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第六十七話 笑みを浮かべて

 夜の森は無音ではない。

 なぜなら、真っ暗な空間には様々な音が生まれては消えていく。

 風が奏でる、枝葉のささやき。

 昆虫が歌う、静かな大合唱。

 その森の場合、野良猫が落ち葉の上をシャリシャリと踏み歩くため、耳をすませば多種多様が音を感じ取れるはずだ。

 その森の奥には、魔女が作り出した集落が存在している。

 もっとも、住民の大半はただの人間だ。魔眼を宿せる人物は女性に限られるため、半数近くを占める男達はその瞳に異変などない。

 この男もその内の一人だ。

 調理中の夕食を置き去りにして、玄関の扉を静かに開く。


「どうしたんじゃ?」


 客人の魔眼を見つめ返しながら、開口一番問いかける。

 男の方が遥かに長身なため、構図としては彼女の赤髪をどうしても見下ろしてしまう。

 これが両者の当たり前であり、訪問客は臆することなく口を開く。


「少し、いいかしら?」


 彼女の名前はハクア。この里における頂点であり、その意味は地位と実力、両方を兼ねる。

 その姿は日中と変わらない。ワンピースの上に大きな白衣をまとっており、偉そうな雰囲気は依然として健在だ。

 見た目だけなら、三十代と言ったところか。老け込んではいないのだが、その雰囲気からは異常な年季を漢字させる。


「おう、俺の煮物でも食べに来たのか?」

「そんなはずないでしょ。あいつらと一緒にさっき食べたわよ。ここに入るのも、久しぶりね」


 男の名前はモーフィス。六十六歳の老人ながらも、はち切れんばかりの筋肉が邪魔で着られる服は限られてしまう。

 背丈も二メートルを超えており、この里一番の長身だ。

 素朴な家屋ながらも、一人暮らしには広すぎる。いかにモーフィスが巨体の持ち主であろうと、余らせている部屋は一つや二つでは済まない。

 年季を感じさせる家具を見比べながら、ハクアは用意された座布団に腰を落とす。


「あなたの感想を、聞かせて」


 直球な問いかけだ。

 そうであろうと、男はその意味を理解しており、もう一つ座布団の上であぐらをかきながら、静かに唸る。


「そうじゃのう。正直なところ、何もわからん。遠目からでもある程度はわかるもんじゃが、今回ばかりは本当にわからん」


 招かれざる客人が二人、この里に現れた。

 エウィンとアゲハ。

 傭兵が迷いの森に入り込むことは珍しくないのだが、例外なくこの里には近寄れない。

 そのような結界が作用しているためであり、エウィン達も本来ならば方向感覚を失い、森の外へ吐き出されるはずだ。

 しかし、そうはならなかった。

 彼らはあっさりと里に足を踏み入れてしまう。

 この非常事態に対処したのが、眼前の里長だ。

 モーフィスは里の民に紛れて遠方からその様子を眺めるに留まった。

 騒動は炎の魔物が現れたことでさらに混沌を迎えるも、エウィンが白い光を披露したことで一旦は落ち着く。

 それが日中の出来事であり、ハクアが彼らを自宅に招いたことから、里の者達は安堵と共に日常へ戻る。


「一つ、お願いがあるんだけど」

「ほう?」

「明日、あの子達と戦ってくれない? 腕試しを兼ねた、模擬戦のていでね。あ、ちゃんと手加減なさいよ」


 眼前の里長はお願いという言い回しをしたが、モーフィスは自分の立ち位置を承知している。

 これは実質の命令であり、自身が指名された理由も把握済みだ。


「それは構わんが、急な話じゃのう。明日も子供達の鍛錬があるんじゃが……」

「終わってからにして。売り言葉に買い言葉で、そういう流れになっちゃったの。オーディエンが余計なことを言うから……」

「あの魔物か……。里長は本当に顔が広いのう。伊達に年はとってないということか。それで、俺は手加減しつつも、最終的にはあの二人を負かせばいいんじゃな?」

「ええ。間違っても殺すんじゃないわよ。エウィンはいくらか頑丈でしょうけど、アゲハは本当に脆いから」


 ハクアの指摘は正しい。

 エウィンは屈強な傭兵だ。巨人族とすら殴り合えるその肉体は、もはや人間とは言い難い。

 一方で、アゲハは半人前の傭兵だ。体力は大きく向上したが、身体能力は人間の枠内に収まっている。


「アゲハ……、嬢ちゃんのことか。俺にはただの巨乳ちゃんにしか見えなかったが、里長は妙に警戒してたよな? なんでじゃ?」

「私だけでなくサタリーナもそうなんだけど、アゲハが化け物に見えるの。今だってそう。探せば他にも共感してくれる子はいるでしょうね」

「ふ~む、魔眼を介すると、そういう風に見えてしまう、と……」

「正しくは、第一形態以上が条件でしょうね」


 魔眼。黒目の部分を縁取るように、赤線の円が宿る瞳。

 魔眼の所有者を魔女と呼ぶのだが、大半が平凡な女性だ。

 しかし、その内の一部が魔法とも戦技とも異なる異能を持ち合わせており、それを魔眼の第一形態と呼ぶ。

 ハクアを筆頭に、その力を持った魔女には、アゲハが人間の姿をした化け物に見えてしまう。直視するだけで戦意を喪失するほどには恐ろしく、少なくとも森を監視していた魔女は恐れをなしてハクアに泣きついた。

 加齢と共に色を失った髪をかきながら、モーフィスとしても問わずにはいられない。


「嬢ちゃんは魔物か何かか?」

「いえ、おそらくは人間よ。だけど……、いえ、今は気にしないで。里の子供達を鍛えるように、いつもの要領で負かしなさい」

「それは構わんが……。坊主の方は、いくらか動けそうじゃのう」

「そうね。エウィンに関しては、有象無象の雑魚だと思わないで。なんたって、あのエルを負かしたらしいから」

「ほう! あのおっぱいちゃんをか! 若いのに、大したもんじゃ」


 エルディア・リンゼー。後天的に魔眼を宿した傭兵。

 城下町唯一の武器屋における看板娘であり、元軍人でもあり、今はイダンリネア王国に移住した魔女を束ねている。

 彼女の実力は傭兵の中でも突出して高いのだが、エウィンはエルディアとの練習試合で勝利しており、その事実がモーフィスを大いに驚かせる。

 対照的に、ハクアは至って冷静だ。


「エウィンはまだ十八歳。その割には、そこそこ強い……かもしれないし、そうでもない? 私には見極められないから、あなたが確認して」

「あい、わかった。確かに、里長にはわからんか」


 居間に立ち込める、煮物の甘い香り。

 ふと訪れた、夜特有の静けさ。

 そういったものに左右されず、赤髪の魔女が面倒くさそうにつぶやく。


「あの子、笑ったのよ」


 突拍子もない発言だ。

 あの子が誰で、笑ったタイミングはいつだ?

 何もわからないため、モーフィスはしわだらけの顔に新たなしわを作る。


「エウィンのことか?」

「ええ。昼間、私があの子のことを殺そうとしたでしょう?」

「鬼気迫る勢いで、やろうとしてたのう。里長の能力を破っただけで、少々横暴だとは思ったが……」

「殴ろうとしたその瞬間、エウィン……、あいつ、死を覚悟するように笑ったの。信じられる? どんな心理状態って話しよ……」


 ハクアの見間違いでないのなら、エウィンの反応はどこか不気味だ。

 ゆえに、モーフィスとしても問わずにはいられない。


「恐怖の余り……、いや、あるいは……。坊主について、もう少し教えてくれんか?」

「私もたいして知らない。両親が魔物に殺されたとか? あぁ、父親の方は、さっき現れたオーディエンの仕業よ。どんな因果があって……」

「なるほどのう。と言いつつ、すまんがさっぱりじゃ」

「でしょうね。明日、戦いながら探って」


 話し合いはこれにて終了だ。

 ハクアは里長として、モーフィスに指示を出す。

 明日の朝、模擬戦という名目でエウィン達と戦い、実力だけでなくその心理状態を見極めた上で、手加減しつつも勝て。

 シンプルなようで面倒極まる内容だ。この老人もそうであると理解しており、気怠そうに白髪をかきむしる。

 勝つだけなら問題ない。

 手加減してもなお、完勝のはずだ。

 そのはずながらも、モーフィスは思い知る。

 命を手放す人間との、戦いにくさを。



 ◆



(そういうことか!)


 その瞬間、モーフィスは気づかされる。

 アゲハの背後に回り込み、背中をこずくように殴るつもりでいた。

 里長がセッティングしたこれは殺し合いではなく、実力を測るための模擬戦。命を奪うことは禁止されており、男もそれは百も承知だ。

 アゲハは脆い。そう教わった以上、モーフィスの拳は急激に減速する。

 そのはずだった。

 予想外の事態が、老人を心底驚かせる。

 直前に打ち負かしたエウィンが、アゲハを押し出して入れ替わってみせた。少年は両腕を負傷しており、戦意の喪失は必然のはずだ。

 それでもなお、エウィンは彼女を庇った。まるで、自分なら殴られても構わないという気概だが、事実そう判断した上での行動だ。

 勇気ある決断とその瞬発力に、モーフィスは目を見開いてしまう。呆気にとられたとも言えるのだが、理由はそれだけではない。

 笑っている。

 エウィンは嬉しそうにその顔を綻ばせており、モーフィスとしてもその意味を考えさせられる。

 助けられたことを喜んでいるのか?

 身代わりになれたと満足感に浸っているのか?

 答え合わせは、残念ながら後回しだ。

 一瞬ながらもギョッとしてしまったことから、老人は打撃を止め損なってしまう。

 その結果、エウィンは腹部を殴られ、前のめりに俯く。

 致命傷にはなりえない威力だ。

 そのはずだが、モーフィスは慌てた素振りで拳を引っ込める。


「ぼ、坊主……」

「い、イタタタタ、なんて重たいパンチ……」


 演じるように痛がるも、事実そうなのだから仕方ない。エウィンはよろめくように一歩、二歩と後ずさるも、モーフィスと向き合うことだけは決して止めない。

 その姿を眺めながら、他の二人は異なる反応を示す。

 先ずはモーフィス。その背丈は山のように高く、だからこそ、その場に根付いて動かない。

 そして、アゲハ。負傷し、苦しんでいるエウィンに駆け寄り、触れるだけでその傷を癒し始める。


「だ、大丈夫?」

「はい。やっぱりこの人、めちゃくちゃ強いです。傭兵なら余裕で等級四、いや、それ以上だって夢じゃないくらいには……」


 エウィンの推測は正しい。

 等級四に至る条件は、巨人族の単独討伐。

 これが可能な傭兵は少数であり、エウィンはその内の一人だがモーフィスも同類だ。

 等級五は、おおよそ現実的ではない。

 等級四のように試験が設けられているわけでもなく、ましてや等級三や二のように依頼の達成回数とも無関係。

 ゆえに、傭兵は等級三ないし四で足止めされるのだが、眼前の老人ならばその壁を突破するだろうとエウィンは予想する。

 もっとも、この少年は気づけていない。

 自身も越えられる側であることを。

 今は敗者の如く、手厚い看病を受けるも、これは模擬戦であり、対戦相手がそれを許すのなら甘んじて手当を受けるまでだ。

 その一方で、仲睦まじい二人を眺めながら、モーフィスは一人静かに考えを巡らせる。


(里長が言っていたことはこれか。坊主、確かに笑いおった。巨乳ちゃんを救えたことがそんなに嬉しい、と。身代わりになってでも、助けてみせる、と。まるで当てつけのように、見せつけおって……)


 完全な自問自答だ。

 エウィンの心理を見抜く洞察力は、長年の経験から生じている。

 同時に、己の不甲斐なさを思い出さずにはいられない。

 失った喪失感。

 救えなかった後悔。

 それらを噛みしめながら、男は静かに問いかける。


「どうする? 続けるか?」


 強者らしく、委ねる。

 しかし、返答は彼らではなく第三者からもたらされた。


「エウィン! 遊んでないで本気を出しなさい! 出し惜しむ必要なんてないでしょう!」


 審判のハクアだ。真っ赤な髪を震わせながら、怒鳴るように促す。

 誰よりも偉い彼女が宣言した以上、モーフィスは部下らしく見届けるしかない。


「里長がへそを曲げる前に、俺にも見せてくれんか? 昨日のあれを」

「え? もう怒ってるような……。でも、わかりました。その前に、一つだけいいですか?」


 治療を終えたことで、エウィンが中腰の姿勢から立ち上がる。

 寄り添うアゲハは未だ不安そうながらも、少年の両腕は見違えるように綺麗だ。


「おう、なんじゃ?」

「力を増大させる、あの光。リードアクターって言うんですけど、出し惜しんだわけじゃなくて……。その、使うためにはけっこうな準備が必要で、だから、ただただ単純に使う暇がなかったんです。むしろ、戦う前に使うよう言って欲しかったくらいです」


 負け惜しみのような言い訳だ。

 そうであることを自覚しているため、エウィンとしても不甲斐なさを感じずにはいられない。

 肩を落とす姿は敗者のそれだが、その目は長身の老人を真っすぐ捉えている。


「ガハハ! それはすまんかった。ほれ、待っててやるから、はよう使え。里長は誰よりもババアな癖に、せっかちじゃからのう」


 遠方からの怒声に怯むことなく、モーフィスが楽しそうに笑い出す。

 お膳立ては整った。

 エウィンは大きく息を吐くと、口づけをするようにアゲハへ語りかける。


「僕だけがパワーアップしたところで、この人には多分敵いません。アゲハさんも、ネ……ネ……、暴力おばさんの力を引き出して加勢してくれませんか?」


 ネゼ。アゲハの中に潜む、もう一つの精神。単なる別人格ではなく、謎の力と知識を持った何か。彼女の力を借りることが出来るのであれば、無力なアゲハも十分戦える。

 理由は不明なれど、ここ最近はその力の一端を行使可能だ。偶発的に発現出来た可能性もあるため、エウィンとしてもこう言う他ない。

 そうであろうと、アゲハはゆっくりと頷く。


「うん、やってみる、ね」


 この応対を受けて、準備は真の意味で完了だ。

 第二ラウンドに向けて、エウィンとアゲハが静かに歌い始める。


「色褪せぬ記憶は、永久不変の心を顕す」

「え、えっと、う、うーん、はあぁぁ……」

(アゲハさんが似合わないポーズで力み始めた! ちょっとかわいい! でも今は集中……)


 気が散っている時点で精神統一は難しい。

 そうであろうと、エウィンは着々と詠唱を続ける。


「あ、あ、争いの果てに、涙を散らす者達よ……」


 凛々しい表情を作ろうとするも、少年は半笑いだ。隣のアゲハがプルプル震えながら踏ん張っているため、空気はどうしても和らいでしまう。


「我らの旅路を指し示し、えーっと……、絢爛の明日へと導きたまえ」


 アゲハとの契約によって、この力はもたらされた。

 その彼女だが、顔を真っ赤にして力み続けている。


「在りし日の思い出と共に、色褪せぬ幻影を抱きし者よ……」

「はぁ、はぁ……」

(疲れてる⁉)


 もう間もなくだ。エウィンは気が気でないながらも手続きを終えようとしている。

 対照的に、アゲハは長い黒髪を垂らして疲労困ぱいだ。肩で息をしており、背筋を正すことすらもままならない。


「揺蕩う理想郷で、色褪せぬ想いに寄り添う者よ……」

「あ、え? うん、わかった……」


 エウィンから突風のような闘気が噴き出す一方で、アゲハがキョトンと独り言をつぶやく。

 もちろん、そうではない。

 頭の中のネゼから、力の解放方法を学んだ瞬間だ。

 これを合図に、二人は極致に至る。この地では昨日に続き二度目の変化ながらも、今回はただ披露するだけでは終わらない。


「祝福されし幼子達を、見守りたまえ。蔑みたまえ」

「わたしは……、えい」


 世界の名前はウルフィエナ。神々が作り出した、理想郷。あるいは地獄かもしれないが、エウィンは傭兵として今日まで生き延びることが出来た。

 それも一重に魔物の狩猟で金が稼げるからであり、人々が飢えずに済む理由でもある。

 見守られながら。

 嫉妬の目を向けられながら。

 それでも人間はこの世界で生きていく。

 エウィンも住民の一人であり、今まさに白い闘気をまとってその力を見せつける。

 同時に、すぐ隣のアゲハに顔を向けずにはいられなかった。


「えいって。と言うか、それだけでパワーアップ出来るんですね、羨ましい」

「つ、強く念じるだけで、いいみたい……」


 エウィンの言う通り、彼女はたったの二文字で変化を果たした。

 長い黒髪は先端側から半分が青く染まっており、オーラの類はまとっていない。

 それでも、準備はついに整った。

 白い光をまといながら、アゲハと共に対戦相手へ向き合う。


「お待たせしました」

「おう。さて、どうする?」


 モーフィスからの問いかけは二度目だ。

 ゆえに、今回は誰よりも早く、意志を伝える。


「僕達から攻めても?」

「構わんぞ! ガハハ!」


 この状況においても、モーフィスは自信満々だ。エウィン達を見下しているわけではないのだが、それでもなお負けないと自負しており、声高々に笑ってしまう。

 その自信を砕くように、少年の拳が巨躯の背中に深々とめり込む。


「がはっ⁉」


 一瞬の出来事だ。

 自身に何が起きたのか、老兵でさえも即座に理解出来ない。

 エウィンは駆け出し、瞬く間にモーフィスの背後へ。急停止と同時に、先ほどの仕返しと言わんばかりの打撃を大きな背中へ打ち込んだ。

 それ以上でもそれ以下でもないのだが、この老人を驚かせるには十分過ぎた。

 もっとも、この試合は二対一だ。エウィンが吠えれば、もう一人が動き出す。


「アゲハさん!」

「あ、えっと、えい」


 ワンテンポ遅れて、アゲハがもそっと走り出す。

 そのままモーフィスに殴りかかるも、残念ながら効果的な一手とはなり得ない。


「嬢ちゃん……」

(ダメだこりゃ……)


 綺麗な拳が、筋肉隆々な腹筋をコツンと殴る。

 しかし、その成果は男を困らせただけだ。

 痛くも痒くもないばかりか、当たったことを褒めたくなるほどには酷い動作だった。

 脇が大きく開いており、相手が棒立ちであろうと数度に一度は空ぶってしまいそうだ。

 ゆえに、威力が宿るはずもなく、殴られた側としても呆れるしかない。

 同時に、エウィンも作戦変更を余儀なくされる。

 残念ながら、アゲハを戦力には数えられないらしい。

 身体能力が大きく向上しようと、素人は素人のままだ。

 そう気づかされた以上、エウィンは立ち位置を変える。


「僕が戦いますので、アゲハさんは僕の治療に専念してください」

「あ、う、うん……」


 結局は、従来通りの作戦だ。

 アゲハの眼前に立ちながら、エウィンはそう気づかされる。

 もっとも、それならそれで構わない。

 この陣形こそが普段通りであり、自然体だからこそ集中出来る。


「さっきのパンチ、どうでした?」

「なかなかやるじゃねーか! 嬢ちゃんの方は、まぁ、その、あれだったが……」


 少年の問いかけに対し、モーフィスは胸を張って答える。

 既に痛がる素振りは見せておらず、つまりは驚かせることは出来たものの、軽傷すらも怪しい。

 そうであろうと、奇襲は成功した。エウィンは対戦相手の出方を窺いながらも、説明を開始する。


「これが僕のリードアクター。前までは十秒しか維持出来ませんでした。でも、今は……」

「あぁ、わかっておる。思う存分、打ち込んでくれて構わん」


 発言だけを切り取るのなら、モーフィスは依然としてこの少年を見下している。

 純白の闘気をまとったことで、身体能力は大きく向上したはずだ。

 それでもなお、その差は埋まっていないということか。

 もっとも、エウィンとしても戦局を楽観的には捉えていない。多少なりとも近づけたと自負しており、ここからは慎重に立ち振る舞うつもりでいる。


「この状態で、僕のパンチに耐えられたのはオーディエンに続いてあなたが二人目です」

「ガハハ! すごいじゃろう! 子供達を鍛えるついでに、毎日毎日汗をかいてるからな!」


 この発言が本当なら、肉体の強度にも頷ける。

 モーフィスは六十歳を越える老人だ。

 にも関わらず、むき出しの上半身は硬そうな筋肉をまとっている。

 短パンから覗く脚部も屈強そうな太さを誇っており、ギルド会館においてもこのような大男を見かけることはない。


「僕だって、毎日毎日、草原ウサギを狩ってました!」


 金を稼ぐために。

 強くなるために。

 エウィンは七歳の頃から、マリアーヌ段丘へ足しげく通い続けた。そうすることが唯一の生きる術であり、草原ウサギとの死闘はその後も十年以上継続される。

 吠えるような突進だ。

 勢いそのままに、闘気をまとった右腕が男の胸に打ち込まれる。

 目にも留まらぬ速さだ。審判役のハクアでさえ、魅入るように感心してしまう。

 それでもなお、その腕は相手に届かない。

 なぜなら、モーフィスは既に調整弁を緩めている。


「二度目はさすがにのう」

「くぅ⁉」


 迫る拳を、大きな左手があっさりとせき止める。

 目にも留まらぬ速さで動くとわかった以上、モーフィスも同じ土俵に立つまでだ。


「仕返しじゃ」


 左手はそのままに、自由な右手で握り拳を作る。

 間髪入れずに右腕を振り抜いた理由は、眼前の少年、その顔を殴るためだ。

 身長差がもたらす、落下するような打撃。重力によって上乗せされた拳は、人体を破壊するには十分過ぎる。

 だからこそ、エウィンは右手を掴まれながらもすり抜けるように避けてみせる。その際に左頬をかすめるも、血がにじむだけで被害としては軽傷だ。

 その瞬間、両者の視線が交差するも、攻守は既に入れ替わっている。

 掴まれた右手を引き抜くように。

 あるいは、仕返しの一撃を打ち込むように。

 傭兵の左手が、腹筋を貫くように打ち込まれる。その衝撃は凄まじく、轟音と共に強風が発生するほどだ。里を囲う森がさわさわと揺れるも、当事者の二人は微動だにしない。


「けっこう本気出したんですけど……」

「安心せい。ちょっとだけ痛いわい」


 エウィンは大きな顔を見上げながら、笑うように引きつってしまう。

 まるで鋼鉄の板金を殴ったような感触だ。それほどにモーフィスの腹筋は硬く、殴った拳の方がジンジンと痛む。

 そうであろうと、攻撃は継続だ。四肢が動くのだから、諦めるにはまだ早い。

 仕切り直すため、エウィンは跳ねるように一歩後退する。

 これが敗北を認める行為ではないと主張するように、静止という過程を無視して飛び跳ねる。

 次の一手は回し蹴りだ。ふわりと浮き上がり、空中で猫のように体を捻れば予備動作は完了だ。

 老人であることを裏付けるような、しかしひたすらに頑丈そうなその顔を蹴とばすため、黒いズボンが痛むことをいとわずに右足を大きく回す。

 その結果、先ほど以上の衝撃がこの地を揺らすも、顔をしかめたのはエウィンの方だ。


「あっさりと……」

「末恐ろしい威力じゃ」


 今回は蹴られたくない。

 モーフィスはそう言ってのけるも、事実、左腕を盾に見立ててあっさりと防ぐ。拳を開いたり閉じたりしている理由は、腕の損傷具合を確かめるためか。

 エウィンは落下と共に着地すると、思案せずにはいられない。


(この人なら、オーディエンを倒せるんじゃ……)


 それほどに頑丈かつ強靭だ。

 オーディエンは父親の仇であり、可能ならば自分の手で仕留めたい。

 しかし、眼前の老人が手伝ってくれるのなら、頭を下げても構わないと思えてしまう。

 オーディエンは常軌を逸した化け物だ。

 一方で、モーフィスにも似たような感覚を覚えてしまう。

 甘い考えか?

 エウィンは巨体を見上げながら、一瞬にして様々な思考を走らせるも、この攻防においては隙を晒すに等しい。

 だからこそ、モーフィスは丸太のような右腕を、ハンマーのように振り下ろす。

 殺気は宿っておらずとも、その威力は致命傷足りえてしまう。

 迂闊だと叱るような強打に対し、エウィンの反応は遅れた。

 回避という選択肢は間に合わず、ゆえに、頭部を守るように両腕を持ち上げる。

 潰すように。

 抗うように。

 力と力のぶつかり合いだ。

 まるで巨人と小人が戦っているような構図ながらも、白い闘気が発する威圧感を加味すれば、身体の大小など無視してしまって構わない。


「やりおる!」

「ううぅぅ!」


 二つの雄たけびがこだまする。

 そんな中、アゲハだけは焦らずにはいられない。エウィンの後方で待機しているのだが、自身の無力感に慌てふためいてしまう。


(ど、どうしたら……。わたしにも、なにか出来ること……)


 残念ながら、思い浮かばない。

 相手が草原ウサギのような慣れ親しんだ魔物ならば、単独撃破も可能だ。

 しかし、今回は対人戦。

 ましてや、エウィンでさえ尻込みするほどの実力者だ。

 これは模擬戦であり、殺し合いではないため、青い炎は使えない。触れるだけで相手を骨一つ残さず燃やせてしまうのだから、禁止されて当然だ。

 残された手札は、折り紙と名付けた能力による治療。

 あるいは、不慣れながらも殴るか蹴るか。

 ネゼの力をわずかに引き出せている異常、身体能力は飛躍的に向上中だ。

 格闘技を習うように体の使い方を学ぶことが出来れば、彼女も戦力に数えられるだろう。

 しかし、今は素人だ。

 エウィンも対人戦の経験は浅いのだが、裏を返すとゼロではないため、こうして戦えている。

 黒髪の半分が青く染まろうと。

 与えられた力を一部ながらも行使しようと。

 残念ながら、足手まといでしかない。

 そう自覚してしまった以上、アゲハに出来ることは見守ることだけだ。

 棒立ちのまま、震えるように眺め続ける。

 涙が溢れそうになるも、視界を歪ませるわけにはいかない。

 白く輝く、小さな背中を黙って見つめる。そうするしかないのだから、自己嫌悪に陥ろうとそこから立ち去るわけにはいかない。

 もっとも、アゲハは思い違いをしている。

 自身が無力だと、そう思い込んでしまっている。

 大学を中退し、引きこもってしようと。

 その能力が与えられたものであろうと。

 ここはウルフィエナであり、その力は本物だ。

 彼女が立っている場所は、舞台袖ではない。主役と共にそこへ立たされている以上、出番は既に訪れている。


「これならどうじゃ!」


 膠着状態が仮初であると主張するように、モーフィスの追撃がエウィンを襲う。

 右腕で眼下の少年を押しつぶそうとしていた。

 つまりは、反対の手は完全に自由だ。

 だからこそ、その腕でエウィンを殴れてしまう。


「ぐふっ⁉」


 傭兵の両腕が塞がっている以上、対処など不可能だ。

 腹部を激しく殴打された結果、意識が霞んでしまう。

 さらには、その衝撃がエウィンを後方へ吹き飛ばすも、地面との衝突は当面訪れない。

 胃液が逆流するような違和感。ただただ不快なその正体は、口の中が鉄の味に満たされたことであっさりと明かされる。

 吐血が先か。

 大地にぶつかるのが先か。

 そのどちらでもないと、エウィンは違和感と共に知ることとなる。


「あう、だい、じょうぶ?」


 暖かな声だ。心底心配しているような声色ながらも、今はそれすらも心地良い。

 何が起きた?

 一瞬ながらも、エウィンは混乱してしまう。腹部の鈍痛が思考を乱したということもあるだろうが、この事態は予想外過ぎた。

 大きなクッションに受け止められたらしい。そう思い込みたくなるような柔らかさだ。

 本来ならば、その手や体は硬いはず。

 その事実を覆すような。

 包み込むような。

 心地の良い柔らかさの正体は、考えるまでもなくアゲハに他ならない。


「す、すぐに、治すね」


 エウィンが吹き飛んだ方向に、彼女はいなかった。立っていた場所からはわずかに逸れていたため、大砲玉のように宙を舞った少年に追い付けるはずがない。

 それでも、こうして押しとどめられた理由こそが、ネゼによってもたらされた身体能力の向上だ。

 無力感に打ちひしがれようと、愛する者を守るくらいのことはやりたい。

 その意志をくみ取るように、こうして体が動いてくれた。

 弾丸のように駆け、エウィンに追いつくや否や、その衝撃をいなすようにそっと受け止める。

 そして、背後から抱きしめる。

 治療に関しても一瞬だ。エウィンが口元を汚しながら吐血する頃には、彼女の右手が患部をその内側から癒してしまう。


「がはっ、ごほ、アゲハ、さん……」

「まだ、痛む?」


 戦闘中であることを忘れるように、二人は見つめ合う。

 彼女の言う通り、傷は既に治療済みだ。血液の逆流はその時点で止まっているため、エウィンはそれ以上咳き込まない。


「もう、大丈夫そうです。ありがとうございます」


 感謝の気持ちは本音そのものだ。

 狂いそうなほどの痛みが消えた。

 負けそうだったが、諦めずに済んだ。

 そういった背景から生じた発言なのだが、実はもう一つある。

 背中に当たっている、大き過ぎる二つの何か。

 リネンチュニックと硬い下着を隔てていようと、その柔らかさが嘘のように伝わってくる。思春期の少年にとっては最高級の贅沢であり、可能ならばこの姿勢のまま時間を止めてしまいたい。

 それでもなお、エウィンは笑顔を作って彼女から離れる。

 傷を癒してもらった。

 感謝を述べた。

 ならば、これ以上、対戦相手を待たせるわけにはいかない。


「が、がんばって……」

「はい。おかげで、まだまだ戦え……」


 アゲハの声援を背に、歩き出した瞬間だった。

 エウィンはとある事実に気づいてしまう。


(あれ、治してもらえるってことは、あの人が試合終了を告げない限り、何度も死にかけるってこと?)


 少年の視線が審判に向けられる。

 その人物はいくらか離れた場所に立っており、腕を組んだまま観戦中だ。

 真っ赤な髪は脚部にまで垂れており、白衣を医者のように着こなす姿はどこか威圧的に映る。

 彼女の魔眼がエウィンに向けられるも、その口が何も言わない以上、戦闘を続けなければならない。


「なんとかして、モーフィスさんを一矢報いないと、か」


 そのためには、奇策の類が必要だ。

 いかにリードアクターで強くなろうと、対戦相手は素の状態でさらに手ごわい。

 改めてそう認識させられた以上、エウィンは振り返ると同時に手招きする。


「アゲハさん、ちょっと作戦が……」


 通用するかどうかは不明だ。

 そうであろうと、この試合は勝ちたい。

 ハクアという謎の魔女について、教わるため。

 拷問のようなこの模擬戦を終わらせるため。

 耳打ちをえて、エウィンは再び歩き出す。老人は律儀に待ってくれており、だからこそ、こちらから出向くしかない。

 木々の伐採によって、この空き地は作られた。

 今は試合会場として機能しており、観客は森の樹木と里の住民達だ。

 エウィンとアゲハ。

 そして、二メートルを越える長身の持ち主。その名はモーフィス。

 丸い太陽が彼らを優しく照らし続ける。

 朝一番の腕試しは、まだ終わらない。

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