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第五十四話 シイダン村は賑わう

 ここはこの村最大の大食堂だ。テーブルの数は十を越えており、それぞれに二個ないし四個の椅子が備え付けられている。

 太陽は沈み、この地は暗闇に飲み込まれた。子供は当然ながら、大人でさえも仕事を切り上げ帰宅する時間帯だ。

 その後の過ごし方は人それぞれだが、彼らはこの店を選ぶ。

 目当ては当然ながら夕食だ。外食ゆえに出費はかさむも、それを許容するのなら悪い選択肢ではない。

 席の大半が埋まっているのだが、半数近くが農村に不釣り合いな軍人達だ。深緑色の制服は遠征討伐軍の所属を意味するも、今は勤務外だと言わんばかりに白い歯を見せている。

 軍務を忘れ、はしゃぐように肉を頬張る者。

 コップを片手に談笑にふける者。

 スープに口を付けながら、同僚をからかう者。

 軍服を着ていようと、今だけは子供のように騒いでしまう。食事とはそういうものであり、ここは居酒屋ではないのだが、賑わうさまは引けを取らない。

 そんな中、ひと際大きな男が視線を動かす。


「今の……、気づいた?」


 中世的な顔立ちだ。黄色い髪は短く、軍人でありながら清潔感をまとっている。

 対面の男と共に、二人揃ってかなりの長身だ。二メートルには届いていないようだが、それに近い数字を叩きだす。

 胸元の勲章は隊長の証だ。このテーブルの二人だけがそれを付けており、そういったことも含めて目立つ存在と言えよう。

 この男の発言を受けて、もう一人が笑みを浮かべる。


「おう、野菜炒めが美味い!」


 背丈は近いものの、外見から受ける印象は正反対だ。

 巨漢。この二文字が誰よりも似合う。

 恰幅が良い。そう表現すると誤解を招きそうだが、まとった筋肉がそのまま横幅となっており、大男であることは間違いない。


「美味しいけど違う」

「お米が進む進む! やばい、ここに滞在し続けてると太るかも!」


 白米は既に二杯目だ。多少の暴飲暴食で太れるほど軍人の仕事は優しくないのだが、大男は冗談半分で言ってのける。

 茶色い髪は完全な角刈りだ。大芸道のように皿を頭に乗せた場合、その髪型なら水平を保てそうなほどには頭頂部が平たい。

 ニシシと笑うと、次いで熱そうなから揚げに視線を向ける。

 眼下にはまだまだ多数の料理が陳列されており、それらは二人分ではあるものの、この男が一人で食いつくす勢いだ。

 そうであろうと、もう一人は冷静に店の出入口を観察する。


「あの二人、間違い。ん? あ、それ! 私のから揚げ!」

「うまいうまい!」


 この二人は若く見えるも実は四十代だ。から揚げの奪い合いでじゃれるように喧嘩を始めるも、こういったことは日常茶飯事なため、周囲の部下達は驚かない。


「こいつ……、だったら!」

「あ、ピーマンの肉詰め! 俺の!」


 やり返せる間柄ということか。

 子供じみた問答は続くも、黄色髪の男がピーマンの肉詰めを飲み込んだタイミングで、言いかけた話題を提供する。


「あそこの二人、傭兵の二人、報告書の連中だ。ダブルも読んだろう?」


 鋭い眼光はから揚げを食べられたことに腹を立てているからではない。訪問客を盗み見ているということもあるが、そもそもこれはそういう顔立ちだ。

 男の名前はジーター・バイオ。第一遠征部隊の隊長を務める軍人であり、細身ではあっても身体能力は常軌を逸したレベルだ。

 二枚目ゆえに女性受けは良いのだが、妻一筋ゆえ、浮いた話は一切ない。

 この発言を受け、巨漢がゆっくりと顔を動かす。


「あそこー? 髪が緑の坊主と、うお、なんだあの胸。さすがにあれは人目を引くぞ、本人としてもたまったもんじゃないだろう」


 大男の名前はダブル・ジィトス。第二遠征部隊をまとめあげながらも、最前線で誰よりも魔物を蹴散らす猛者だ。

 身長はジーターとほぼ同じながらも、筋肉の鎧が見る者を怯ませる。

 この二人がこうして仲睦ましく夕食を囲っている理由は、物心ついた頃からの友人だからだ。

 年を重ね、二人揃って軍人になり、今では隊長という地位に納まってもなお、この関係性は揺るがない。

 性格は似ても似つかない二人だが、だからこそ波長が合うのだろう。から揚げの恨みは重いが、ピーマンの肉詰めで相殺されたのだから、現れた二人についての討論は継続だ。


「後ろの女は確か……、アゲハ、男の方はエウィンだ」

「エウィン? どこかで聞いたような……、思い出せん!」


 威張るように言い終えるや否や、ダブルは野菜炒めを箸でかき込む。美味い料理が目の前にある以上、会話よりも食事を楽しみたい。

 対照的に、黄色髪の軍人はどこまでも冷静だ。暖かな匂いが立ち込める建物の中で、異物のように気配を研ぎ澄ませながら二人組を眺める。


「マークの部隊が壊滅した件の立役者だよ」

「うお、マジかよ。あいつが? にしては……」

「あぁ、覇気が全く感じられない。人当たりの良さそうな面構えだけど、それだって誉め言葉にはならないし」


 つまりは、強そうには見えない。

 緑髪の傭兵は、店員に連れられて席に案内された。黒髪の女が真正面に座ったことからも、二人組なのは間違いない。

 巨漢な軍人はから揚げを頬張り、勢いそのままに米を口に放り込むと、考え込むように咀嚼を続ける。


「んあー、人違いなんじゃ?」

「いや、マークと歩いているところを見たことがある。あの時は意味がわからなかったけど、報告書を読んで合点がいった。あの傭兵で間違いないよ」


 マークは第四先制部隊の隊長だ。魔女の襲撃時にジレット監視哨へ派遣されていたため、彼の部下は例外なく殺されてしまった。

 マーク自身も危うかったのだが、エウィン達が駆け付けたことで生き延びる。


「ジーターがそう言うならそうなんだろうな」


 幼馴染を褒めながら、ダブルは改めて遠方の傭兵を眺める。

 この店は初めてなのだろう。挙動不審だと思われても仕方がないほどには周囲を見渡している。

 対照的に、黒髪の女は縮こまったままだ。時折、眼前の男に対して相槌を打つも、店員への注文すらも任せっきりらしい。

 この光景が、改めて大男の口を開かせる。


「本当に傭兵かー?」

「疑いたくもなるね。報告書通りなら、彼は私達と同等かそれ以上のはず。そのはずなんだけど……」


 第一印象は強者とは言い難い。

 エウィンは童顔ゆえ、幼く見えることも要因の一つなのだろう。貧困ゆえに鎧の類を身に着けておらず、農民と思われても不思議ではない。

 ジーターは静かに息を吐くと、オニオンスープを手に取って口につける。

 その姿を眺めながら、ダブルは笑みを浮かべずにはいられなかった。


「先ずは食っちまおう! その後で、直接話を聞けば済む話だ!」

「まぁ、な。このスープ、妻が作るのより美味い」

「お、帰国したら告げ口しちゃおーっと」

「おい、本当にやめて。頼むから。殺されるから」


 巨漢が子供のように笑ったことで、店内は一層騒がしくなる。

 押し寄せる音に隙間などなく、普段の声量では会話さえ困難だ。

 そうであろうと困る者は見当たらない。

 ここは食事を楽しむ場所であり、眼前には多数の料理が並んでいる。

 賑わうここはシイダン村。

 一日の終わりを労うように。

 もしくは、明日の到来を待ちわびるように。

 村民も軍人も分け隔てなく、嬉しそうに騒ぎ続ける。



 ◆



「これほどとは……。ギルド会館よりうるさいかもですね」


 席に案内され、料理の注文も終えた。

 ゆえに、後は待つだけだ。

 エウィンは店内の活気に圧倒されながら、率直な感想を述べる。

 耳を覆いたくなるほどではない。

 しかし、四方からは香ばしい匂いだけでなく、農家や軍人達の絶え間ない話し声が暴力のように迫ってくる。

 眼前のアゲハも、萎縮しっぱなしだ。恐怖心を抱いてはいないようだが、見知らぬ店内と賑やかなバックグラウンドミュージックには普段以上に背を丸めてしまう。


「居酒屋みたいな、雰囲気だね」


 彼女の指摘は的を射ている。

 大人達の一部は顔を赤らめており、ここが食事処であろうと酒が提供されればこうもなってしまう。


「へー、アゲハさんもお酒飲むんですね」

「あ、ううん、お店の前を、通ったことが、あるくらい……」

「あぁ、なるほど。宿屋の近くにもありますしね」


 傭兵は時間が不規則な職業だ。朝は他の業種と大差ないが、帰宅のタイミングが読みづらい。

 なぜなら、勤務先が一定ではないからだ。

 ある時はマリアーヌ段丘へ。

 ある時はアダラマ森林へ。

 もしくは、ルルーブ森林へ。

 徒歩なら何日もかかる道のりを、彼らは数時間足らずで走り抜ける。

 もちろん、長距離走が仕事ではない。

 その先で獲物を探し、仕留めることが本業だ。

 その後は帰路に就くのだが、陽が沈む前に戻れれば上出来だろう。

 実際には夕食を遅い時間帯に食べることも少なくないため、アゲハの就寝もある程度は前後してしまう。

 ギルド会館から宿屋を目指す際、大通りを歩くことになるのだが、夜道であっても心配はいらない。街灯だけでなく、道沿いの店舗から漏れ出る光が、城下町そのものを照らしてくれる。

 アゲハはその際に居酒屋の前を通るのだが、その騒音は楽しそうながらもうるさかったことを思い出す。


「ここも、賑やかだね」

「皆さん、あんな大声でしゃべってたら喉痛めそうですけど……。ご飯食べながらだと平気なのかな?」

「ふふ、不思議」


 エウィンの仮説を受けて、アゲハが笑みを浮かべる。

 この店を訪れる前に、寝床は確保済みだ。

 あっさりと見つけられた宿屋にて、二人は二人部屋を借りる。エウィンとしては個室を二個申し込むつもりだったが、アゲハに押し切られた形でそうなってしまった。

 部屋に荷物を置き、いくらか休んでから、探検も兼ねた散歩の時間だ。

 ギルド会館があれば、困ることなどない。魔物の情報はそこに集約されるのだから、傭兵らしく足を運べば済む話だ。

 しかし、今回ばかりはそうもいかない。

 ゆえに、ぶらぶらと村の中を歩き回るも、手ぶらのまま食堂を訪れている。


「外でもチラホラ見かけましたけど、軍人さんがいっぱいですね」

「そうだね」


 店内は大賑わいだ。この村の住民と、派遣された軍人達でごったかえしている。満席ではないのだが、エウィン達の来店によって空席は残りわずかだ。

 挙動不審なアゲハを尻目に、少年は腕を組みながら感想を述べる。


「だけど、傭兵はさっぱり……。収穫期じゃないとこんなものなんですかね? そういうのも含めて、情報収集したいなぁ」


 言うなれば、肩身が狭い。

 シイダン村において傭兵は部外者であり、初めての訪問ともなれば疎外感はなおさらだ。アゲハがいてくれるため孤独ではなくとも、弱音の一つも吐いてしまう。

 そんな中、彼女の方が先に気づく。


「あそこ、奥にいる、大きな二人。多分、隊長さんだと、思う……」

「え?」


 アゲハの視線に誘導されるがまま、エウィンも店内の隅を眺める。

 ポジションとしては、店の最奥だ。目立たぬ場所ながらも、彼らがあまりに長身なため、目立ってしまっている。

 どちらも強者だと言わんばかりの貫禄だ。

 神経質そうな細身の男と、暑苦しい巨漢。

 そりの合わなそうな彼らだが、冗談を言い合っているのか、目尻を緩めながら夕食を楽しんでいる。

 二メートルにも届きそうな背丈も去ることながら、その存在感は明らかに異質だ。

 周囲の軍人達が霞んでしまうほどには、まとう空気が重い。

 エウィンとしても、彼女達を連想するほどだ。


「ジレット監視哨で戦った魔女みたいと言うか……」


 なかなかの圧迫感だ。

 ただそこにいるだけでそう思わせるのだから、彼らが強者であることは間違いない。


「どっちが、ダブルさん、なのかな?」

「エルディアさんが言ってた隊長さん……。なんとなーく、角刈りのおじさんっぽい気がしますね」


 角刈りの大男がダブルであり、細身の方がジーター。

 ゆえにエウィンの予想は正しいのだが、こうしてコソコソ話し合っている内は確かめようがない。


(あっちはもう食べてるし、こっちが食べ終わってからだと遅いか。そうなると……)


 料理が届くまでは、もうしばらく待たなければならない。

 一方で、隊長と思われる二人は食事中だ。眼前の料理を奪うように食べ進めており、間もなく食べ終わるだろう。

 その後も居座り続けるのか?

 行儀よく、撤収するのか?

 軍人ゆえに後者の可能性が高い。

 ならば、エウィンとしても即決あるのみだ。


「今からあの人達に話をしてみます。アゲハさんはここで待っててもらってもいいですか?」

「あ、うん……」


 注文した料理がいつ届くかわからない以上、二人して席を外すわけにはいかない。

 ましてや、アゲハは極度の人見知りだ。こういった場所さえも、本来は苦痛を感じてしまう。

 ゆえに、ここはエウィンの出番だ。盛り上がる食堂の中を、人混みを避けるように進む。

 食欲をそそる肉と暖かな野菜スープ、そして、スパイスの効いた炒め物の匂いをかき分ければ、対面はあっという間だ。


「あのう、すみません」


 店内は喧騒に満たされている。腹から声を出さなければ、目の前の相手にすら声が届かない。

 ゆえに、怒鳴らないながらも力むように声を発した。

 エウィンの呼びかけが、当然ながら二人の軍人を振り向かせる。


「お、ビックリしたぜ。まさかそっちから話しかけてくるとはな」


 角刈りの男が、嬉しそうに笑い出す。

 そのリアクションがエウィンを驚かせるも、もう一人の軍人がフォローする。


「そっちが私達に気づけたのだから、まぁ、そういうことさ。エウィン君、でいいのかな?」


 名前すらも言い当てる。

 不気味な言動とは裏腹に、黄色髪の男は物腰柔らかな軍人だ。箸をそっと置くと、返事を促すように見つめ返す。

 この状況、当然ながら黙秘などありえない。


「はい、そうです。でも、何で?」


 緑色の軍服を眺めながら、エウィンは聞き返す。

 名乗ってはいない。

 アゲハとの話し声も、ここまでは絶対に届かない。

 だからこそ問わずにはいられないのだが、答え合わせはあっさりと済まされる。


「なっはっは! おまえさん、知る人ぞ知る有名人なんだぞ」


 男の表情はとても柔らかだ。眼前の傭兵を威嚇するつもりなど毛頭ないのだろう、ほほ笑むようにその顔を眺める。


「僕……が?」

「ああ、ホントのことさ。なんせおまえさんが、マークを救ってくれたんだろう?」


 ここまで言われれば、エウィンも気づいて当然だ。

 ジレット監視哨での死闘から帰国後、一週間近くも軍の施設に呼びつけられ、根掘り葉掘り聞かれたばかりか、報告書にも自身の名前がしっかりと記載された。

 ならば、軍関係者に素性を覚えられたところで不思議ではない。


「そ、そうです。マークさんとはお知り合いなんですか?」

「部隊は違えど、同じ軍人だからな。俺からも、礼を言わせてもらう。ありがとう」


 巨体が立ち上がると、礼儀正しく頭を下げる。

 その光景に周囲がどよめくも、最も驚いたのはエウィンだ。たじろぐように、後ずさる。


「いえ、僕だけじゃ魔女を倒しきれませんでした。エルディアさんとマークさんも戦ってくれたから。それに……」


 駆け付けた時には遅かった。

 ジレット監視哨は壊滅しており、生存者は軍人のマークと先走った魔女三人だけ。

 つまりは百人近くが殺された後であり、勝ち誇ることなど不可能だ。

 少なくとも、この傭兵はそう考えている。


「謙遜するんじゃないよ。おっと、自己紹介がまだだったな。俺はダブル、第二遠征部隊の隊長だ。んでもって、かっこつけてるこいつがジーター」

「第一遠征部隊の隊長を務めている。よろしくな」


 息の合った問答だ。

 しかし、男達は止まらない。


「こう見えて同い年なんだぞ。いくつに見える?」

「え⁉」

「よせよせ、若者を困らせるな。ダブルは見た目通りの四十歳おっさんで、私は若く見える。それだけの話だ」


 席に座り、大口を開いて笑うダブルとは対照的に、ジーターはどこまでも冷静だ。さりげない自己アピールも鼻につかないため、二枚目を気取っているようでそうではないのかもしれない。

 周りの客が落ち着きを取り戻す中、エウィンは戸惑いながらも本題を開示する。


「えっと、エルディアさんからダブルさんのことを聞いて……」

「ほう、あいつから……。それで遠路はるばるこんなところまで。でも、なんでだ?」

「僕達、ケイロー渓谷を越えたいんです」


 この一言で全てが伝わる。

 ダブルは考え込むようにから揚げを頬張るも、今度はジーターが反応を示した。


「訊いても?」

「あ、はい」

「ゴブリンとの大規模戦闘がいつ終わるのか気にしているのか、それとも参加したいのか、いや、手伝ってくれるのか、どれなんだい?」


 この問いかけが、エウィンを一瞬だけだが硬直させる。

 臆したわけではない。

 それでも、大規模戦闘という表現には怯まずにはいられなかった。

 もっとも、死を恐れていないのだから、選択肢を間違えるはずもない。


「手伝ってもいいのなら、手伝いたいです」


 この返答は、決意表明だ。

 貢献出来る自信はある。

 実績も十分だ。

 このやり取りを受けて、問答は一旦終了だ。

 出発は明日。

 足並みすらも揃わない、突発的な共同戦線。

 不出来であろうと、戦力としては十分だ。

 少なくともそう思わなければ、魔物の巣窟になど近づけない。



 ◆



 膨れた腹を摩りつつ、夜道を歩く。

 見慣れない街並みに囲まれていようと、一度は訪れた場所ゆえ、その建物には迷いなく到着だ。

 大きな扉を開き、受付の女性へ一礼。そのまま階段を上がり、目当ての階で廊下を進めば本日の自室にたどり着ける。


「はー、食べた食べたー」


 顔が綻ぶ程度には満腹だ。

 ここは自分達用にあてがわれた二人部屋。エウィンはそそくさと歩くと、窓辺の椅子に腰かける。

 その姿を眺めながら、アゲハは確認せずにはいられなかった。


「かなりの、被害者が……」

「そのようで。確か、この村の農家さんが五人、あと、常駐している軍人さんが……何人でしたっけ?」


 この部屋に戻る前の出来事だ。

 食事処で野菜たっぷりな夕食を楽しむも、食べ終えてからが本番だった。

 二人の隊長と改めて話し合い、現状把握と明日からの予定を頭に叩き込む。


「先制防衛軍の、軍人さんが、九人、殺されてて、傭兵については、未確定だけどそれ以上……」


 純白のベッドに腰かけ、アゲハが黒髪をギュッと握る。

 室内はマジックランプによって煌々と照らされているも、聞こえる音は二人の話し声だけ。まるでここだけが隔離されているような錯覚を覚えるも、エウィンは平然と情報の整理に努める。


「傭兵が何人殺されたのか、知る術はないでしょうね。ゴブリン、侮れない魔物です」


 隊長達からもたらされた情報の一つが、被害状況だ。

 先制防衛隊とは、ジレット監視哨やこういった農村に派遣される軍隊であり、その地を守ることを軍務としている。

 今回の場合、シイダン村に常駐していた軍人達が、ケイロー渓谷へ調査のために赴いた。

 そして、ゴブリンの集団と戦闘になり、被害を出しながらも情報を持ち帰る。

 軍人は魔物戦のエキスパートだ。ゴブリンの相手はおろか、巨人族にすら負けないだけの強者が揃っている。

 それでも、今回は物量に押し負けた。

 この事実を受け止めた結果、王国は遠征討伐軍の派遣を決定する。

 第一遠征部隊と第二遠征部隊だ。

 彼らは明日、ケイロー渓谷を目指す。

 そして、それはこの二人も同様だ。

 アゲハは猫背を正すことなく、不安そうに口を開く。


「私達は、最短距離で先行して、ゴブリンの前線位置を、見極める……。これって、大丈夫かな?」

「危険だと思います。なんてったって相手はゴブリン。ましてや特異個体っぽいのもいくつか確認されてるみたいですし。まぁ、アゲハさんのことは僕は守りますよ。その点だけはご安心ください」


 アゲハの同行は明らかに悪手だ。

 それをわかっていながらも、エウィンは知らぬ顔で言ってのける。

 なぜなら、そのような状況を待ち望んでいるからだ。

 アゲハを庇って、自分は死ぬ。

 つまりは母親の真似事なのだが、そうすることが贖罪だと思い込んでいる以上、彼女に留守番を言い渡すことだけは決してしない。

 今回のケースで言えば、ケイロー渓谷が戦場だ。

 ここは元からゴブリンの縄張りなのだが、どういうわけか各地から他の個体も集結しているらしい。

 可能ならその理由も調査したいところだが、最優先はその数を減らすこと。

 それを肝に銘じて、軍人達は明日の朝、シイダン村を発つ。


「う、うん。エウィンさんは、その、ゴブリンが怖くないの?」


 アゲハは恐る恐る尋ねるも、こう問うには理由がある。

 エウィンの母親はゴブリンに殺された。

 六歳の時に故郷を追い出された結果、このような悲劇に見舞われた。

 さらには、エウィン自身がゴブリンに殺されかけたこともある。クロスボウで腹と喉を射られたのだから、この魔物を恐れない理由がない。

 そのはずなのだが、少年は平然と言ってのける。


「今は別に。とか言っちゃうと、かっこつけちゃってますけど。復讐心みたいなものは、気づけば風化しちゃってましたね。ひもじい生活を十年以上も続けてたら、よくも悪くも人間は変わるのかもしれません」


 本音であり建前だ。

 母を殺したゴブリンを許せるはずがない。

 しかし、どれだけ恨んだところで復讐は不可能だ。

 なぜなら、その個体は間違いなく狩られている。ルルーブ森林は人間のテリトリーであり、そこに足を踏み入れたゴブリンが無事で済むはずがない。

 母の遺体があっさりと見つかったことからも、通りすがりの傭兵がそれを屠ったことは確定事項だろう。

 ゆえに、復讐に囚われるつもりはない。

 ましてや、そのような資格などないと、六歳の子供は自覚していた。

 狩れる魔物は、草原ウサギだけ。それすらも命がけだ。ゴブリンは遥かに格上の魔物ゆえ、エウィンは夢想せずに現実的な目標をたてる。

 それが、母の様に死ぬことだ。

 誰を庇うのか?

 これについては、もはや考えるまでもない。

 だからこそ、ゴブリンの大量発生、正しくは大集結に対しても臆することなく、立ち向かえる。

 少なくともエウィンにとっては、怯む理由に当たらない。

 こういった心情を知らないからこそ、アゲハは当然のように騙されてしまう。


「エウィンさんがいてくれるなら、私も、大丈夫かな。ちょっとだけ、怖いけど……」

「軍人さんとの合流は明日の夜を予定してますし、本番は明後日。それまでは無理せず、監視に徹しましょう。あいつらがどこまで進出してるのか、それを知れるだけでも大きいですし」


 殲滅戦に取り掛かるにしても、作戦の立案は必要だ。

 そのためには情報が必要であり、王国軍はスピードを優先するため、現地調査と戦闘を同時にこなすつもりでいる。

 その先鋒にエウィン達が抜擢された。軍人達が掴んでいるデータは過去のものゆえ、最新版への更新は最優先事項だ。


「そっか、そうだよね。農家さんを、守らないとね」

「そういうことです。僕達はその先にも用事がありますし。あ、そっか、この四か月、死に物狂いで依頼をこなしましたから、今のアゲハさんなら一人でゴブリンを倒せるかも? 僕もさらに強くなってそうです」


 嘘だ。

 エウィンはバレないことをいいことに、出まかせを口にする。

 アゲハの成長は間違いないだろう。スタミナも含めて、彼女の身体能力は明らかに向上している。

 一方で、エウィンに関しては当てはまらない。

 理由は不明だが、成長の実感が一切得られていない。

 誤差程度には強くなれたのか?

 直感通り、変われていないのか?

 どちらにせよ、停滞感は本物だ。


「わたしは、エウィンさんのサポートに、徹するから……」


 アゲハの主張は正しい。

 彼女の戦闘経験は豊富ながらも、実際にはそのほとんどが格下の魔物だ。エウィンという強者が常に同行している以上、アゲハの出番は滅多なことでは訪れない。

 ましてや、触れるだけで傷の手当が可能なのだから、後方から見守るという分業はおおよそ最適解と言えよう。


「んじゃ、普段通りと言うことで。僕がバッタバッタとゴブリンをぶっ飛ばします。あ、いや、軍人さんと足並みを揃えないといけないのかな?」


 今回の戦闘は共同戦線だ。そこまではわかっているのだが、エウィンは眉間にしわを寄せる。

 なぜなら、こういった経験が皆無だからだ。

 傭兵同士で手を組むことはあったが、軍人達と連携したことはない。

 ストレスを感じるほどの不安感ではないのだが、歯切れはどうしても悪くなる。

 そんな中、悩むエウィンを眺めながら、アゲハがスッと立ち上がる。


「ふふ、エウィンさんなら、どんな状況にも、対処出来るよ」


 お世辞抜きの本音だ。

 彼女は言い終えるや否や、もう一つの椅子に腰かける。

 窓の外は真っ暗だ。見慣れぬ風景であろうと、夜は例外なく黒色に染まってしまう。


「僕ってそこまで器用じゃないような。まぁ、アイアンダガーを買った以上、もはや恐れるものはない! ゴブリンの鎧も一突きです!」

「あ、でも、ゴブリンの、黒い鎧って、頑丈そう……」

「う……、言われてみたら確かに……。もしかして、新品なのにポッキリ逝っちゃう? 八万イールもしたのに? そんなの、耐えられない!」


 震えながら、エウィンは眼前のテーブルに伏せる。

 腰の短剣は、今朝購入したばかりだ。ブロンズダガーよりも優秀なこれは、一人前になれた証と言っても差し支えない。

 八万イールは高額だ。二人の食費を一日二千イールと定めた場合、四十日分に相当する。

 明日ないし明後日の戦闘でこの短剣が折れてしまった場合、精神的苦痛は計り知れない。

 そうだと気づかされた以上、エウィンの萎縮は必然だ。

 テーブルとキスするようにひれ伏す少年の緑髪を眺めながら、アゲハは慰めることから始める。


「その時は、私のあげる」

「どの道、出費がかさんじゃう。あー、やっぱり高級品なんて買えない。不安で不安で鞘から抜きたくない。いっそこのまま、殴る蹴るを極めるか……」


 それも一つの策だ。

 今以上に肉体を鍛える必要はあれど、出費が抑えられることは間違いない。

 この案を受け、アゲハは以前から考えていた持論を述べる。


「エウィンさんの、パンチって、アイアンダガーより、痛そうだけど……」

「まさかー。あ、でも、ブロンズダガーが通用しない魔物に関しては、普通に殴り殺せてますね。ふむ、ありえない話でもないのか? 実際問題、今の僕ってどのくらい強いのかな?」


 そしてエウィンが顔をあげると、当然のように二人の視線が交錯する。

 それを合図にアゲハの頬がわずかに赤らむも、少年の口は半開きゆえ、大人な雰囲気には至らない。


「巨人族よりは、ずっと強くて、だから、ゴブリンにも、絶対負けないよ」


 彼女の発言は傭兵内での通説であり、ある種の一般教養だ。

 魔物には様々な種類が存在する。それらは姿かたちが異なるだけでなく、足の速さや頑丈ささえ千差万別だ。

 最下位、つまりは最も弱い魔物が草原ウサギだと考えられている。少なくとも光流暦千十八年の時点で、野ウサギのようなこれを下回る種族は見つかっていない。

 次点が、アダラマ森林とルルーブ森林の魔物達だ。ウッドファンガーやウッドシープが該当する。

 ここまでなら、傭兵や軍人でなくとも拳銃を携帯していれば仕留められるだろう。

 裏を返せば、この先は人外の領域だ。

 シイダン耕地の巨大な芋虫、シイダンエルカは温和ゆえに滅多なことでは農民を襲わないが、この魔物を狩るとなると苦労するだろう。芋虫らしく動作は鈍いが、その生命力は想像を超える。具体的には、拳銃での射殺を試みた場合、ワンマガジンでは足りないだろう。

 もっとも、銃が通用するか否かは不適切な指標だ。

 なぜなら、より強力なゴブリンに関しては、頭部を撃ち抜くだけで殺せてしまえる。狙う箇所は心臓でも構わない。

 しかし、シイダンエルカより強敵であることは間違いない。

 なぜなら、ゴブリンは遥かに素早く、そして賢い。機械仕掛けの弓を作り、使いこなすのだから、傭兵や軍人さえも殺せてしまえる。

 さらに強力な魔物の一つが巨人族だ。人間の二倍にも達する巨躯には、驚異的な破壊力が宿っている。

 その腕力は人間を潰し、握力は骨ごと粉砕可能だ。

 また、外見に反し機敏に動くことから、出会った際は逃げることさえ叶わない。

 傭兵はこれと戦う際に、三人で挑むことをセオリーとしている。

 それほどの強敵だ。イダンリネア王国と千年以上も戦争を続けていることがその証左と言えよう。


「巨人族に勝てたのは、僕としても驚きです。黒い奴には痛めつけられましたけど……」


 ヘカトンケイレス。オーディエンが異世界から連れてきた、赤褐色の個体だ。

 あらゆる面で巨人族を上回るそれを、エウィンはリードアクターに頼りながらも屠ってみせた。

 ゆえにこの傭兵が強者であることは間違いないのだが、不明瞭なことも事実だ。

 言うなれば、ヘカトンケイレス以上、オーディエン未満。

 現状では、こう表現するしかない。


「とっても、すごいことだと、思う。わたしなんて、まだまだ、だから……」


 力なく息を吐くアゲハだが、彼女は半年前に転生を果たしたばかりだ。

 日本人としては常軌を逸した身体能力を手にしており、彼女の成長速度はこの世界においても類を見ない。

 それでも自虐的にぼやいてしまう理由は、そういう性格もあるだろうが、比較対象をエウィンに定めてしまった影響か。

 もっとも、この発言には反論しなければならない。


「いやいや、アゲハさんは将来有望ですよ。僕なんて傭兵歴十年のベテランなんですから」

「そ、そんなこと……」

「胸張ってください。それに、いつぞやのおばさんもといお義母さんが出てきてくれれば、素の僕よりなんかぶっちぎって強くなれるんですし。そういえば、あれ以外、音沙汰は……?」


 アゲハが傭兵試験に合格してから、おおよそ一週間後の出来事だ。二人はマリアーヌ段丘で、オーディエンに襲われてしまう。

 当然のように、手も足も出ない。完膚なきまでの完敗だ。

 エウィンは左右の拳を砕かれ、アゲハに至っては膝から下を消し飛ばされてしまう。

 死以外ありえない状況下で、第三者がそこに現れる。

 アゲハを守るため。

 アゲハの願いを聞き入れるため。

 彼女はその体を依り代にして、ウルフィエナに顕現を果たす。

 それは名乗らない。

 なぜなら、名前を持ち合わせていないからだ。

 そうであろうとアゲハの体を操作して、危機を脱してみせる。

 アゲハの中に宿っていた、誰か。

 母親代わりと仄めかすも、実際のところは何もかもが不明だ。

 わかっていることは一つだけ。

 今もアゲハの中に宿っている。

 別人格のようなそれは、オーディエンとの戦闘以降、一度たりとも姿を見せない。


「ううん、ずっと、眠ってる。話しかけても、反応がないの……」

「そうですか。本当に何者なんですかね? アゲハさんのお母さんじゃなくて、と言うかアゲハさんすら知らない誰かさん。育ての親ってわけでもないんですよね?」

「違うと、思う。わたしのお母さんは、お母さんだけ……。他に、思い当たる人なんて、どう考えても、いない……」


 アゲハは願った。

 日本に戻り、母親に謝罪したい、と。

 入学金と授業料を払ってくれたにも関わらず、中退したこと。

 以降、仕送りに依存しながら引きこもり続けたこと。

 そういったことを謝りたいと思ったのだから、地球への帰還は当たり前な願望だった。

 しかし、今は揺らいでいる。

 エウィンの隣にいることこそが、最上級の幸せだと気づけたからだ。

 母に会いたい。

 この少年と一緒にいたい。

 どちらも嘘偽りない感情だ。

 ゆえに、悩んでしまう。

 うじうじしてしまう。

 そういった事情を知らないのだから、エウィンは平然と言ってのける。


「味方なのは間違いなさそうですけど、やっぱり不気味ですよね。そもそもなんて呼べばいいのやら。おばさんって呼ぶと怒るっぽいし……」


 そう呼んだ結果、この少年はいわれなき暴力を二度も振るわれた。涙が零れるほどには痛かったため、忘れられない思い出だ。


「名前すら、教えてもらえなかったよね……」

「今はグーグー寝てるんですよね? なんとかして叩き起こせないんですか?」

「う、うん、無理っぽい……」


 コミュニケーションは不可能だ。

 聞きたいことは山ほどあるのだが、名無しの誰かはアゲハの中で死んだように眠っている。

 ゆえに、エウィンとしてもため息をつくしかない。


「さすがに不便ですし、勝手に考えますか。本人が嫌だって駄々こねたら、その時に改名すればいい話ですし」

「そう、だね」

「わがまま言いだしたら、小一時間問い詰めますけど。まぁ、そんなことしたらまた殴られそうですけど」

「ふふ、大変だ」


 テーブルに膝をついて、少年は口をへの字に曲げる。

 対照的に、アゲハは心底楽しそうだ。大きな胸をわずかに揺らしながら、背もたれに体を預ける。

 窓の外がいかに暗くとも、室内は日中のように明るい。

 だからこそ、新たな議題についても仲睦ましく話し合える。


「名前かー。自分で言いだしておきながら、なかなか難しいですねー。髪の毛が青くなるから、青髪おばさんとか?」


 もはや悪口だ。それでも、思いついてしまった以上、エウィンは一つ目の案を提示する。


「そ、それは……。うーん、わたしも、なにか……。お母さんみたいな、人だったから、カナちゃん、とか……」

「カナちゃん?」

「うん、お母さんの名前が、可奈子だから……」

「なるほど。良い名前ではあるんですけど、あの人にしては可愛すぎると言うか……。あ、妙にツンツンしてたから、トゲトゲおばさん。これ、どうですか?」


 やはり悪口だ。悪気はないのだが、ボキャブラリーの無さがこういった単語を導き出してしまう。

 当然ながら、アゲハは首を縦に触れない。

 なぜなら、勘づいているからだ。


「多分なんだけど、あの人、眠りながら、わたし達のやり取りを、聞いてると、思う……」

「え⁉」


 この発言が、少年の顔を引きつらせる。

 同時に椅子からずり落ちそうになるのだが、先ずは取り繕わなければならない。


「アゲハさんが言ってたって伝えてもらえませんか⁉」

「え? それは、ちょっと、無理かな……」


 悪びれることなく罪を擦り付けるも、残念ながら罪状が増えるだけだ。

 ゆえに、代替案を提示しなければならない。


「あ、アゲハさん! その人を一生押さえこんでください! じゃないと殺されてしまいます! 僕が!」


 自業自得だ。

 そうであろうと、今は抗うことから始める。この交渉が成立すれば、少なくとも命を奪われる心配はないからだ。


「う、うん、がんばってみ……」


 エウィンのためにひと肌脱ごうとした時だ。

 前触れもなく、アゲハが固まる。

 噛んだわけではない。

 言い淀んだわけでもない。

 頭の中に、言葉が走ったからだ。


「どうしました?」

「今、あの人が、話しかけて……」

「な⁉」


 発言を受けて、エウィンは怯えるように椅子の背後へ避難する。

 この状況下においても、アゲハの報告は至ってシンプルだ。


「えっと、その、絶対に許さない、って……」

「いやー! 殺されるー! あ、謝りますから! 次出てきた時は、いくらでも肩揉みますから! ほら、おばさんだったら肩凝るでしょ!」


 錯乱が新たな失言を引き出すも、当然ながら本人は気づけていない。

 慌てふためくエウィンを前にして、アゲハはさらなる情報を告げる。


「ネゼ……、それが、あなたの名前? 素敵……」


 囁くように。

 つぶやくように。

 彼女の声が、室内を優しく包み込む。

 それを受けて、エウィンは怯えながらも目を丸くする。


「ネゼ? そう名乗ったんですか?」

「あ、うん。今、決めたみたい……」


 名無しは不便だと察してくれたのだろう。

 ネゼ。自称、母親代理の彼女が、自らをそのように命名した瞬間だ。


「かっこいいお名前だと思います! だから許して!」


 見苦しいとわかっていながらも、今は媚びるしかない。

 エウィンは椅子を盾にしつつも、生き延びる術を模索中だ。

 おだてれば良いのか?

 謝罪で許されるのか?

 わからないのだから両方を実行する。

 もっとも、打てる手はここまでだ。

 後は、アゲハの髪が青くならないことを祈るしかない。


「え? そ、それは、さすがに……。そうかも、しれない、けど……。う、うん……」


 歯切れが悪いアゲハだが、独り言ではない。

 頭の中でネゼと会話をしており、何かを押し付けられたらしく、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

 そのまま一歩を踏み出した彼女に対し、エウィンが出来ることは縮こまることだけだ。


「アゲハさん……?」

「えっとね、その……、やれって、言われたから……。えい」


 静かな室内で、二人は見つめ合う。

 目の高さがありえないほどにずれている理由は、エウィンが屈んでおり、アゲハが直立のまま見下ろしているためだ。

 そして、それは実効される。

 言い終えると同時だった。細腕がすっと振り下ろされると、握り拳が少年の頭頂部を撫でるように叩く。

 緑色の髪がペタンと潰れるも、当然ながら痛くも痒くもない。

 それでもこれが彼女の全力だ。

 正しくは、惚れた相手へ向けられる精一杯の体罰と言えよう。

 この状況を受けて、エウィンは硬直するも、その理由は一つではない。

 突然の殴打に驚いてしまった。

 その際に眼前の胸がたわわに揺れたのだが、当然のように目に焼き付けた。

 この二つが、少年の思考を一瞬ながらもフリーズさせる。

 しかし、状況把握を終えた以上、反応は迅速だった。


「ぐわー、やられたー」


 演じるように、エウィンがその場で崩れ落ちる。

 棒読みであろうと、ネゼと名乗った彼女に認めてもらうしかない。年寄り扱いしてしまったことは事実ゆえ、一先ずは誠意を見せることから始める。


「ふふ、エウィンさんったら」

「だからー、許してー」


 硬い床に寝そべりながら、やる気のない謝罪を口にする。

 その様子をアゲハは微笑みながら見守るも、ネゼの新たな発言に、その目をパチパチとさせてしまう。


「え? あ、うん……。エウィンさん」

「はい」

「覚えてなさい、って……」

「ゆ、許されてないー!」


 夜のシイダン村に悲鳴がこだまする。

 自業自得であろうと、叫ばずにはいられない。

 エウィン・ナービス、十八歳。女性との接し方について、また一つ、学習する。

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