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第五話 この世界で生きるため

 野原を駆ける、一人の傭兵。

 突風さえも追い越す脚力は、努力だけでは説明がつかない。

 もしもこの場に日本人がいれば、自動車やバイクを連想しただろう。

 残念ながら、アゲハはこの場にいない。朽ちかけの自宅で同居人の帰りを待っているはずだ。

 その少年が、誰よりも速く走っている。

 無人ゆえに競える相手などいないのだが、徒競走ではないのだから足の速さで優劣を決める必要などない。

 草原と同色の髪。

 やはり緑色の長袖カーディガン。

 ズボンだけは黒色ながらも、その出で立ちは周囲の景観に溶け込んでいる。

 しかしながら、していることは自然破壊に近い。

 生き物を狩って生計を立てているのだから、そういう意味では人間らしいと言えるだろう。

 もっとも、魔物を生ある者として扱えるかどうかは定かではない。

 それらは食事を必要とせず、ましてや子を産むわけでもない。

 狩られようと、つまりは殺されようと、雑草のようにどこからともなく補充される。

 地面から生えるわけではない。

 空から降り注ぐわけでもない。

 幻のようにぼんやりと輪郭を現し、あっという間にそこへ実体化する。

 つまりは、無からの出現だ。

 こういった増殖方法ゆえ、イダンリネア王国の学者達は、魔物を異世界からの侵略者だと考察している。

 殺しても殺しても、時間経過でその数が元に戻ることから、人間と魔物の争いが終わるはずもない。

 終戦のタイミングは人類が滅んだ時であり、そういう意味では絶望的な状況だ。

 しかし、魔物のこの特性は王国の民にとっても非常にありがたい。

 草原ウサギを例に挙げるなら、ウサギ肉を確保するために狩り尽くそうと、翌日のマリアーヌ段丘にはウサギ達が跳ねている。

 摩訶不思議な生態ながら、事実そうなのだから受け入れるしかない。

 そういう意味では、傭兵は賢い連中なのだろう。

 彼らは金のために、そして自分達の欲望を満たすために、魔物を狩り続ける。

 その結果、魔物の肉が手ごろな価格で売買され、最終的には食卓に並ぶのだから、彼らの業を責める者はいない。

 嘲笑い、見下す者達はいるのだが、職人気質な信念と傭兵の奔放さは相容れないため、干渉しあわないよう努めるべきか。

 傭兵は自由だ。引き換えに自身の命を賭けているのだから、愚か者であることは間違いない。

 定職に就くことを拒んだ者。

 魔物を殺すことでしか満たされない者。

 この少年に関しては、消去法だった。浮浪者ゆえに仕事が見つけられず、ましてや当時はまだ六歳。

 飢えに苦しみながらも軍区画に侵入し、彼らの特訓を模倣することで戦い方を学んだ。

 拾った包丁を凶器として、マリアーヌ段丘に赴いたのが七歳の頃だ。

 そして、今は十八歳。

 背中のリュックはパンパンだ。

 左手が抱える革袋も張り裂けそうなほど膨れている。

 どちらにも草原ウサギの死体が収まっており、その数は優に二十を上回る。


(かれこれ三十分は走ってるけど、むぅ、全然見当たらない……)


 少年の名前はエウィン・ナービス。彼にとってこの地は庭のような場所だ。

 十一年もここで狩りを続けているのだから、魔物探索も板についている。

 それでもなお、思う通りにはいかない。

 その理由は、草原ウサギの生息数が極端に少ないためだ。

 以前は、日に五体程度しか狩れなかった。

 しかし、今は違う。高まった身体能力によって走力が何倍にも向上したことから、討伐数を飛躍的に高めることが出来た。

 そうであろうと、一日に五十や百といった数をこなすことはおおよそ不可能だ。

 マリアーヌ段丘は広く、その全域が草原ウサギの縄張りながらも、絶対数がそもそも少ない。

 ましてや、ウサギ狩りはエウィンだけの専売特許ではない。

 傭兵志願者も、試験に合格した新人も、こぞってこの魔物を狩りたがっている。独占は同業者から嫌われるだけだ。

 そういった背景から、どれほど強くなろうと、草原ウサギだけで生計を立てることは難しい。

 一体につき二百イールにしかならないのだから、平均収入を目指す場合、つまりは一万イールを一日で稼ぐとなると、ノルマは五十体となってしまう。

 理論上は可能かもしれないが、おおよそ不可能だ。

 数がいない。

 ライバルがいる。

 こういった理由があるからこそ、ウサギ狩りは金策に向かない。


(今日は切り上げよう。粘っても遅くなるだけだし。そういえば、アゲハさんが来てからサボりがちだったけど、そろそろ筋トレ再開しないと。でも、こんなに強くなってもやる意味あるのかな? 話し相手になってあげたり、色々教えてあげた方が有意義な気もするし、そういうのも含めて要相談か)


 撤収だ。

 頭上の太陽は燦々と輝いているのだが、早引けさえも咎められない。傭兵とはそういう職業であり、全てが自己責任ではあるのだが、自由とはそういうものだ。

 帰国のため、少年は北を目指す。

 マリアーヌ段丘は東を海に、西を山脈に挟まれており、イダンリネア王国はその北東だ。

 この地には草原ウサギしか生息していないことから、注意を払う必要はあるものの、誰でも通り抜けることが出来る。

 移動に要する時間は三日から五日程度か。

 北西ないし南西へ抜けると、どちらであろうと森が待ち構える。

 王国の南側には複数の村や港が存在しているため、その方角へ遠征する者は少なくない。

 対して、マリアーヌ段丘を北西へ抜ける人間は限定的だ。

 軍人と傭兵。おおよそ彼らだけに限られる。

 理由はシンプルに、その先で行われる行為が魔物狩り以外にありえないためだ。


(ウサギ狩り以外にも手を伸ばした方がいいのかな? 多分、今の僕ならやれるはずだし……。ウサギ売り払ったら、少しだけ掲示板見てみよう)


 今日の稼ぎはおおよそ五千イール。大金とは言い難いが、浮浪者が生きていくだけなら十分だ。

 しかし、今はアゲハを養わなければならず、食費だけでも二人分かかる上、彼女にかかる出費はそれだけでは済まない。

 最低限の下着は買えたが、現状はそこまでだ。ジャージとジーパンはそれぞれ一着しかないため、新たな衣服を買わなければ洗濯もままならない。エウィンの服やズボンを貸すことで一時的に凌げてはいるのだが、その姿は露出が多く、外出には適していないため、早々に買い足すべきだ。


(ふぅ、到着。足が速いって本当に素晴らしい。自画自賛と言うか、アゲハさんのおかげなんだけど)


 緑の地平線に現れた壁は王国そのものだ。その内側が領土となっており、多数の国民が暮らしている。

 巨大な壁は部分的にくり抜かれており、そこが内外を隔てる玄関口だ。

 地蔵のような門番に会釈し、そこを通り抜ければその先は別世界のように賑わっている。

 イダンリネア王国。この大陸の最東部に位置する、巨大国家。王族を頂点とした社会が構築されており、現在は女王がこの国を統治している。

 千年の歴史を刻む大国だ。魔物との戦争に勝ち続けているからこそ存続出来ているのだが、流れた血と涙の量は誰にもわからない。

 エウィンは行きつけの精肉店で草原ウサギを売り払うと、その足でギルド会館へ向かう。

 入館後、右手側へ進めば多数の掲示板が配置されており、張られた羊皮紙達は依頼人の願望そのものと言えよう。

 同業者に埋もれながら、少年は呆けるようにそれらを物色する。

 発行される依頼は、大きく分けて三種類に分類可能だ。

 魔物討伐。

 素材収集。

 そして、雑用。

 以前のエウィンなら、魔物討伐と素材収集は不可能だった。草原ウサギしか倒せない上、遠出が困難だったからだ。

 しかし、今は違う。腕試しは必要ながらも、狩れる魔物の数は増えたはずだ。

 ゴブリンを討伐出来たことが自信に繋がっており、相場を知るためにも依頼内容を手短に見比べる。


(やっぱり素材集めが人気なのかな? これなんか、手堅そう……)


 ジレットタイガーの牙集め。要求数は十二本と多いも、実際には六体狩れば収集完了だ。

 報酬は一万四千イール。この金額を一日で稼げるのなら、一般的な仕事と同程度の収入と言えよう。

 しかし、飛びつけない。

 この魔物が生息している土地までは二週間近くもかかってしまう。往復ならその倍だ。

 移動に一か月、収入は一万四千イール。割に合わないどころではない。

 それでも掲示板にこの羊皮紙が張り出されている理由は、受注する傭兵がいるためだ。

 この業界のルールの一つに、依頼は一人一つまでしか受けられない。

 裏を返すなら、複数人のチームなら人数分の仕事を同時にこなせてしまえる。

 ましてや、エウィンも含めて傭兵は徒歩で現地に向かわない。当然のように走るのだから、移動時間は大幅に圧縮可能だ。


(こうしてじっくり眺めてると、色々あるなぁ)


 以前も仕事を探してはいた。

 しかし、実力が伴わないと自覚していたことから、半ば冷やかしのように眺めるだけだった。

 もしくは羨望の眼差しを向けていたのか。

 どちらにせよ、羊皮紙を剥がし、奥の受付カウンターへ持っていくことは叶わなかった。


(今ならやれる気がするけど、どのくらい時間かかるのかな? 万年ウサギだけあってウサギ狩りだけなら誰にも負けないけど、他はからっきし……)


 イダンリネア王国はマリアーヌ段丘と隣接しているため、標的が草原ウサギならすぐにでも帰国可能だ。遠征の場合、こうはいかないだろう。

 棒立ちのまま思案を巡らせる少年だが、ここは仕事の斡旋場所だ。同業者の往来だけでなく、この施設の職員も様々な理由で行き来する。

 茶色の制服は傭兵組合の制服だ。結った赤髪を揺らしながら、女性がエウィンの右隣に現れる。

 その理由は、羊皮紙を掲載するためだ。

 少年が眺めていた依頼の隣は空きスペースとなっており、そこへ新たな依頼が張り出される。

 ウッドファンガーの傘部分を収集。

 必要数は三体分。

 報酬は一万イール。

 悪くない内容だ。少なくともエウィンはそう認識する。

 しかし、飛びつけない。目的地やこの魔物については把握出来ているのだが、実際に戦ったことがないことから、費やす時間の長さも加味すると独断では決められなかった。


(活動範囲の拡大も、今後の課題ってことにしよう。今日はこのへんで……)


 切り上げる。

 ギルド会館でうじうじ悩もうと、一イールも稼げない。

 自宅ではアゲハが待っててくれるのだから、彼女と話し合えば見えてくるものもあるはずだ。

 今はそう考え、その場を後にする。

 同棲を始めたわけではない。アゲハの住処が決まるまでの暫定処置だ。

 そのはずだが、彼女は何日も少年のボロ小屋に住み着いている。

 アゲハのために目ぼしい物件は見つけているのだが、そこを良しとするかどうかは本人次第なため、内覧は必須だ。

 裏を返せば、彼女にその小屋を紹介すれば別々の暮らしが始まる。

 もっとも、アゲハもそれを察しているため、この話題が振られる度に居眠りを決め込む。

 わかりやすい寝たふりながらも、エウィンとしても深追いは出来ないため、訪れた静寂を受け入れるしかない。

 一人はまだ怖いのだろう。

 そう推察するも、満点とは言い難い。それでも半分くらいは当たっているのだから、彼女が巣立つまでは共同生活を受け入れるべきだ。

 いつまで続くのか、それはまだわからない。

 彼女が一人暮らしを欲した時か。

 地球へ帰還する瞬間か。

 正解は、神のみぞ知る。



 ◆



 大通りから脇道へ入り込み、そのまま真っすぐ進むと、ある時を境に景観が寂れてしまう。

 そここそが貧困街。廃棄され、放置された区画であり、浮浪者や野良猫が住み着いているためか、再整備は一向に行われない。

 道端の雑草は競うように群生しており、家屋を隔てる壁もひび割れてしまっている。

 空き地が多い理由は、建物が取り壊され、新たな役割を与えられなかったからだ。

 残された建築物は廃墟のように老朽化しており、おおよそ人が住める場所ではない。

 そうであろうと、彼らには選択肢など与えられていないのだから、雨風をしのぐためにその中へ足を踏み入れる。

 無断で立ち入っているのだから、不法侵入だ。

 つまりは犯罪なのだが、浮浪者の時点で失うものは何もないのだから、追い出されるまでは居続けるつもりでいる。

 むしろ、牢獄の方が居住性は勝っているのかもしれない。食事すらも提供されるのだから、単純な労働を強いられようと今よりは人間らしい生活を送れるはずだ。

 貧困であるがゆえに。

 もしくは、全てを失ったがために。

 彼らはその他大勢から差別されている。

 救済されるべきか?

 自分達で脱却すべきか?

 どちらにせよ、この国は救いの手を差し伸べない。

 ならば、境遇の改善は自ら行わなければならず、エウィンもそうしたいのは山々なのだが、方法が思いつかない以上、現状に甘んじている。

 金を稼ぐも少額ゆえに貯蓄にはまわせず、食費にほとんど消えていく。

 今まではそれでも問題なかった。

 厳密には困ることも多々あったのだが、独り身ゆえに耐え忍ぶことが出来た。

 しかし、今後は改善しなければならない。

 恵まれた環境で自堕落な生活を過ごしていたアゲハだが、今はホームレスと大差ない。

 朽ちかけの小屋に身を潜め、毛布もなしに夜を明かしている。

 不慣れな異世界。

 不衛生な室内。

 日本人にとっては過酷な環境のはずだ。

 ゆえに、そうなることは初めから決まっていた。


「ただいま」


 同居人がいるという状況には未だ慣れない。それほどまでに一人暮らしが長かった。

 そうであろうと一週間近くも続けていれば、自動的に口が動いてくれる。玄関代わりの木板をどかす時点で自身の帰宅は明らかなのだが、挨拶をしないという選択肢を少年は選ばない。


「あ、おかえり、なさい……」


 耳を疑うほどのかすれ声。

 アゲハは苦しそうに体を起こすと、虚ろな眼差しを少年へ向ける。寝ていたであろうことは雰囲気から明らかだが、普段以上に顔色は悪く、咳き込む姿は病人のそれだ。

 エウィンは心配そうに彼女を眺めながらも、先ずは自身の荷物を片付け始める。

 しかし、重苦しい咳が一向に収まらないことを受け、慌てて駆け寄る。


「大丈夫ですか?」

「う、うん……。ちょっと、だるい、だけ……」

「それって風邪ひいちゃったんじゃ……」


 医学の知識がなかろうと、そう思わざるを得ない症状だ。

 背中を丸め、顔をしかめながら空気を吐き出すアゲハ。

 そんな彼女に対し、エウィンが出来ることは少ない。


(咳が重いと言うか深いし、けっこう危険なんじゃ? 風邪ってひいたことないからわからないけど、人によっては寝込むらしいし……。ましてやこの人は異世界からこっちに来たばかり。だから、体が馴染めてないし、この世界に適用出来ていない)


 環境の変化と、清潔とは言い難いボロ小屋での生活。無菌が当たり前だった彼女には、あまりにも劣悪過ぎた。

 その結果がこれだ。

 顔は青ざめ、唾すら飲み込めないほどに喉が痛む。

 頭痛だけでなく、体の節々も軋んでおり、泣き喚きたいがその気力も残ってはいない。

 立って歩くことさえ困難だ。こうして上半身だけなら起こせたが、眩暈のせいで長くはもたない。

 エウィンに支えられながらも、アゲハは喘息のように咳き込み続ける。体の奥底から悪性の何かを吐き出すような素振りだが、飛沫が飛び散るだけで改善は見られない。

 にじむ涙は咳の反動か。

 もしくは、それほどに苦しいのか。

 少年は確認するよりも先に、行動を開始する。


「お医者さんに見てもらいましょう。ちょっと失礼します」


 返事すらも待たない。

 左手でジャージの背中を支えながら、もう片方の手をジーパンの下に滑らせる。そのまま太ももを抱えて持ち上げれば、運送準備は完了だ。


「あ、え? え? これって、お姫様、だっこ?」


 驚きの余り咳が止まるも、アゲハが病人であることに変わりない。エウィンもそれをわかっているからこそ、陰湿な室内から彼女を運び出し、行先を見定めるように周囲を見渡す。

 しかし、この行動が勇み足だったと気づかされた瞬間でもあった。


(病院って、どこにあるのかな?)


 この少年は傭兵だ。そのおかげか、食あたり以外の体調不良を経験したことがない。

 医者にかかったことがなく、病院へ足を運んだこともなければ住所さえわからない。

 だったら、誰かに尋ねるまでだ。

 アゲハの容態は悪化している。

 その証拠に、先ほどまでと違って彼女の顔は赤く、体温もさらに上昇してしまった。


「あへ、あへ……」

(変な顔で涎まで垂らして……。苦し過ぎていっぱいいっぱいなのかな? 急いで大通りまで移動して、誰かに教えてもらおう。いや、ちょっと待って。そういえば……)


 このタイミングで思い出す。

 半年前か、一年より前か、それすらも曖昧ながら、少年は記憶の中からとある談笑を探り当てる。

 場所は、先ほど同様にギルド会館の掲示板前。

 時間帯は午前、少なくともお昼時には届かない時間帯だ。

 彼らの姿を思い浮かべると同時に、三人の声が頭の中で走り出す。

 すみません、パオラがお腹壊しちゃったみたいで、やっぱり今日は止めておきます。

 おっけー。一人で簡単な依頼こなしとくー。

 おなか、いたい。

 朝食のデザートにアイスを四人分も食べるからだぞ? 本当に、もう。

 おいしかた!

 やかましい。ほら、最近さぼってた定期健診も兼ねてアンジェさんとこ行こう。

 おぐすり、やだ!

 処方されるかどうかは症状次第だろうけど、出されたら我慢して飲むように。

 アンジェさんってかかりつけのお医者さんだよね? 上層区画の人だっけ?

 はい。イグリス坂を登りきってすぐですよ。白い病院がそれです。

 そこでなら、お父さんのハゲも治してもらえるのかな?

 いや、さすがにあれは……。毛根が死滅してますし……。

 そっかー。あ、お寿司食べたくなってきた。

 親子三人、水入らずで食べてください。それじゃ、僕達はこれで。明日はパオラが無理でも僕一人で来ますので。


(イグリス坂の先……。だったら、すぐにでも見つけられそう)


 記憶をたどった結果、手がかりを思い出すことが出来た。

 イグリス坂。城下町の北側に存在する山道。長いそれを登りきると、特権階級の住まう区画にたどり着く。そこには貴族や富裕層、そして王族が居を構えており、平民は立ち入るさえ禁止されている。


(上層のお医者さんって確か王国随一の名医らしいし、きっとアゲハさんの風邪も……)


 行き先が決まった瞬間だ。

 残念ながら、正規ルートは使えない。エウィンは王国民の中では最下層に位置するため、坂道に近寄ることすら不可能だ。警備兵に呼び止められるばかりか、逮捕すらもありえる。

 そうであろうと諦める必要はなく、上層区画は山の途中にあるのだから道なき道を駆け上がれば済む話だ。

 かなりの急勾配ゆえ、多少足腰を鍛えていようとかなりの重労働になるだろう。

 ましてやそんな場所をよじ登ろうものなら、監視に見つかり、刑罰は免れない。

 言い逃れの出来ない犯罪だ。

 そのはずだが、この少年は自身の身体能力を信じ、そして、彼女の治療を最優先に考える。


(あっちだな)


 ここはイダンリネア王国の城下町、その東側。少し歩けば港にたどり着くのだが、今回は異なる方角を目指す。

 先ずは北上だ。

 寂れた街中をぐんぐん進むと、あっという間に河川が見えてくる。浮浪者が水浴びを行う場所でもあるのだが、今回は足を踏み入れず、並走するようにその上流を目指す。


「そろそろ本気で走ります」

「あへぇ」


 エウィンの発言通り、ここまではジョギングでしかない。貧困街ゆえに人口密度は低いのだが、そうであっても全力疾走は危険だ。浮浪者や野良猫が住み着いているのだから、自動車のような速度で走った場合、ぶつかっただけでも命を奪いかねない。

 しかし、気遣いはここまでだ。

 廃墟のような街並みを通り抜け、川とも別れを告げると、その先には断崖絶壁の岩山が立ちはだかる。

 つまりはそこが王国の端を意味するのだが、少年にとってはここからが本番だ。

 わずかな軌道修正と共に山脈を右手に眺めながら、突風さえも追い越すほどに加速する。

 城下町からはみ出し、山の麓を駆けているのだから、周囲は無人。手加減は不要だ。

 競う相手がいなくとも、誰よりも速く走らなければならない。腕の中のアゲハが苦しそうに喘いでいるのだから、診療所への搬送は一刻も早く行うべきだ。


「あへ、えへへへへ」

(病人と言うか変態みたいな顔してる。風邪って怖いんだな)


 そう自分に言い聞かせ、エウィンは遠方の目的地に狙いを定める。

 山の中腹に設けられた、第二の王国。選ばれた者だけが住める、高台の土地だ。

 斜面ゆえに体が傾くも、お構いなしに走り続ける。山頂方向を目指しているわけではないため、足取りは軽く、抱えている荷物の重量さえも感じさせない。

 左手側は城下町なのだから、本来ならば不届き者の姿は丸見えのはずだ。

 しかし、今回に関しては問題ない。凡人の動体視力では、エウィンの姿は捉えられない。


「いっきに……!」


 上層区画が近づいたタイミングだった。エウィンが吠えると、二人の体が宙を舞う。

 その跳躍は鳥のように高く、滞空時間を指折りで数えようものなら片手では足りない。


(お、思ってたよりも高く飛べたぁ! ちょっと怖い! くぅ、着地ぃ!)


 王国を見下ろせたのは一瞬だ。落下地点を見定め、身構えなければならなかった。

 落下しているのだから当然なのだが、ありえない速度で街道が迫る。両腕を使って勢いを相殺したかったが、アゲハを抱えている以上、それは不可能だ。二本の足だけで運動エネルギーと位置エネルギーの総量を受け止めるしかない。

 歯を食いしばり、両腕と体で彼女を包みながら、精一杯の力を両脚に宿す。

 それを合図に石畳の道へ着地するも、爆弾が爆発したかのような地鳴りが響いてしまう。道路もひび割れてしまい、器物破損の罪で立派な犯罪者だ。

 しかしながら、この地への侵入には成功した。

 本来ならば人体が粉砕するほどの衝撃だ。

 にも関わらず、少年の下半身は軽く痺れる程度で負傷すらしていない。

 アゲハに関しても無傷ゆえ、運搬は成功だ。鼻水と涎で大変なことになってはいるが、病人ゆえに少年は静観を決め込む。


「もう到着です」

「あひぃ……」


 急がなければならない。彼女の容態も去ることながら、今の轟音を聞きつけ、軍人達が駆け付けるはずだ。

 彼らも傭兵同様に魔物を殺せるほどの人材ゆえ、足の速さは人間離れしている。現場で立ち止まっていれば、たちまち包囲されてしまう。

 逃げるように駆け出すも、目的地は把握済みだ。

 落下の際に白い建物を視認することが出来た。豪華絢爛な豪邸が立ち並ぶ一画において、その見た目は十分目立っていた。

 整備された道を走り、即座に細道へ。地図を見るように街並みを一望出来たのだから、足取りに迷いなど生じない。

 周囲の屋敷には目もくれず、そこだけを目指して走れば、瞬く間に到着する。


(ここだ。時間は……、うん、まだやってる)


 掲げられた看板には診療時間が掲載されており、結果論だがウサギ狩りを早々に切り上げたことが功を奏した。

 隣接する豪邸ほど煌びやかではないものの、敷地面接は上回っており、その白さも相まって目を見張る建物と言えよう。

 病院ゆえに恐れる必要などないのだが、傭兵は病人を抱えたまま、忍び足で正面扉からの侵入を果たす。

 第一印象は、消毒液の香りだった。

 待合室は清掃が行き届いており、無人だからか、別世界のような疎外感を覚えてしまう。

 備え付けの青いソファーにアゲハを一旦横たわらせ、エウィンは窓口に歩み寄る。


「あのう、すみません……」


 覇気のない声だが、大声よりは健全だろう。囁くようなトーンだが、受付の奥に待機していた女性は気づいてくれた。


「いかがなさいました?」


 落ち着きを払った声だ。

 患者に安心感さえ与える声質ながらも、現れた女性に対してエウィンは静かに驚いてしまう。


(魔眼……、この人も魔女だ。すごいな、ここ……)


 清涼なショートヘアーと着慣れた白衣。暑い唇も相まって美人であることは間違いない。

 しかし、その瞳が少年を困惑させた。

 魔眼。瞳のカラフルな虹彩部分に異変を宿した眼球。黒目の部分、その内側の外周をなぞるように赤色の線で円が描かれている。外見上の違いはその程度なのだが、その線があるだけで受ける印象は大きく変わってくる。

 魔眼の所有者は魔女と呼ばれ、近年までは迫害の対象だった。差別ですらなく、魔物というカテゴリーに当てはめ、軍隊を派遣して抹殺していたのだから、魔女を人間として受け入れたことは革命に他ならない。


「えっと、アゲハさ……、あの人が体調を崩してしまって。診て頂けないでしょうか?」

「診療は初めてでしょうか? お家はどちらになりますでしょうか?」

「う……」


 彼女の質問が少年を困らせる。

 ここは貴族御用達の診療所だ。言わばマニュアル通りの接客なのだが、エウィンとしては顔をしかめるしかない。


「僕は傭兵で、その、貧困街の人間です。あの人も同様です」

「そうですか。申し訳ないのですが、お引き取り願いします」


 当然の対応だ。浮浪者が立ち入って良い場所ではないのだから、この女性に悪気はなかろうとそう言わざるを得ない。


「そこをなんとか、お願いします。お金ならあります。アゲハさん、咳が止まらないし、体のあちこちが痛むみたいで……。風邪だと思うのですが、すごく苦しそうですし、せめて薬だけでも、もらえませんか?」

「薬の処方にも先生の判断が必要となります。お気持ちはお察しますが……。それに、ここは上層区画です。平民は立ち入ることすら許されておりません。どうやってここへ?」

「あ、その、助走をつけて、城下町からジャンプしてきました」


 そして、静寂が訪れる。

 当然だ。ただの人間にそのような芸当が出来るはずがない。この区画の標高は十メートルや二十メートルどころではなくく、ひと際大きなギルド会館でさえ、その屋根は遥か下だ。

 ましてや、この傭兵は人間を一人を抱えて跳躍した。妄言以外の何物でもない。

 ゆえに、受付の女性も言葉を詰まらせる。

 子供の戯言に付き合っていられるほど、病院の仕事は暇ではない。不衛生な子供を追い払い、書類仕事を片付けたかった。

 そのはずだった。


「本当ですか?」

「え? あ、はい、本当です……」

「だとしたら……、ハバネ様やエルディア様に匹敵する? 少々お待ちください」


 誰のこと? そう思いながら、エウィンは後ろ姿を見守る。

 彼女は奥の扉から別室へ移動したため、待合室に取り残されてしまった。待てと指示された以上、待つしかなく、アゲハの苦しそうな咳き込みを聞きながら、案山子のように立ち尽くす。

 見慣れない風景と嗅ぎ慣れない匂いが暇な時間を潰してくれたおかげか、その二人の登場はあっという間に感じられた。


「こちらです」

「ふーん、服もボロボロだし、いかにもって感じだけど、見た目だけじゃ判断出来ないってお手本ね。今日は閉店よ、施錠よろしく」

「かしこまりました」


 眼鏡をかけた女医が、桃色の長髪を揺らしながら傭兵を物色する。まるで寝癖だらけのような髪型だが、くせ毛ゆえにこれこそが自然体だ。

 医者にしては若い。エウィンが抱いた第一印象だ。

 少なくともアゲハよりは年上のようだが、記憶の中の母親よりは幾分若く見える。

 長いスカートも、着ているセーターも黒一色だ。

 それゆえに、真っ白な白衣が非常に映える。

 もっとも、理由はそれだけではない。乳房の膨らみがもたらす自己主張もまた、視線を集める原因と言えよう。

 その大きさなはアゲハに匹敵するほどだ。少なくとも、エウィンにはそれほどのボリュームに映った。


「訊きたいことは山ほどあるのだけど、先ずはその子の診察ね。ついてきて」

「は、はい」


 少年は言われるがままだ。現状把握も終えぬ内に、移動を言い渡される。今のアゲハは立って歩くことも困難な状態ゆえ、先ほど同様に担いで運ぶしかない。

 待合室から廊下へ。

 そして、あっという間に個室へたどり着くと、エウィンの眼前で視診が開始される。


「口を大きく開けて」


 椅子の上で上半身をゆらゆら揺らしながら、アゲハが気力を振り絞るように口を開く。

 女医は患者の顎に手を添え顔の位置と角度を微調整しながら覗き込むも、診察は一瞬だった。


「口蓋扁桃の炎症がすごいわね。症状は咳と他には?」

「あ、ごほっ、えっと……、体が、だるくて、あと、食欲もあまり……」

「体の節々も痛むそうです。顔が赤いので熱もあるかもしれません」


 辛そうなアゲハの補足もエウィンの立派な役目だ。守ると誓った以上、余計なお世話かもしれないが、こういったところでもサポートを欠かさない。

 言葉を発したためか、室内に重い咳が響くも、医者は眉一つ動かさずに診断結果を述べ始める。


「ただの流行り病のようにも見えるけど、それにしても症状が酷いわ。体温も高過ぎる。念のため、今晩は入院していきなさい」


 即断即決だ。アゲハを別室のベッドに寝かしつけ、医者は慣れた手つきで点滴を投与する。

 その後、患者を個室に残して、二人は先ほどの診察室に戻るも、実はここからが本題だ。


「そういえば自己紹介がまだだったかしら。私はアンジェ・ドクトゥル、ここの院長を務めてる。先代のじじいがくたばったから、その後釜ね」

「エウィン・ナービスです。傭兵です」


 改めての挨拶が終わり、女が足を組み替える。ロングスカートの中でもぞもぞと動く所作は、どこかなまめかしい。

 当然ながら、この室内も消毒液の匂いで満たされている。棚には見慣れない薬品や器具がしまわれており、エウィンの視線は落ち着かない。

 一方、アンジェと名乗った女医は冷静だ。眼前の少年を観察しつつも、一つ目の質問を投げかける。


「医者なんてしててもね、交友関係は存外狭いの。それでも、その内の何人かは傭兵でね。その子達を見てると、あぁ、意味ないんだな、とは思うのだけど、一つ訊いていいかしら?」

「あ、はい。僕なんかで答えられることなら……」

「あなたの等級はいくつ?」


 等級制度とは、傭兵組合が定めた階級のようなものだ。

 傭兵の実力や経験を数値化するため、簡易的ではあるのだが、彼らを等級という区分にて分類している。


「僕は、その、等級一です」

「ふーん、てっきり三かと思ってたけど想像以上だったわ」


 等級の数字は一から始まる。

 等級一、傭兵試験に合格した者。

 等級二、八十個の依頼を達成した者。

 等級三、さらに四百個の依頼を達成。

 等級四、巨人族を単独で討伐。

 さらに上があるのだが、五以上に至った者は傭兵制度が発足されて以降、四人だけ。その上、現在は該当なしだ。

 エウィンの等級は一のまま。本来は恥ずべきことなのだが、この女医は口では驚いたと言いつつも、見下すことなく問答を続ける。


「あなた、傭兵になったばかり?」

「い、いえ、七歳で試験に受かったので、かれこれ十一年になります……」

「ん~? 意味不明な発言が同時に二つも飛び出したわね。七歳の子供が傭兵試験に受かった? 本当なの?」


 彼女が疑うのも無理はない。討伐対象の草原ウサギがいかに弱いと言っても、魔物は魔物だ。少なくとも、大型の野良犬よりは手ごわい相手と言えるだろう。


「本当です。拾った包丁でなんとか倒せました。傷だらけには、なりましたけど……」

「私の知り合いとは別方向にぶっ飛んでるのね。十一年も傭兵やってて、なぜ等級が一のままなの?」

「えっと、張り出されてる依頼は僕には難しくて、だから、草原ウサギだけを狩り続けてきました」

「私が医者だからってバカにし……、ううん、違うわね。ごめんなさい、汚い言葉を使ってしまったわ。だけど確認させてちょうだい。私にだってウサギ狩りが本業にならないことはわかるの。あなた、本当にウサギだけを?」


 草原ウサギの肉には需要がある。それゆえに狩ったら狩っただけ売りさばくことが可能だ。

 しかし、需要に対して供給も多く、それゆえに得られる対価は非常に少ない。

 具体的には、一体につき二百イール。質素なパンが二つしか買えない金額だ。

 草原ウサギの生息数は決して多くはない。全てを独占して狩れれば儲かるのだろうが、広いマリアーヌ段丘を全力で走り続けようと、そのような芸当は不可能だ。腕を磨きつつ小銭を稼ぐため、同業者もまた躍起になっているのだから、草原ウサギという資源は共有し合うしかない。


「はい。だから、僕は陰で万年ウサギと呼ばれてました。草原ウサギしか狩れない、落ちこぼれ……という意味で」


 実は、エウィンの発言を待たずに、アンジェは眼前の人間について把握を終えていた。

 稼ぎ方がわからない。

 稼ぐ能力がない。

 それゆえに、浮浪者から抜け出せなかった。

 貧困街に住み続けるしかなかった。

 そのはずだが、そうではないらしい。


「だけど今のあなたは違う?」

「そ、そうみたいです。先日、マリアーヌ段丘でゴブリンに襲われた際、クロスボウに射られて死にかけまして……。だけど、アゲハさんのキュアで一命をとりとめて、そのまま倒すことが出来ました。その時に、理由はわからないんですが、強くなれたみたいで……」


 妄想みたいな説明だ。

 しかし、何一つとして嘘は言っていない。治療が回復魔法ではないという誤りはあるものの、そう認識しているのだからやむを得ない。


「そう。さっきの子だけでなく、あなたのことも隅から隅まで検査してみたいわね。したところで何もわからないでしょうけど」

「信じてくれるんですか?」

「ええ。だって、下からここまで飛んで来たのでしょう? そんなこと、常人に出来るはずないもの。それこそ、傭兵であってもね。あなたは多分、壁を越えたのよ」

「壁……」


 荒唐無稽な持論だ。彼女の言こそ、妄想に他ならない。

 そのはずだが、エウィン自身が実感出来ている。

 才能という壁を乗り越えられた。

 だからこそ、ゴブリンという強敵を打ち破ることが出来た。この事実こそがそれを証明しており、疑うことは難しい。


「おおよそ理解出来たわ、あなたについては。それじゃ次の質問、あの子、アゲハはどこから来たの?」


 この瞬間、室内の空気が凍り付く。

 エウィンが硬直してしまったせいだが、女医は臆することなく、返答を待ち続ける。


「その、僕と同じ、貧困街ですけど……」

「そういうことを訊いてるんじゃないって、あなたにならわかるでしょう? 結果的に今は貧困街なんでしょうけど、その前はどこにいたのかってこと。少なくとも、王国じゃないわね。その程度のことは、私にもわかる」


 アンジェは上層区画の住人だ。つまりは、貴族やそれ以上の人間と接点があり、エウィンのような勘違いはしない。

 アゲハは貴族でもなければ、イダンリネア王国の出身ですらない。

 現時点で、彼女はここまで見抜けている。


「えっと、その……、僕の口からはお伝え出来ないです」

「そう。だったら、後で本人に訊くとしましょう。確かに、あなたから教わるのはお門違いだったわ」

「やっぱり、あの服でわかっちゃうものなんですね」


 アゲハの服装は明らかに浮いている。

 黒色のジャージ。

 白いタートルネック。

 そして、ジーパン。

 日本でなら珍しくもないが、イダンリネア王国においては完全な異物だ。


「デザインも去ることながら、あんな繊維、見たことも聞いたこともないもの。近いものならデフィアーク共和国で発明されたようだけど、それだってほとんど輸入されてないから。その線から、東の人間なのかしらね? どうなの?」

「え? そ、その、東とかそういうのじゃなくて……」


 口ごもるしかない。

 アゲハは異世界からの訪問者だ。

 この事実を、本人の承諾なしに告げられるはずもない。

 ましてや、真実を明かしたところで信じる方が変人だ。ここでの沈黙は正解だろう。


「まぁ、いいわ。ところで、あなた達ってどんな関係なの? やっぱり、男と女?」

「あ、いえ、そういうのじゃなくて。貧困街でアゲハさんを保護して以来、一時的に匿っていると言いますか、その、約束したんです。アゲハさんを元いた世界に戻し……、あ……」


 失言だ。

 エウィンは誤魔化すように頭皮をかくも、緑色の短髪が揺れるだけで状況は好転しない。

 そのはずだが、アンジェは追及せずに医者として忠告する。


「あの子、きっと温室育ちのお嬢様よ。だから、体が耐えられなかった。不衛生な場所に馴染めず、体調を崩し、悪化させた。よくある話だわ。あぁ、あなたが悪いって言ってるわけじゃないのよ? 仕方ない、それだけのこと」


 慰めるような発言ながらも、少年を困惑させるには十分だった。

 毛布も布団もないことから、就寝中は体が冷えてしまう。

 隙間風がさらに体温を奪い、砂ぼこりを室内に運んできてしまう。

 入浴だけは宿屋の大浴場を利用させたが、彼女のコンディションを回復させるには至らなかった。

 不衛生と指摘されれば、その通りだ。アパートに引き籠っていた日本人には、苛酷な環境と言えるだろう。


(僕のせい……だ。こっちの世界について色々教えるよりも先に、住む場所をどうにかすべきだったんだ。そんなことにも気づけないなんて、僕は……)


 自己嫌悪に陥ってしまう。

 しかし、今更反省したところでアゲハの体調が元に戻るわけでもない。

 それでも、今は自分を責めずにはいられなかった。

 一方、アンジェは足を組んだまま、自慢の巨乳を見せつけるように胸を張ると、質疑応答を一旦締めくくる。


「後は医者の私に任せておきなさい。ほっとけば命に関わったでしょうけど、今回は十分間に合ったわ。明日の退院……とは言い切れないけど、数日中には完治するはずよ」

「良かった……。ありがとうございます」


 今のエウィンに出来ることは、眼前の女性に頭を下げることだ。

 もっとも、やるべきことはもう一つ残っていた。


「窓口はもう締めちゃったから、お金はここで払ってちょうだい。先ずは診察料が八千イール」

「はっせ……ん」


 女医の発言を受け、少年は驚きながらも背負い鞄を漁り始める。

 しかし、彼女の口は止まらない。


「それと、入院費用が別途五万イール。一日分で」


 この瞬間、エウィンの頭は真っ白になる。

 所持金が全く足りていない。硬貨を入れた袋を漁るまでもない事実だ。


「あ、あの、すみません、これ……、これが僕の全財産で……」


 取り出せた銅貨と銀貨を披露するも、その枚数は十枚にも満たない。

 今日の稼ぎも含めて、所持金はたったの六千二百イール。

 震える手でそれらを差し出すも、診察料にすら届いていないのだから入院以前の問題だ。


「ふーん、傭兵が稼げないってことは知っていたつもりだけど、やっぱり予想以上だったわ」

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」


 唇を震わせながら、謝罪する。

 その行為が引き金となり、少年の瞳から涙が零れてしまう。

 アゲハが追い出されてしまうという恐怖。

 彼女に満足な治療を受けさせられないという不甲斐なさ。

 眼前の医者に対価を支払えないという罪悪感。

 それらが圧し掛かった結果、エウィンは許しを請うように涙する。

 浮浪者という時点で後ろめたさを感じながら日々を生きてきたのだが、この瞬間のそれは過去に例を見ない。

 惨めすぎる。稼げない自分に非があるため、己を責めるしかなかった。

 金の稼ぎ方を知らなかった上、草原ウサギしか狩れなかったのだから、仕方ないと言えばそれまでだ。

 父が漁船と共に焼け死に、母はゴブリンに殺されてしまった。

 その結果、少年は一人で貧困街に流れ着いた。

 しかし、傭兵という職業を選んだのはエウィン自身だ。

 それしか選べなかったという側面はあるものの、その道へ踏み出した以上、魔物を狩って金を稼ぐしかない。

 残念ながら、今のままでは医療費の捻出すら困難だ。そう気づかされた以上、流れる涙は止まらない。

 体調を崩したのが自分自身だったら、ベッドから降りれば済む話だ。もちろん、不足分は後日返済すべきだが、その前に通報され、連行されたとしても文句は言わない。大人しく逮捕され、罰を受けるつもりでいる。

 貧困が罪ではない。

 金を払えないにも関わらず、病院を利用してしまったことが犯罪だ。

 返済の意志はあるものの、受け入れるか否かは施設側の判断となる。

 さらには、アゲハを追い出すか否かも眼前の女性に左右されてしまう。

 それだけは避けたい。

 だからこそ、はした金であろうと数少ない硬貨を差し出す。六千二百イールは今支払える上限であり、これをもってアゲハの治療を続けてもらいたい。

 なんとも都合の良い話だ。

 そうであることを重々承知しているからこそ、両手を差し出し頭を下げ続けている。


「あの子は貴族だったからどうとでもなったけど、この子の姿こそが王国の現実なのかもしれないわね。魔女の救済すらも道半ばなのに、ほんと、やるべきことが多すぎて参っちゃうわ」


 エウィンには理解出来ない独白だ。

 そうであろうとこの医者にとっては重要な反芻であり、子供でありながら帰る場所を失った少年に対して、行動を開始する。

 お金を差し出す両手に下から手を添え、そのままゆっくりと閉じさせる。

 さらには体を寄せるように歩み寄り、エウィンをやさしく抱きしめれば、その姿は子をあやす母親そのものだ。


「自分を責めないでいいの。そのお金も今は受け取らないであげる。ツケでいいから、少しずつ返してくれればそれで構わないわ。あの子の面倒も私に任せなさい。責任をもって治してあげるから」


 アンジェの優しさが少年の涙をさらに溢れさせるも、エウィンは歯を食いしばってそれを止める。

 消毒液の鋭い匂いの中に、ほんのりと甘い香りを感じ取りながら。

 女性特有の柔らかさに痺れながら。

 傭兵として、すべきことを思い出す。


「ありがとうございます。お金はどうぞ受け取ってください。今から、足りない分を稼いで来ます」

「何時だと思ってるの? もうすぐ陽が暮れるのよ?」


 女医から一歩後退し、エウィンは決意を宣言する。

 親切心に甘えながらも、厚意に頼り切るつもりはない。そう判断した以上、夜が来ようとお構いなしに働く。

 そのための力は、既に手のひらの中だ。

 才能を突破したのだから、停滞していた頃のエウィンはここにはいない。

 アゲハが転生したように、この少年もまた、生まれ変わったのだから。


「大丈夫です。僕はもう、万年ウサギを卒業しましたから。そうだな、うん……、これと言って新しい二つ名は思いつかないですけど」


 そもそも自称はかっこ悪い。誰かに決めてもらいたいが、それは別の機会ということだ。

 鞄を背負い、扉へ向かいながら、行動を開始する。


「アゲハさんのこと、よろしくお願いします」


 仕事の時間だ。

 アンジェの言う通り、外はほんのりと色を失いつつある。真上に太陽を探そうと、それは既に西の彼方だ。

 そうであろうと問題ない。魔物の気配を探し、感じ取れば済む以上、暗闇は障害としては弱い部類だ。

 傭兵が勇み退室したことで、当然ながら女医だけがその場に取り残される。

 座り慣れた椅子に臀部を落とし、腕を組みながら、愚痴らずにはいられなかった。


「乳押し付けてみたけど、こんなんじゃ惚れてくれないか。はぁ、そろそろ身を固めたい」


 三十路前の深刻な悩みだ。焦ったところでパートナーは見つからないと理解しながらも、医療に従事した自分を恨んでしまう。

 その時だった。

 ガチャリと扉が開く。


「すみません、表から出られませんでした……」


 ばつが悪そうに、そして恥ずかしそうに、エウィンが顔を見せる。


「さっき閉めたからね。従業員用の裏口まで案内するわ」

「す、すみません、お手数おかけします……」


 かっこつけてはならない。そう認識した瞬間だ。そもそもそういった性分ではないのだから、慣れないことをした結果の失敗と言えよう。


「い、行ってきます……」

「無茶するんじゃないよ」


 赤面しながらも、エウィンは再度出発する。

 慣れない街並みを颯爽と駆け、傭兵はその区画からあっという間に姿を消す。

 次の瞬間には城下町に到着だ。自由落下による急降下ゆえ、本来ならば落下死を免れないはずだが、この少年は当然のように無傷で着地を成功させる。

 夕刻ということもあり、大通りは帰宅途中の人間で渋滞だ。

 焦る気持ちに急かされた結果、エウィンは裏道を跳ねるように突き進む。


(依頼を探さないと……。あ、さっきの残ってるかな? 残ってると嬉しいな)


 草原ウサギでの金策は今日で卒業だ。小銭しか稼げないのだから、今後は傭兵らしい手順で収入を得る。

 その第一歩だ。

 魔物単体の売却価格は低く設定されており、依頼をこなすことこそが本来の稼ぎ方だ。

 目星はつけている。それが掲示板に張られていることを祈りながら、鳥のように宙を舞い、いくつもの建物を飛び越えて進む。

 到着は、街灯の点灯より早かった。エウィンは両開きの扉から、通い慣れた施設に足を踏み入れる。

 入館と同時に右手方向へ進み、同業者を避けながらその掲示板を見上げる。

 ホッと漏れたため息は、安堵の証だ。


(良かった。よし、これに挑戦しよう)


 目当ての羊皮紙を剥がし、さらに奥を目指す。その先には手続き用の窓口が備わっており、依頼の受発注が可能だ。

 カウンターの奥には女性職員が待機しており、長い髪はエウィン同様、綺麗な若葉色だった。

 眼鏡の奥の瞳に見つめられながら、傭兵は羊皮紙を提出する。


「この依頼を、受注したいです」

「こちらですね、かしこま……、え?」


 その硬直は必然だった。

 二人は知り合いでもなければ顔見知りですらない。それでも、職員ゆえに傭兵の顔くらいはある程度把握出来ている。

 ましてや、エウィンは知る人ぞ知る落ちこぼれだ。万年ウサギという二つ名は伊達ではない。

 ゆえに、この女性は驚いてしまう。

 草原ウサギしか狩れない傭兵が、それ以外の魔物を討伐しようとしており、言い方を変えるなら、この行為は死地に向かうと同義だろう。


「こちらの依頼内容ですが、ウッドファンガーを三体討伐する必要がございまして、その、本当に挑戦されますか?」


 ここで改心させなければ、この少年が死んでしまう。そう思っての善意なのだが、今のエウィンには全く刺さらない。


「はい、大丈夫です。遅くとも明日中には……、何でしたっけ? あぁ、傘の部分を三体分、持ち帰ります」

「か、かしこまりました……。ギルドカードのご提示をお願いします」


 こう言われてしまっては、彼女も無下に拒むことは出来ない。

 エウィンは手のひらサイズのカードを鞄から取り出し、長方形のそれを窓口にそっと置く。

 ギルドカード。一見するとただの身分証のようだが、実は魔法のカードと呼んでも差し支えない。

 名前や等級という個人情報が記録されており、そればかりか、携帯しているだけで魔物との遭遇履歴すら自動的に保存してくれる。

 傭兵組合にはそれを読み取る装置が設置されており、そういった類の機械をこの世界では魔道具と呼称している。

 女性職員が手早く手続きを済ませれば、依頼の受注はあっという間に完了だ。


「お気をつけて」

「ありがとうございます」


 エウィンにとっては初めての遠征となる。

 傭兵歴は既に十一年。遠出のタイミングとしては余りにも遅いが、歩むペースは人それぞれで構わないはずだ。

 ギルド会館から大通りへ。目当ての依頼を選ぶことが出来たことから、今回は焦ることなく人の往来に身を委ねる。

 その最中に街灯が街並みを照らし始めるも、エウィンのテンションは上がる一方だ。


(報酬は一万イール。高くはないけど、今の僕には丁度良い)


 前向きに捉える。金額そのものは申し分ないものの、借金はそれ以上ゆえ、本来ならばもっと高額な依頼に飛びつきたい。

 しかし、今回はこの依頼こそが正解だ。

 その理由は二つ。

 討伐対象がウッドファンガー。先ず、この点が大きい。

 これはその名の通り、キノコと瓜二つの姿をしているのだが、その強さは草原ウサギの次くらいだと考えられている。

 そうは言っても人間がどうこう出来る相手ではなく、拳銃を何発撃ち込もうと、殺すにはかなりの弾数が必要だ。


(ルルーブ森林か。懐かしいな)


 もう一つの理由が、目的地だ。

 ルルーブ森林。ウッドファンガーの生息地であり、マリアーヌ段丘の南西に位置する。

 地図がなくともエウィンが唯一たどり着ける土地ゆえ、今回の依頼は渡りに船だった。

 次のステップという意味でも。

 新たな挑戦という意味でも。

 この魔物の討伐は適任だ。

 帰宅する者達と共に大通りを歩き、城下町の中央広場に着いたらそこを左折。

 その後は歩行者の流れに逆らいながらひたすらに直進する。

 巨大な門をくぐり、門番に会釈をすればそこから先は王国の外だ。

 先ずはこの大草原を突破する。

 マリアーヌ段丘。いつもならここで狩りをするのだが、今回は縦断しなければならない。

 徒歩なら四、五日程度は見込むべきか。

 もちろん、そんな悠長な計画はたてられない。アゲハが待っているうえ、治療費を支払わなければならないのだから、少年は王国に背を向けに、夜の野原を駆けだす。

 その勢いは凄まじく、彼の後ろ姿を眺めていた軍人が腰を抜かすほどだ。

 それこそ、弾丸のような速さと表現しても差し支えない。

 走る。

 無人の大地を、ひたすらに走る。

 日が沈み、完全な暗闇に飲み込まれようと、怯むことなく手足を動かし続ける。

 迷う必要はない。

 迷う理由もない。

 ましてや、恐れることさえ、もうしない。

 その地はかつてのトラウマだ。

 あの時は何も出来なかった。

 母を見殺しにして、自分だけが生き残ってしまった。

 六歳の子供は恐怖しながらも、死に物狂いで逃げることしか出来なかった。

 しかし、今は違う。

 十八歳。

 その上、傭兵だ。

 あれから十二年。

 ただ生きてただけの、十二年。

 そんな過去とは決別した。

 坂口あげは。彼女のおかげだ。

 壁を越えた。

 才能という限界を突破することが出来た。

 だからこその次なる段階だ。

 金を稼ぐため。

 より多く稼ぐため。

 草原ウサギは後続の新人に譲り、この少年は強敵を狩り始める。

 逃げることしか出来なかった。

 魔物を恐れ、泣きながらも逃げ続けた。

 その結果、単身でイダンリネア王国にたどり着けた。

 母のおかげだ。

 母の犠牲によって、自分だけが生かされた。

 弱かったからこそ、守られる側だった。

 そんな過去を否定せず、先ずは受け入れる。

 そして、新たな立ち位置へ。

 誰かを守る。

 アゲハを守る。

 そのための力は手に入れた。

 ゆえに、今回の遠征に失敗はありえない。

 ルルーブ森林。母を奪った、恐怖の森。

 そうであろうと。

 だからこそ。

 エウィンは全力でその地を目指す。

 もう、逃げない。

 逃げる必要もない。

 逃げるとしたら、それは魔物の方だ。

 この少年は追いかける側であり、それを証明するため、先ずはウッドファンガーを狩猟する。

 報酬のために。

 実に人間らしい動機だ。

 そして、傭兵らしいとも言えよう。

 欲望のために、命を奪う。それ以上でもそれ以下でもない。シンプルな構図であり、だからこそ、この仕事は止められない。

 エウィンは走る。

 がむしゃらに走る。

 障害物など存在せず、己の思うが儘、マリアーヌ段丘を南下し続ける。

 時に夜空を見上げ。

 時に草原ウサギを追い抜き。

 汗だくになりながらも、四肢だけは決して止めない。

 その結果、暗闇の向こうに森が見え始めた。立ち並ぶ木々は紛れもなく目的地だ。

 王国を出発して、たった一時間後のことだった。

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[良い点] エウィンのこれからの物語、楽しみにしています!
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