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第六十八話 不格好であろうと

 その森は、イダンリネア王国から遥か南西に位置する。

 周囲は資源に乏しいため、傭兵でさえ足を運ぶことは稀だ。

 迷いの森。魔女にとっての隠れ里であり、人除けの結界が侵入者を外へ放り出す。

 その奥で。

 集落の片隅で。

 二人と一人が睨み合う。

 そこは家屋すら見当たらない、殺風景な空き地だ。誰もが仕事に取り掛かる時間帯ながらも、集まった野次馬は一人や二人では済まない。主催者が宣伝したわけではないのだが、騒ぎから生じた口コミによって人が人を呼び、今に至る。

 祭りのように賑わう中、エウィンとアゲハは黙るしかない。

 ここまでは完全に劣勢だ。

 エウィンはリードアクターを発動させたにも関わらず、苦戦を強いられている。

 対戦相手のモーフィスはそれほどに手ごわい。

 いかに老人であろうと、筋肉をまとった巨体が非力なはずもなく、ましてや嘘のように素早いことから、エウィンとしても八方塞がりだ。

 それでもなお、闘志は微塵も失われてはいない。


(一か八かだ、なんて言っちゃうと格好つけちゃうけど。ここからは、出し惜しんでなんかいられない)


 二人がモーフィスと戦う理由は、ハクアの提案によるものだ。

 彼女は年齢不調ながらも、この里の長を務めている。アゲハほど若くはないが、老けているわけでもない。

 魔物の知り合いがいる程度には顔が広く、それこそがオーディエンだ。

 十二年前にエウィンの父親を殺した魔物。

 一転して、昨日はこの少年を庇ったのだから、その行動には一貫性が見いだせない。

 オーディエンは謎多き存在だ。

 ハクアもその点については同類と言えよう。

 ゆえに、エウィンはより多くの情報開示を求めるも、条件を提示されてしまう。

 それが模擬戦の勝利であり、眼前の老人を負かすことで様々な情報が明かされるはずだ。

 エウィンは歩みを進める。対戦相手との距離は離れており、殴るにしても近づかなければならない。


(この人が相手なら、安心して全力が出せる……)


 先ずは認める。

 モーフィスはそれほどの強者だ。この半年で様々な相手と戦ってきたが、オーディエンを除けば過去一番の強敵と言えよう。

 ゆえに、手加減はしない。殺し合いでなくとも、少年の右手がついにアイアンダガーを引き抜く。

 その行動に観衆がざわつく中、モーフィスは至って冷静だ。


「ほう、腰の短剣は飾りじゃなかったか。構わん、斬りかかっ……」


 老人が言い終えるようりも前に、事態が急変する。

 ここからは反撃の時間だ。エウィンが口火を切るのだが、その一手は斬撃ではない。

 数ある選択肢から選んだ手段は、投擲。投げナイフを放るように、傭兵は唯一の武器を対戦相手へ投げ放つ。

 それでもなお、モーフィスを驚かせるには至らない。

 腹部へ迫るその凶器を、いともあっさりと掴んで止める。刃の部分をガッシリと握るその胆力は、日々の鍛錬だけでは説明がつかない。

 この瞬間、天秤は一層モーフィス側へ傾く。

 唯一の武器を手放した以上、エウィンの戦力低下は揺るがない。

 そのような幻想は、この少年自身が砕いてみせる。

 予期せぬ追撃が、モーフィスに尻餅をつかせた瞬間だ。


「ぐう⁉」


 追撃という表現は誤りか。

 なぜなら、アイアンダガーの到達とほぼ同時に、それは繰り出された。

 視線を落とすその顔へ叩き込まれた、渾身の打撃。右頬を強打されたため、さすがのモーフィスもよろめき、ついには尻餅をついてしまう。

 自身に何が起きたのか?

 誰が何をしたのか?

 考えるまでもない。

 しわの数を増やしながら、呆けるようにエウィンを見上げる。

 警戒しながらも、殴られてしまった。

 リードアクターによって強化された身体能力を見誤ったわけではない。

 ただただ単純に、少年から視線を外してしまった。

 その隙を突かれた結果、顔を殴られ、こうして大地に座り込んでいる。


(短剣は囮じゃったか)


 つまりはそういうことだ。

 エウィンとしても、単なる思い付きだった。

 それでもこれは模擬戦ゆえ、試さない理由がない。

 アイアンダガーを手早く放り、自身もまた、追いかけるように走り出す。

 追い抜くことは出来なかったが、そもそも真っすぐ走ったわけではない。

 わずかに左方向へ逸れた理由は、対戦相手の視界から外れたいという目論見が作用した。

 モーフィスが俯くように短剣を掴んだ時点で、エウィンは既に殴りかかっている。

 巨体の真横から。

 その右頬に狙いを定めながら。

 頭部を刈り取るように、モーフィスの顔面へ拳をめり込ませた。

 言うなれば、時間差のない連撃だ。二度目は通用しないだろうが、それならそれで構わない。


「ぶっつけ本番でしたが、どうですか?」

「やるもんじゃのう。まさかまさかの尻餅じゃ」


 一杯食わされたにも関わらず、モーフィスは上機嫌だ。ゆっくりと立ち上がり、短パンの砂埃をパンパンと払う最中も、その顔は綻んでいる。


「僕としては、けろっとしてることに衝撃なんですけど……」

「馬鹿言うな。ほれ、少し腫れとる。楽しくなってきたのう、とことん少し付き合ってもらうぞい」


 事実、老人の頬は左右でボリュームが異なる。右側がわずかに膨らんでおり、さらには赤くにじんでいる。

 それでも、致命傷とは程遠い。

 試合は当然のように続行されるのだが、エウィンはこのタイミングで異を唱える。


「でも、僕達の勝ちです」


 妄言ではない。

 見栄を張ったわけでもない。

 思い描いた通りに時間を稼げたのだから、作戦はついに完遂される。

 これはエウィンとモーフィスの力比べではなく、ましてや一対一の試合ですらない。

 二対一だ。不公平であろうと、数の利は彼らにある。

 未だそのことに気づけぬ以上、モーフィスの敗北は必然だった。


「ぬおっ⁉ 俺の短パンが! 短パンが燃えとるー!」


 青い炎が、ショートパンツを瞬く間に燃やし尽くす。

 当然ながら、モーフィスは慌てふためくも、炎を払おうとした手だけでなく、下半身にも火傷の跡は一切見当たらない。

 さらには、下着もそのまま残ったことから、局部の露出は避けられた。

 そうであろうと、半裸からほぼ全裸へ悪化したことは事実だ。

 トランクス一丁の巨体を眺めながら、遠方の審判がついに口を開く。


「そこまで! モーフィスはさっさと帰って服着なさい!」


 ハクアが声高々に宣言したことから、里の者達は大いに湧き上がる。

 予想外の決着だ。

 誰もかれもがモーフィスの勝利を疑わなかったことから、この事実には悲鳴のような歓声が飛び交う。

 一方、敗者は恥ずかしがる素振りすら見せない。


「ガハハ! 嬢ちゃんに一杯食わされたわい! いや、坊主も共犯か!」


 その通りだ。

 ズボンだけが燃えた理由。

 燃やした犯人。

 当然ながら、アゲハの仕業に他ならない。

 深葬。彼女が転生の際に与えられた青い炎。触れるだけで対象だけを塵一つ残さず燃やせる業火であり、それは短パンも例外ではない。

 だからこそ、モーフィスと下着は延焼を免れた。

 その隙を作ったのがエウィンであり、二人の連携が勝利を引き寄せたと言っても過言ではない。

 アイアンダガーの投擲を皮切りに、エウィンが走り出す。

 実は、一瞬遅れてアゲハも駆け出しており、その結果、モーフィスは三方向から包囲されていた。

 正面から迫る短剣。

 右側にエウィン。

 左手方向のわずかに離れた位置にアゲハ。

 そうであると知らずに、アイアンダガーを止めた瞬間、モーフィスは右から殴られ、尻餅をつく。

 そして立ち上がるも、背後にはアゲハが息を潜めて待機していた。

 ひっそりと近づき、わずかに屈めば準備は完了だ。

 彼女の指先がショートパンツに触れたことで、青い炎が燃え移る。

 エウィンとしても、感慨深い。思い描いた通りに作戦が遂行出来たことも去ることながら、協力して試合に勝てたことから喜びもひとしおだ。

 パンツ一丁の老人を眺めながら、しみじみと思いをはせる。


(トランクスなら、大差ないような……)


 事実、見た目だけなら似たり寄ったりだ。

 実際には丈の長さや生地の薄さが異なることから、ハクアの言う通り、モーフィスは早々に帰宅すべきだ。


「じじい! コラ! 子供達も見てるのよ!」

「俺の筋肉をか! そーれ、その目に焼き付けい!」


 追いかけっこを始めた大人達を他所に、エウィンはアゲハに歩み寄る。この試合における功労者であり、労わずにはいられない。


「バッチリでしたよ。おかげであの人に勝てました」

「あ、ううん、作戦勝ち、だよ」


 エウィンがこのタイミングで白いオーラを霧散させると、アゲハも長い黒髪を本来の姿へ戻す。

 毛先だけに残った、輝くような青。転生前にはなかったアクセントながらも、今はすっかり馴染んでいる。

 疲弊しているわけではないのだが、少年はため息のように息を吐いてしまう。


「いやはや、こんなに強いなんて。世界は広いと言いますか、強くなれたと思い上がっていましたけど、僕もまだまだなんですね」

「そ、そんなことは……。エウィンさんは、すごいと、思うよ」

「はは、お世辞でも嬉しいです。ところで、アゲハさんから見て、半裸のおじいちゃんってどうなんですか?」

「え、普通に、気持ち悪い、かな……」

(あ、そうなんだ……)


 この姿を作り出した張本人なのだが、彼女はモーフィスを見ようとはしない。

 敗者はトランクス姿で疾走中だ。逃げ惑う住民からは悲鳴があがるも、変質者は気にも留めないばかりか、満足そうに笑っている。

 その老人を里長が怒り狂いながら追いかけており、その光景は獄絵図に他ならない。

 普段は静かな里が賑わっている。そう捉えることも出来るのだろうが、逃げ惑う女性達は誰一人として笑っていない。

 今日という一日は始まったばかりだ。

 そうであろうと、エウィンとアゲハは充足感に浸っている。

 それが許される程度には、今回の模擬戦は厳しいものだった。



 ◆



 騒ぎが静まった頃合いに、三人は盛り上がることなく帰宅する。

 口数が少なかった理由は明白だ。

 変質者の鎮圧には成功するも、ハクアは精神的に疲弊してしまう。

 不機嫌な彼女が黙る以上、エウィン達もトボトボと歩くしかなかった。

 豪邸とは程遠いながらも大きな一軒家にたどり着くと、少年は愚痴るように本音をこぼす。


「気を緩めたら、どっと疲れが……。あ~、お茶飲みたい」


 喉が渇く程度には疲れてしまった。

 顔を歪めたくなるほどの疲労感は、リードアクターに起因する。

 従来は十秒間しか維持出来なかったからこそ、体力の消耗はある程度抑えられていた。

 今はより長い時間、闘気をまとっていられる。

 その弊害がこの疲労であり、靴を脱いで居間に進むと勢いそのままに力なく倒れてしまう。


「だらしなく寝転んでないで、勝手に飲みなさいよ。ほら、アゲハを見習いなさい。帰って一番、手を洗いに行ったわよ」


 その白衣には染み一つ見当たらない。

 長すぎる赤髪は手入れが行き届いており、魔眼で勝者を見下ろしながらも口を開いた結果が説教だ。

 ハクアの言動が正しいのだが、エウィンとしても反論せずにはいられない。


「うわ、こんなこと言われたの、十数年ぶりです。母さんを思い出すなぁ、チラッ」

「な、なによ……」


 客人でありながら、エウィンの態度はでかい。艶やかなカーペットに伏しながら、意味深に家主を見上げる。


「僕が勝ったんですから、色々教えてくれる約束でしたよね?」

「いちいち言わないでも覚えてるわよ」


 昨日からこの家に滞在しているにも関わらず、ハクアは謎多き魔女のままだ。

 もっとも、悪人ではないと見抜けており、だからこそ、こうして子供のように甘えられる。


「とりあえずお茶~」

「うるさいわね。持ってきてあげるから、手洗いや着替えを済ませなさい。あんた、汚いわよ」


 モーフィスと戦ったのだから、汚れて当然だ。

 言われるがまま身だしなみを整えた頃合いに、台所からハクアとアゲハが現れる。


「まぁ、勝ったことだし、茶菓子くらいは付けてあげる」

「おー!」

「はい、芋けんぴ」

「おー……」

「これ見よがしに盛り下がるんじゃないわよ!」


 こうして茶会が始まるも、テーブルを囲むことが目的ではない。

 コップ片手に、エウィンがハクアへ問いかける。


「ハクアさんとモーフィスさんが協力したら、普通にオーディエンを倒せるんじゃ?」


 そう思いたくなるほどには、先ほどの老人は強かった。巨体がまとった筋肉は決して飾りなどではなく、その膂力はエウィンを軽く上回る。

 勝てたことは偶然か?

 もちろん、そうではない。モーフィスは手加減しながらも、その範疇で全力を出しており、つまりは油断だけはしていなかった。

 機転と人数差を活かした勝利だ。


「モーフィスじゃ囮にすらなれないわ。真っ先に狙われて、一瞬で殺されて、結局は私とあいつの一対一」

「う、そ、それほど……ですか」

「ええ。あんた、オーディエンを倒したいとか言ってたけど、はっきり言って夢のまた夢よ」


 歯に衣着せぬ助言だ。事実を淡々と述べているだけなのだが、だからこそ、エウィンは肩を落としてしまう。細く、硬い芋けんぴを一本つまみながら、その甘さを堪能せずにはいられない。


「だけど、アゲハさんを元の世界に帰してあげたい……」

「格好つけるのか芋けんぴ食べるのか、どっちかにしなさいって。なんだかんだ、あんたが一番食べてるじゃない」

「せ、成長期なので……」


 苦しい言い訳だ。

 それもまた事実なのだろうが、ハクアは当然のように受け流す。


「はぁ。一つだけ良いことを教えてあげる。あんた達にとっては最悪なんでしょうけど。オーディエンを倒したところで、アゲハは地球に帰れないわよ」


 そう言い終えるや否や、コップに手を伸ばすアゲハ。真面目そうに背筋を正しており、長い髪は椅子の脚部まで垂れ下がっている。

 一方で、エウィンとアゲハは動けない。意味不明な助言が、思考をかき乱した結果だ。

 そうであろうと、今は言葉を絞り出すしかない。


「それって、どういう……」

「あいつは平然と嘘をつく。あんた達を騙すために。ううん、利用するために」

「でも、あいつを倒せば、知り合いを紹介してくれるって……。その人なら、地球へ案内してくれるって……」


 炎の魔物は言っていた。

 自身には無理だが、知り合いに頼めばそれも可能だろう、と。

 だからこそ信じてしまったのだが、迂闊だったとハクアが断罪する。


「あいつの知り合い……ねえ。そいつにそんなことが出来るなんて微塵も思えない。仮に可能だとして、でもね、絶対に協力は得られない。そいつは今封印されてるし、解き放たれたら最後、人間を一人残さず殺すもの。私も含めて」


 この説明が、エウィンの意識を濁らせる。

 何を信じればいいのか?

 誰が真実を教えてくれるのか?

 何もわからないまま、震えるように問いかける。


「だったら、僕達はどうしたら……」

「そうね。オーディエンの戯言に振り回されてないで、自分達で帰還方法を探すしかないわね」

「そんな……」


 シリアスな空気を作り出すも、エウィンは小皿へ腕を伸ばす。芋けんぴを食すためであり、その手は先ほどから止まらない。

 対照的に、ハクアはどこまでも冷静だ。


「アゲハ、厳しいことを言うようだけど、あなたが率先して考えなさい。転生した本人なんだから、手がかりはあなた自身と言っても過言じゃない」


 そして、彼女も芋けんぴを口に運ぶ。残された本数はわずかゆえ、食い尽くされる前に食べなければならない。

 二人が咀嚼しながらもアゲハを見つめる中、居間は当然のように静まり返る。

 ゆえに、フォローが必要だ。

 エウィンはゴクンと喉を鳴らすと、芋けんぴを一本掴み、アゲハへ笑顔を向ける。


「僕も手伝いますので、一緒に探しましょう」

「う、うん、ありがとう……」

「芋けんぴ美味しいですよ。どうぞ」

「ひゃっ⁉」


 恋人のように、エウィンがアゲハの口元へ芋けんぴを運ぶ。

 それを受けて、彼女の口が恥ずかしそうに開閉されるのだが、ハクアは一人静かに白けてしまう。


(私は何を見せられているのやら。無駄に落ち込まないところは、褒めてあげたいけど……)


 地球への帰還に関しては、スタート地点に戻されてしまった。

 オーディエンの戯言を信じたことが誤りなのだが、エウィンは鼓舞するように疑問点を口にする。


「そもそもの話なんですけど、オーディエンの知り合いってどんな奴なんですか? いやまぁ、オーディエンについてもさっぱりなんですけど……」


 この問答は、片方が何も知らないままで進められていた。

 エウィンは単なる傭兵に過ぎない上、アゲハは半年前に転生した日本人。無知であることは当たり前なのだが、彼らの眼前には全てを知る魔女が座っている。

 真っ赤な髪はそれだけで凛々しく、お茶を飲む姿すら美しい。

 魔眼がチラリと動いたタイミングで、ハクアは静かに語りだす。


「そいつの名前はセステニア。千年前の戦いで、封印するしかなかった化け物よ」


 いくつかの情報が開示されるも、エウィンは眉をひそめてしまう。

 なぜなら、新たな謎が浮かび上がった。

 ゆえに、聞き返さずにはいられない。


「千年前? 化け物? セステニアなんて魔物は聞いたことがありませんけど、特異個体か何かってことでいいんですか?」

「いいえ、そいつはおそらく……、人間」


 この瞬間、エウィンは椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げる。

 意味がわからない。

 ハクアこそ、嘘を言っているとしか思えない。

 彼女が真顔でなければ、客人として演じるように笑っていただろう。

 沈黙が三人を包み込むも、ここまで黙っていた四人目が会話に加わる。


「ハクアの言ってることは本当だよー。わたしもそこにいたし」


 白紙大典。真っ白な古書であり、表紙はおろか中のページにも一切の文字が見当たらない。

 今はテーブルの端に置かれており、本ゆえに飲食が不要なのか、三人を黙って見守っていた。

 この発言を受けて、エウィンがついに頭を抱える。


「こ、この本についてもまだ何もわかってないー! うわー、もうギブアップしたーい!」


 心が折れた瞬間だ。

 意味不明な情報が波の様に押し寄せたため、少年はついに音を上げてしまう。


「まぁ、無理もないわね。この話は、千年前まで遡る必要があるんだもの」

「アゲハさん、後は任せました! 僕は昼寝します! お昼ご飯が出来たら起こしてください!」


 昼寝と言うよりは二度寝の時間帯だ。

 昼食までは数時間の猶予があるため、ぐっすりと眠れるだろう。

 お茶を飲み干し、ふらりと立ち上がると、エウィンは無人のカーペットに再び倒れ込む。疲労も相まって、意識の停止は一瞬だった。

 話し合いから一人が脱落した以上、ハクアとしても締めくくるしかない。


「マリアーヌ様、この話はまだ今度にしましょう。情報の精査が必要かもしれません」

「そだねー。あの女を説明するには、事前情報が多すぎる」

「アゲハも、それでいいわね」


 この問いかけに対し、アゲハは無言のまま首を縦に振る。

 ここからは、お茶と芋けんぴを楽しむだけの時間だ。アゲハは一言も話さないため、家主と本だけが話を進める。


「マリアーヌ様のことは、どこまで話せば……」

「全部でいいけどー? 知りたがってるだろうし、教えないと意味不明だろうし」


 表紙を愛おしそうに撫でるハクアに対し、白紙大典の反応は素っ気ない。冷めているわけではなく、淡々と持論を述べたがゆえだ。


「アゲハ、悪いことは言わないから、オーディエンのことは一旦忘れなさい。今のあなた達じゃ絶対に勝てないし、勝てたところで何も得られない」


 非情な通達だ。

 つまりは、このままでは絶対に地球へ戻れない。

 そして、母親との再会も果たされない。

 騙されていると教えられた以上、新たな希望が必要だ。

 もっとも、アゲハは既に見出している。


「は、はい……」


 消え去りそうな声だ。

 しかし、その目は泳ぎながらも、最終的にはエウィンを捉えて離さない。

 この光景を眺めながら、真っ白な本が年寄りのようにつぶやく。


「これが若さ。わたし達には眩しすぎる」

「私を巻き込まないでくだ……あ! マリアーヌ様には私がいますよ!」


 赤髪の魔女と純白の本が二人だけの世界で盛り上がる中、アゲハは一人静かにお茶をすする。

 いつも通りの談笑でこの家が盛り上がる中、少年の寝息は昼食まで続いた。

 セステニア。

 エウィンにとって、この名前は赤の他人だ。

 今はまだ、それで構わない。

 彼らの邂逅は台本に書かれており、一方で結末のページだけは白紙のままだ。

 その女がイダンリネア王国を滅ぼす時、最後の希望として緑髪の傭兵が駆け付ける。

 青年の名前はエウィン・ナービス。今は涎を垂らして眠っていようと、この若者こそが全てを乗り越え、アゲハをその地に導いてみせる。

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