系。

 支援系。

 召喚系。

 人間は生まれた瞬間からこれらのどれかに分類されており、それが判明するタイミングは一つ目の能力を習得した時だ。

 回復魔法のキュアなら魔療系。

 攻撃魔法のフレイムなら魔攻系。

 自身の戦闘系統がわかれば、その後の見通しもたつため、己をどう鍛えれば良いのかの方針も立てやすい。

 そういった意味でも、把握は傭兵や軍人にとっては急務と言えよう。

 エウィンの場合はどうか?

 未だに魔法の一つも使えない。そのこと自体に負い目を感じてしまう理由は、傭兵の慣習に起因する。

 彼らが一時的に仲間を集める際、募集の仕方は人それぞれながらも、その多くは実力と戦闘系統を加味して同行者を募る。自分の、もしくは自分達の足りない部分を補うためであり、回復魔法の使い手がいなければ魔療系を、接近戦を得意とする猛者を求めるのならそれに見合った戦技の習得者を探せばよい。ミスマッチを防ぐという意味でも合理的な手法だ。


(一人前の傭兵になれたらチームを組んでみたいけど、いつになるのやら。一人前の定義がよくわからないけど……)


 傭兵の場合、等級という目安があるのだからそれを用いれば済む。

 エウィンは現在、等級一。この段階は新人の証であり、草原ウサギを狩るだけなら困ることはないのだが、活動範囲を広めたいのなら上げるべきだ。

 なぜなら、等級二以上でなければ通行出来ない地域が存在する。そういう意味では、等級二からが本番と言えよう。

 昇級は依頼をこなすことで上昇してくれる。同時に金を稼げるのだから、掲示板前に傭兵達が群がるのは必然だ。


(黒トラの牙集めって、やっぱり人気なんだな。一、二、三……、すごい、これだけで五枚も貼られてる)


 黒トラことジレットタイガー。それの討伐および牙の収集。傭兵におけるポピュラーな金策の一つだ。

 人体を容易く貫くその牙は、その硬度も去ることながら加工もし易く、様々な用途で求められることから、このように依頼が後を絶たない。

 ジレットタイガーは生息数も多く、依頼を抜きにしても狩れば狩るだけ儲かることから、金を確実に稼ぎたい時の最有力候補だ。


(チャレンジしてみようかな。だけど、ジレット大森林って遠いし、行って帰るだけでも何日かかるかわからない。また今度にして、あっちの掲示板見てみよう)


 ここが最も賑わっている場所だ。魔物討伐はそれほどに人気があり、少年は人混みから逃げるように隣へ移動する。

 そこも討伐という意味では同種だ。

 しかし、貼られている羊皮紙は幾分か少なく、だからなのか、同業者が一人もしない。

 エウィンは独占するように、堂々と依頼内容を見上げ始める。


(久しぶりに見たけど、相変わらず一番上の四枚は変わらないな。年季が入っててボロボロだし、危険性が低いのか、報酬も少額。だから誰も挑まないのかな? もしくは……)


 挑んだ者が返り討ちにあった。

 もしくは、逃げ帰って放棄したか。

 掲示板の最上段には、横並びに四枚の羊皮紙が君臨している。そのどれもが色褪せており、何十年とそこに陣取っている。

 ここは特異個体を掲載している依頼場所だ。

 特異個体とは、通常とは異なる魔物を指す。

 手ごわい、という意味では共通なのだが、そのどれもが卓越した何かを持っている強敵揃いだ。

 角が発達した個体。

 他と異なる体毛の持ち主。

 巨大な上に素早い曲者。

 魔物は動植物と同様に、多種多様な存在ではあるものの、その中で個性を持った者は基本的には見当たらない。

 草原ウサギなら草原ウサギでしかなく、ジレットタイガーならやはりジレットタイガーだ。

 人間には区別がつかないだけで、もしかしたら顔が違っていたり、足の速さが多少異なるのかもしれないが、傭兵にさえ見抜くことが困難な領域だ。

 つまりは、同種の中では差などありえないはずなのだが、極稀に、異常発達した存在が出現する。

 それを傭兵組合は特異個体と定め、危険性に応じて報奨金を設定する。

 金額はその魔物の強さや被害の大きさによって高まっていくのだが、最上段の四枚はなぜか非常に安い。

 だからなのか、誰にも狩られることなく、そこに残り続けている。


(四体共、王国からは随分と多い場所にいるみたいだけど、詳しいことは何も書かれてないな。これじゃ、いざ狩ろうとしても見つけられないんじゃ……。仰々しい絵だけはかっこいいけど……)


 特異個体用の羊皮紙には、標的の姿が描かれている。多少デフォルメされているのだろうが、生息域や特徴も含めて事細かに詳細が添えられているため、挑戦者は前もって情報を知ることが出来る。

 そういった意味でも、最上段の四枚は異例だ。その絵には臨場感が溢れているものの、どこに行けば出会えるのか、どのような生態なのか、そういった本質部分が記されていない。

 手がかりとしては不十分だ。探すだけでも何日、何十日とかかってしまうだろう。例えるなら、広大なマリアーヌ段丘で落とし物をヒントなしに探すようなものだ。


(そいつら以外はすごい金額だな。これなんか、二十万イールだって……。入院代が一瞬で返済出来ちゃう)


 特異個体の報酬は高額な傾向にある。

 なぜなら、少なくとも一人以上の傭兵を殺している連中であり、その危険性を無視することなど出来ない。

 生息場所が人里に近ければ、さらなる高額が設定されることもあり、腕に覚えのある傭兵なら一攫千金目当てに挑む価値があるだろう。


(だけど、探さないといけないからなぁ。たった一体の魔物を……。これがきっと大変で、だからチームを組んでる人達ほど、手が出しにくい)


 その推測で正しい。

 仮に十万イールの特異個体を狩る場合、これを一人の傭兵が当日中に狩って帰国さえ果たせたのなら、大儲けと言えるだろう。

 しかし、エウィンが顔をしかめたように、この依頼は獲物を探すことから始めなければならない。

 多数の魔物をかきわけながら、たった一体のそれを見つける作業。困難極まるはずだ。

 外見的特徴は羊皮紙に書かれており、傭兵ならば一目で区別出来るのだろう。

 とは言え、すぐに見つかるかどうかは何とも言えない。

 数日なのか?

 一週間以上かかってしまうのか?

 それは運否天賦であり、どうすることも出来ない。

 もしも遭遇までに五日かかってしまった場合、そしてその日の内に討伐および帰国出来たとして、それでも報酬は据え置きだ。

 十万イールを五日で稼いだと言うことになるのだが、これでも一人でこなせたのなら、儲けとしては申し分ない。

 しかし、二人、三人で挑んだのなら話は別だ。

 一日当たりの収入に計算し直すと、下手をしたら一万イールを下回ってしまう。特異個体を狩れるほどの強者でありながら、その程度の収入に落ち着いてしまうのなら、受けるメリットは少ない。

 隣の掲示板、すなわち魔物討伐を淡々とこなした方が確実に儲かるだろう。

 そういった意味でも、特異個体狩りはギャンブル性が高く、ましてや命を落とす危険性すらあるのだから、不人気な仕事と言わざるを得ない。

 それをわかっているからこそ、エウィンは羊皮紙達を眺めているだけだ。今はまだ手が出せないと重々承知しており、その内の一枚を剥がそうなどとは露にも思っていない。


(見てるぶんには面白いんだけどね。いざやるとなると腰が引けちゃうなぁ。あ、でも、僕って不思議と魔物の位置がわかっちゃうから、もしかしたら向いてるのかも?)


 そんなことを妄想していた時だった。

 建物の入り口方向から、奇妙な会話が耳に届く。

 周囲の傭兵達がとめどなく雑談しているのだから、そういう意味では賑やかな場所だ。

 そのはずだが、二人の声がハッキリと聞こえてきた理由は、自分のことを話しているのだと、直感的にわかってしまったためだ。


「お、妹あねさん、あれ。緑色の短い髪、年齢は十八歳……なんだけど、見た目よりも少し若い容姿。あの子じゃないっすか? どう思います?」

「ん~? 確かに浮浪者丸出しだな。きったね……、あんたが確かめな」


 男の声と女の声だ。声質から二人は共に若く、そういう意味ではエウィンと同世代のようだった。

 コツコツと近づく足音からも、少年は既に気づいている。

 誰かが自分のことを探しており、今まさに見つけた、と。

 相手が誰なのか? そのことが最も重要なのだが、探りを入れるにも先ずは話しかけられてからだ。


「あの~、すみません、ちょっといいですか?」


 その男はすぐ隣に立つと、申し訳なさそうな声を投げかける。

 威圧的な態度を予想していたことから、エウィンはこの時点で面食らうも、相手の腰の低さに引っ張られるように頭を下げて応対を開始する。


「あ、はい、何でしょうか?」

「エウィンさん、であってますか?」


 率直な問いかけだ。取り繕う気もなければ、だますような素振りすら見せない。

 眼前の男はエウィンよりほんのわずかだが長身だ。

 年齢も一つか二つ程度年上のように見える。

 おかっぱ頭の茶色い髪を傾けながら、心底申し訳なさそうな表情を浮かべており、いささか距離感が近いものの、落ち着きを払った男のようだ。

 着ている服は灰色の庶民着と黒い長ズボンながらも、背中には鋼鉄製の片手剣を背負っている。

 傭兵だ。もしくはそれに準ずる何かのようだ。

 どちらにせよ、情報が不足しているのだから自己紹介も兼ねて問いかける。


「はい、エウィンです。あなたは?」

「俺はキールで、後ろのおチビちゃんが……、イタッ! 蹴らなくても……」

「うっさい。余計なこと話すな」


 彼らは二人組で確定だ。

 キールと比べ、もう一人の少女は随分と小さいものの、態度だけは偉そうに見える。

 黒い髪を左耳の後ろで束ねており、俗に言うサイドテールという髪型だ。赤い服の上に革製の鎧を装着しており、腰の短剣も飾りではないのだろう。

 ズボンは短く、細い足を露出させている。

 生意気そうな顔つきだが、実はキールはおろかエウィンよりも年下だ。身長からもそのように見えるため、態度だけがとにかく大きい。


「僕に何か……?」


 話を進ませるため、話しかけられた方から促す。眼前の二人が何者なのか、未だに不明なままだ。

 ここはギルド会館の中ゆえ、多少声を荒げたところで騒ぎにはならない。そういう意味でも問答は継続だ。


「実は、エウィンさんと手合わせを願いたく、よろしいでしょうか?」

「え?」


 男の言動は丁寧ながらも、内容は物騒だ。

 ゆえに少年は驚くも、後方の少女は苛立つように言ってのける。


「いいからさっさと行くわよ。マリアーヌ段丘で、あんたのことコテンパンにしたげる」

「え、ええ⁉」


 エウィンの知らないところで、何かが動き出している。

 この出会いはそれを暗示しており、それを知るためにもついていくしかないようだ。

 もちろん反対したのだが、少女は聞く耳持たない。

 街中での戦闘などご法度なため、こうなってしまっては逃げるか戦うかのどちらかだ。

 可能なら逃げたい。

 しかし、今回はそれが許されない。

 相手は二人組。ましてや実力が読めない以上、人通りの多い城下町を戦場に選ぶことだけは避けなければならなかった。

 人間相手に力を振るう。

 もちろん、エウィンにこのような経験はないのだが、これはそういう意味でも重要な一戦だ。

 敵は魔物だけではない。

 この時のエウィンは、そのことに気づけてはいないのだから。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 大変な事になりましたね。果たしてどうなるのか気になります!
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